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2007年2月

2007.02.28

新選組血風録の風景 ~池田屋異聞その4~

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(壬生寺・新選組隊士慰霊塔)

(新選組血風録概要)

(山崎が新選組に入ったのは、文久3年暮れであった。翌元治元年の正月、山崎は道場にあいさつに訪れた。すでに町人ではないつもりの山崎であったが、応対に出た師匠の娘の扱いは冷たいものであった。)

(道場の板の間に通され、寒さに凍える山崎。その頃、奥の座敷には、大高忠兵衛が居た。忠兵衛は年来、尊皇攘夷の志士として活躍していたが、8・18の政変以来、幕吏に追われる身となってしまっていた。心身共に疲れ果てた忠兵衛は、この道場に匿われていたのである。)

(忠兵衛は、山崎が自分を捜しに来たと思っていた。そこで山崎を斬ろうと考え、厠に入った山崎を待ち受ける。外のただならぬ気配に気付いた山崎は、あやうく忠兵衛の剣を交わす。何の遺恨かと叫ぶ山崎を犬と呼び、奥野将監の血筋は争えぬと謎の言葉を吐く忠兵衛。)

(訳の判らぬまま忠兵衛と争う山崎だったが、なぜか師匠の娘までが忠兵衛に加勢する。二人がかりの攻撃に、たまらず逃げ出す山崎。その背中に向かって、いぬ!と叫ぶ師匠の娘。)

・山崎は単身赴任だった?

「山崎の入隊時期は、あまりはっきりとはしません。8・18の政変の出動者には名前が見えず、翌年5月には古高探索に従事していた事から、文久3年の暮れから翌年にかけて入隊したものと思われます。つまり、小説の設定はほぼ史実に沿ったものと言えますね。」

「山崎には琴尾という妻が居たとされ、入隊時には既に一緒になっていたのかも知れません。当時山崎は30歳前後と考えられており、既婚者であったとしても不思議ではないですね。」

「一説に依れば、新選組の新入隊士に対しては、妻帯者は10里以上離れた場所に妻子を住まわせた上で、単身で入隊すべしという取り決めがあったと言います。山崎の場合は、大阪に父親と妻を残しての単身赴任だったのでしょうか。」

「その後、幹部に登用されると共に家族を壬生に呼び寄せたものらしく、林家(山崎の本姓は林)の過去帳は壬生寺にあります。おそらくは新選組の屯所近くに、山崎が家族と共に住んでいた家があったのでしょうね。」

「その後、山崎は鳥羽伏見の戦いで傷付き、江戸に向かう船中で亡くなったとされますが、家族を京都に残していたとすると、その心中はいかばかりのものだった事でしょう。瀕死の重傷の身で、故郷と家族を捨てざるを得なかったと考えると、同情の念に堪えないですね。」

以下、明日に続きます。

(参考文献)
子母澤寛「新選組始末記」、新人物往来社「新選組銘々伝」、伊東成郎「閃光の新選組」


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2007.02.27

新選組血風録の風景 ~池田屋異聞その3~

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(新選組血風録概要)

(文久3年の晩秋、新選組に入る事になった山崎は、久しぶりに高麗橋の実家に帰った。その時父が何を思ったのか、道場に高名な具足師が居るのかと尋ねて来た。山崎が忠兵衛の事を伝えると、父は見る見る不快な表情になり、その男は赤穂四十七士の一人、大高源五の子孫の者だと言った。)

(元禄15年の暮、赤穂の四十七士が吉良邸に討ち入った。彼等の子は罪人の縁者として遠島などに処されたが、6年後に許されると諸家が争って彼等を召し抱えた。赤穂義士の人気は親類縁者にまで及び、大高氏では播州の同族の郷士から一人を選んで源五の死後養子とし、その家系を存続させた。)

(忠兵衛の家系がこれであり、彼もまた自らを大高源五の曾孫と言っていた事から、諸藩の武士から尊崇され、賓客として招かれていた。あいつの尊大さはそんなところから来ているのかと、山崎はますます忠兵衛を憎く思った。)

・大高忠兵衛と赤穂義士

「この作品においては、大高忠兵衛が赤穂義士の子孫であるという事が、重要なコンセプトの一つになっています。ではこれが事実かというと、微妙なところの様ですね。」

「実は大高源五の子孫と称していたのは、大高又次郎の方だった様です。又次郎は忠兵衛の義父とも義兄弟とも言われている人物ですが、長州に行った時に吉田松陰と会い、自らを源五の子孫と名乗ったのだそうです。」

「これが単なる自称だったのか、あるいは本当にそういう家系だったのかは判りません。しかし、そういう伝承があるというだけでも、志士の間で重く見られたであろう事は想像が付きます。」

「今でも赤穂義士は人気がありますが、当時の人気は遙かに凄く、歌舞伎が不入りな時でも忠臣蔵を上演すれば、たちまち大入りになるとされていました。すなわち、庶民における人気者だった訳ですが、武士階級にとっては倫理観を象徴する人物群でもありました。」

「他ならぬ新選組のだんだら模様の羽織は、歌舞伎における義士達の衣装を真似て作られたものとされていますし、長州藩の吉田稔麿もまた、忠義をあり方を示すものとして義士を称えています。尊皇・佐幕を問わずに義士は尊崇されていた訳で、又次郎の家系伝説は、志士として活動する為には大いに役立った事でしょうね。」

「ところで、肝心の忠兵衛ですが、大高家の養子という意味からすれば、子孫と言えなくも無いのでしょうね。しかし、元来は別の家系の出であり、曾孫と自称するには少し無理があると思われます。なぜ作者が又次郎ではなく忠兵衛を主役に選んだのかは判りませんが、もしかしたら名前の中にある「忠」の字に惹かれたのかも知れませんね。」

以下、明日に続きます。

参考サイト「忠臣蔵寺子屋

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2007.02.26

新選組血風録の風景 ~池田屋異聞その2~

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(大高又次郎寓居跡)

(新選組血風録概要)

(山崎が大高忠兵衛と初めて出会ったのは、目録を取って間もない頃の事だった。)

(ある暑い日の夜、山崎は一人で船を雇い、土佐堀川に浮かんだ。蜂須賀屋敷の裏まで来た時、賑やかに管弦を奏でる船があった。武士が5人に芸妓が5人。武士達は言葉のなまりから、どうやら長州藩士の様だった。)

(その中の正客らしき男は、色白太り肉で大黒顔に微笑をたたえた、落ち着いた様子の人物だった。しかし、山崎にとっては、ぞっとするほど嫌味な相手に思えた。)

(山崎が船頭に船を帰せと命じた時、山崎の船の舳先が武士達の船の横っ腹に当たった。船の真ん中で踊っていた武士はよろめき、腹立ち紛れに山崎に向かってここに来て謝れと居丈高に迫った。)

(山崎はそれを無視したが、武士達の船の船頭が面白がって、山崎の船の横に付けてきた。調子に乗って山崎の船を揺さぶる武士。正客の男は相手は町人だからと制止するが、山崎はかえって止め男の方を疎ましく思う。)

(山崎が後ろ向きに焼けた炭を投げると、それが武士の顔に当たった。あっと驚いて手を離す武士。船が岸に着くや山崎は船から飛び下り、喧嘩なら買ってやろうと武士を挑発する。)

(武士が山崎に続いて岸に飛び移ろうとした時、山崎は持っていた棒で相手の鼻柱を殴りつけ、川の中に落としてしまう。そして、そのまま棒を巧みに操り、相手を水の中で気絶させた。死んだと皆が騒いでいる隙に、姿をくらます山崎。)

(その翌日、驚いた事に、昨夜の喧嘩の止め男が山崎の道場にやって来た。露見したかと恐れる山崎だったが、実はそうではなく、男は師匠の客として来ているのだった。)

(師匠は門弟を集めて男を紹介した。男は播州の大高忠兵衛という高名な具足師で、大阪城代の招きで来阪していた。諸藩の藩邸にも出入りし、非常な尊崇を受けているらしい。剣は同門の達人であり、道場においては師範代格として遇された。)

(他の門人には教えを請えと言う師匠だが、なぜか山崎にだけは竹刀を交えるなと命じた。理由を聞いても、判っているだろうと言うだけで、それ以上は答えようとしない。)

(ある日、道場の横の犬道で、師匠の娘と話している大高と出会った。師匠の娘とは、山崎が密かに想いを寄せている相手である。嫉妬混じりに足早に近づくと、さすがに娘は狼狽して去ったが、大高は落ち着いた微笑を向けた。)

(山崎は黙礼したまま通り過ぎようとした。すると、大高は山崎に並び掛け、あの男は死んだとささやいた。山崎はあっと驚き、無腰であったため相手の脇差しを取ろうと手を掛けた。大高はその手を押さえ、立ち会いなら道場でやろうと落ち着いて言う。)

(大高の目には、ありありと軽蔑の色が浮かんでいた。その目を見て、いつか殺してやると思う山崎。)

(しかし、その後長州藩からは何も言って来なかった。大高が黙っているのか、あるいは武士が町人相手に溺死させられた事を恥じて、事故死として処理してしまったのか。程なく大高は大阪での用が済み、京都へと去った。)

・山崎の棒術について

「山崎については、監察としての活躍は伝えられますが、剣客として働いたという記録は残っていません。通常言われるのは香取流の棒術の心得があったという事で、この小説の下りでも出てきますね。」

「香取流とは香取神道流の事でしょうか。香取神道流は千葉県香取に伝わる流派で、戦国時代に成立したとされ、戦場での格闘を想定した実践的な技を重んじます。剣術のほか、長刀術、槍術などを網羅した総合武術で、棒術もこの中に含まれます。」

「ただ、調べた限りでは棒術の使い手とする根拠は無く、新選組始末記には長巻をよく使ったとあります。長巻きとは長刀に良く似た武器ですが、鉾から発達した長刀に対し、大太刀から発達したのが長巻で、長刀よりもずっと重いそうですね。その分威力も大きく、戦場においては具足の上からでも相手の骨を折る事が出来るという、有効な武器でした。(この項「ウィキペディア」より)」

「山崎は比較的大柄な人物だったと伝えられますから、重くて長い長巻を使うには向いていたのかも知れませんね。新選組始末記には、斉藤一が良く立ち会っていたと記されています。」

・大高忠兵衛について

「大高忠兵衛は実在の人物で、播磨林田藩の郷士です。1823年(文政6年)の生まれで、池田屋で倒れた大高又次郎(小説では従兄弟)の養子とも、義兄弟とも伝えられます。忠兵衛は甲冑職の大高家に入った事で、自身も具足師となりました。」

「忠兵衛は又次郎と共に梅田雲浜と交流があり、彼の勧めに応じて京都に上ります。以後、尊皇攘夷の志士となり、具足師である事を生かして諸藩の家に出入りし、情報の収集に努めていたと言われます。」

「一方の又次郎は軍学や砲術に通じていたとされ、忠兵衛と共に志士として活動しました。古高俊太郎とも親交があり、池田屋騒動の直前には、桝屋の西隣の家を借り、家族と共に住んでいました。」

「古高が捕縛された際に桝屋から具足類が発見されるのですが、これは騒擾計画の為に集めたものではなく、又次郎が誂えたものを預かっていただけという説もあるようですね。」

「上の写真はその又次郎が住んでいたとされるあたりの現状です。「しる幸」が桝屋跡とされますから、その手前辺りに家があったのでしょうか。ここは非常に道幅が狭い界隈ですが、当時は左側には家は無く、高瀬川から続く舟入でした。そう思うと、当時は今よりずっと開放感がある景色だった事でしょうね。」

以下、明日に続きます。

(参考文献)
子母澤寛「新選組始末記」、新人物往来社「新選組銘々伝」

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2007.02.25

新選組血風録の風景 ~池田屋異聞~

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(壬生寺)

(新選組血風録概要)
(大阪に居る頃、山崎蒸は鍼屋の又助と呼ばれていた。谷町にある平井徳次郎の神心明智流の道場に通い詰め、実家にはほとんど帰らなかった。)

(山崎は道場の中でも抜群に強かったが、突っころばしの又助と呼ばれ、倒れた相手にもなお打ち込むという残忍さがあった。このため、師匠は山崎の剣には品が無いとして中伝以上を与えようとはしなかった。)

(山崎の父親である五郎左衛門は、赤壁と呼ばれた林屋という屋号の鍼医だった。山崎はその次男であったが、曾祖父の代までは武士であったと言い聞かされて育った。それも並々ならぬ家系であるという。)

(山崎が目録を受けた時、父に隠し姓を聞いた。しかし、父は本当の姓は言えぬとし、祖先の地である山崎を名乗れと言った。それを聞いた師匠は、奥野とは言わなかったのかと確かめたが、父の意向なら仕方がないとそれ以上は言わなかった。)

・山崎は鍼医者だったか

「山崎と言えば、大阪の鍼医者の息子となっています。これは、子母澤寛の「新選組遺聞」に、「あれは大阪の林五郎左衛門という鍼医者の小せがれ」とあるからで、八木為三郎が語った言葉とされます。」

「山崎家の過去帳は意外な事に京都の壬生寺にあり、父親の五郎左衛門もまた壬生共同墓地に葬られています。山崎の本姓は林と言い、「新選組遺聞」の記述と一致しますね。」

「また、過去帳には五郎左衛門の妻が万延元年に大阪で亡くなったという記載もあり、元は大阪に居た事が確認できます。いつの頃からか、京都に出てきていたのですね。ただし、父が鍼医であったかどうかについては、ここからは確認できません。」

「次に、山崎が新選組に入った後、松本良順が山崎に救急法を伝授した事がありました。その時山崎は医家の子と自称し、「我は新選組の医師なり」と言って笑ったとされています。これらの事を総合すると、山崎は大阪の鍼医の息子であったという為三郎の言葉は、どうやら真実であったらしいと言えそうですね。」

・神心明智流とは

「作品中に、山崎の道場は神心明智流だったと出てきます。山崎は普通は棒術の使い手とされ、剣術の流儀については伝わっていません。一方、神心明智流という流派は、調べた限りでは実在しない様です。おそらくは神道無念流と鏡新明智流を合わせて創作した流儀の様ですね。」

「後で登場する大高忠兵衛もまたこの流儀とされていますが、彼の流派もまた伝わっていません。どうやら、二人の宿命の出会いの場所を作るために、作者が設定した虚構という事の様ですね。それにしても、いつもの事ながら、司馬氏の構成力の見事さには脱帽する思いがします。」

以下、明日に続きます。

(参考文献)
子母澤寛「新選組遺聞」、新人物往来社「新選組銘々伝」

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2007.02.23

新選組血風録の風景 ~長州の間者その12~

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(祇園祭 函谷鉾)

(新選組血風録概要)

(新作の横顔を見ながら沖田は言う。「桝屋の正体が古高である事を知ったのは昨夜遅くの事であったが、今朝早く局内に噂として流してみた。すると、果然、屯所を抜けていく男が居た。我々はその男の後を尾行した事になる。」)

(その男とは誰かと聞く新作に、君の仲間だと答える沖田。新作がえっと驚いた時、往来に松永が現れた。夢中で立ち上がり、松永に向かって突進する新作。不意に現れた新作に気付き、全てを悟る松永。)

(往来で対峙する二人。松永の背中には、祇園会の鉾が夏雲に向かって伸びていた。その時、新作の目には、辻々に走り込んでいく新選組隊士達の姿が見えた。原田、斉藤、永倉、それに近藤。)

(周囲を固められたと知り、我々は逃れられぬと新作に声を掛ける松永。彼は最後の人斬りとばかりに、新作に斬りかかる。彼は新作が面打ちに来ると知っており、そこを狙って小手打ちに行った。新作はその裏をかき、松永の胴をはらった。数歩走って、井筒屋の前で倒れる松永。)

(しかし、新作も松永の最期を見届ける事は出来なかった。なぜか身体が仰け反り、鉾の先端が目に入った。そして、それが大きくなり、やがて意識を失なう。新作の遺体の傍らでは、沖田が刀をぬぐいながら、無邪気な様子で鉾を眺めていた。)

(後で二人の身体を改めると、松永の懐からは長州の久坂に充てた古高の紹介状が出てきた。しかし、新作からはお守りに入れた弁財天の御札が出てきたばかりだった。)

・古高の捕縛について

「小説では、局長自らが出動した大捕物になっている古高の捕縛ですが、実際に出動したのは武田観柳斎と数人の隊士だった様です。出動した隊士が意外に少ないのは、この時にはまだ古高がそれほどの大物とは判っていなかったからなのでしょう。時刻も小説の様に日中ではなく、夜が明ける直前だった様ですね。」

「古高の正体が露見したきっかけには種々の説があります。」

「まず一つめは、宮部鼎蔵の下僕である忠蔵が捕らえられた事に依るとするものです。これについては以前に紹介しているので詳しい事は省略しますが、少し付け加えると、忠蔵が捕らえられたのは南禅寺へ行った帰りの事だった様です。」

「この頃、南禅寺の天寿庵が肥後藩の陣屋になっており、忠蔵はそこに宮部の使いとして行ったのですね。この天寿庵は応仁の乱で荒廃した後、細川幽斎によって再建されており、肥後藩とは何かと深い縁があったのです。」

「次いで、桝屋の裏手に住んでいた、小鉄という人物が情報をもたらしたという説があります。小鉄は侠客として知られますが、同時に会津藩の中間を勤めており、新選組の密偵でもあったというのですね。」

「小鉄は義侠心に溢れた人物だった様で、後の鳥羽伏見の戦いにおいて、旧幕府軍の兵士の死体は賊軍であるとして路上に放置されていたのですが、彼は危険を顧みずに子分を動員してこれを寺々に集め、埋葬して回向を施したと伝えられています。」

「さらに、桝屋の主人となった古高でしたが、商売には不熱心でした。この事を詰った手代が解雇されてしまい、その恨みを晴らすべく新選組に密告したとする説もあります。」

「いずれにしても、この時期には200人以上の長州系の過激派志士が洛中に潜伏しているという情報が入っており、幕府方はその摘発にやっきになっていた時期ですから、その中心に居た古高の正体があぶり出されるのは時間の問題だったと思われます。」

・小説の舞台の紹介

「この場面の舞台となっているのは、四条河原町から少し北に上がったあたりになり、人通りも車の通行量も非常に多い、京都でも最も賑やかな場所です。もしも今こんな決闘があったとしたら、とんでもない大騒ぎとなる事でしょうね。この周辺には幕末の史跡も多く、わずか100m程の範囲内に、中岡慎太郎寓居跡近江屋跡土佐藩邸跡などがあります。」

「小説ではかなり広い通りの様に描かれており、おそらくは現在の河原町通を念頭に置いて書かれたものと思われます。しかし、当時の河原町通は非常に狭く、現在の東側の歩道分ぐらいの幅しかありませんでした。だとすると、松永と新作が対峙しているだけで道幅が一杯になり、古高捕縛に向かう隊士達は、二人の脇をすり抜けていった事になりますね。」

「そして、河原町通に鉾町は存在せず、沖田が新作を斬った後に鉾を眺めていたというのは、あり得ない描写です。これも絵としては判るのですが、何かと誤解を招く元ですね。ちなみに、幕末の頃の山鉾巡行の経路は寺町通で、河原町通を通るようになったのは昭和41年からの事です。」

参考文献
新人物往来社「新選組を歩く」、新創社編「京都時代MAP 幕末・維新編」、木村幸比古「史伝 土方歳三」


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2007.02.22

新選組血風録の風景 ~長州の間者その11~

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(古高俊太郎邸址)

(新選組血風録概要)

(往来を見張りながら、新作は沖田に、ここを通り掛かるのは一体誰なのかと聞いた。沖田はとぼけているのか、君は知らなかったのかねと聞き返し、長州の間者だとすらりと言った。うなずきながらも、自分でも顔から血の気が引いて行くのが判る新作。)

(沖田は、間者の中にも上には上があり、この小路の奥に居る桝屋喜右衛門は長州の間者の大元締めだと言う。無論、桝屋は世を忍ぶ仮の家業で、本名を古高俊太郎と言い、浪士の間でも名の通った男だった。)

(新作は古高の名も知らなかった。そして不都合な事に、隊内に居るもう一人の間者は古高に直結しているのである。疎外されたと感じた新作は、だんだんと怒りがこみ上げてきた。そんな新作の横顔をじっと見つめる沖田。)

・古高俊太郎と桝屋について

「古高俊太郎は、1829年(文政12年)に、近江国栗太郡古高村(現・守山市)の郷士の子として生まれました。長じてのち、草創期の尊皇攘夷の志士として知られる梅田雲濱の塾に学び、筋金入りの尊攘志士となったとされます。」

「古高は、父の後を継いで山科毘沙門堂門跡の家来となり、そこから伝手を辿って朝廷内に人脈を築いて行きます。特に有栖川宮との繋がりを持った事が大きかった様ですね。」

「古高はまた、長州藩の毛利家とは遠縁にあたっていた様ですね。縁と言っても非常に希薄なものですが、一応書いておきます。古高の叔父(母の腹違いの兄弟)の母は、長州藩の支藩である徳山藩の藩主に仕え、堅田駿河守を産みました。この駿河守の兄弟である毛利元徳が萩藩主毛利敬親の世子となっているのです。」

「まあ、今から見ればあるのか無いのか判らない様な縁ですが、「家」というものが大きな意味を持っていた当時としては、これでも十分意味のある繋がりだった様です。形式的には叔父の「義理の兄弟」が藩主の世子ですから、古高はその「義理の甥」と言えなくもない訳ですね。こうした経緯から古高は、長州藩と有栖川宮を繋ぐ媒介となって行きます。」

「媒介としての古高の活動内容は、多岐に渡っていました。長州藩士による有栖川家への潜伏、長州藩から朝廷への嘆願を行うための橋渡し、有栖川家の人間の長州藩邸への潜伏などを仲介しています。さらに、勤王諸藩の志士達の間の連絡も取り次いでおり、北添佶麿、宮部悌蔵、中岡慎太郎、西郷隆盛など、多彩な人物と接触があった様です。まさに、長州藩の間者の大元締めと呼ばれるにふさわしい内容ですね。」

「古高が桝屋に入ったのは、あまりにその活動が目立ちすぎたため、世を眩ます事が目的だった様です。古高は、湯浅五郎兵衛という梅田雲濱の同士だった人物から、自分の親戚である桝屋の跡継ぎが絶えてしまったため、養子に入って店を存続させて欲しいと頼まれた様ですね。渡りに船とばかりに古高家は弟に譲り、自分は湯浅喜右衛門と名乗りを変えて桝屋の主人となったのです。」

「桝屋は薪炭商とも言い、馬具商とも言いますが、手広く商いを行っていた店だった様です。また、桝屋は黒田藩の御用達であったのですが、この縁は古高が武家や宮家を訪れる際の口実にもなったでしょうし、また侍姿の志士達が古高を訪ねて来るにも都合が良かった事でしょうね。」

「桝屋はまた、志士達の宿泊場所、あるいは集会所としても使われました。さらに、志士達に資金を提供した事もあった様ですね。桝屋はまさに、勤王派の一大拠点だったのです。」

以下、明日に続きます。

参考文献
新人物往来社「新選組を歩く」

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2007.02.21

新選組血風録の風景 ~長州の間者その10~

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(四条河原町一筋上がる)

(新選組血風録概要)

(元治元年6月4日の朝、新作は土方の部屋に呼ばれた。新作が部屋に入ると、どういう訳か沖田も居た。いつになく微笑を浮かべて話しかける土方を見て、胸騒ぎを覚える新作。)

(土方の命令は、四条河原町一筋上がるにある書店井筒屋の店先で通りを見張り、桝屋という店から出てくる男を斬れというものだった。その男とは新作も知っている同士の一人だという。そして、検分役として沖田も同行する。)

(四条通に出て東洞院を過ぎると、街が賑やかになってきた。気が付くと、明日は祇園会の宵宮になる。沖田は組み立て中の鉾や山の中を見ては、子供の様にはしゃいでいた。)

(井筒屋の場所はすぐに知れた。土州屋敷の少し北にあたる。店の中はひどく暗く、外からは何も見えない。往来を見張るには、もってこいの場所だった。)

・祇園祭について

「祇園祭の山鉾巡行は、現在では7月17日行われていますが、この日付は時代によって変遷があります。幕末の頃には巡行は前後2度に渡って行われており、それぞれ先の祭、後の祭と呼ばれていました。そして、先の祭は6月7日、後の祭は6月14日が本宮とされていました。」

「池田屋騒動があったのは元治元年6月5日の事であり、現在で言う宵々山に当たります。この小説では5日が宵宮とありますが、その元を辿れば子母澤寛の「新選組始末記」の記述に行き着きます。」

「現在の祇園祭では14日の宵々々山から祇園囃子が囃され、大勢の人出で賑わいますが、当時の夜の祭は宵宮しかありませんでした。ですから、ドラマや映画にある様に、町中に祇園囃子が流れていたという事もなく、いたって静かな夜だったと思われます。しかし、そう思うと何だか物足りない気がしますよね。」

「子母澤寛がことさらに5日を宵宮としたのは、雰囲気を盛り上げるための演出だったと思われます。やはり、祇園囃子を背景に、隊士が懸命の捜索を行っている方が絵になりますからね。あるいは、子母澤寛がこの本を書いたのは昭和の初め頃でしたから、単なる勘違いだったのかも知れませんが...。」

(お詫びと訂正:その後の調べで、祇園祭の宵々山は、幕末の頃から既に賑やかだった事が判りました。よって、この部分はお詫びの上、訂正させて頂きます。詳しくは「新選組血風録の風景 ~池田屋異聞その11~」を参照して下さい。)

・小説の舞台の紹介(四条河原町一筋上がる)

「小説に出てくる書店井筒屋という店は現存していません。かつて河原町通は本屋がずらりと並んでいた通りでしたから、あるいは井筒屋という書店もあったのかも知れませんね。しかし、今では本屋そのものがほとんど無くなり、この通り沿いには数えるほどしか残っていません。」

「小説の舞台設定はここでもおかしな事が書かれており、井筒屋があるのは土佐藩邸の少し北とあります。しかし、実際には土佐藩邸跡は蛸薬師通の辺りに位置しており、井筒屋がその北側にあったとすると四条一筋上がるどころではなくなってしまいます。このあたり、なまじの地理的知識を持っていると、余計な混乱を招ねく元になってしまいますね。」

「上の写真は、新作が見ていたであろう場所の現在の様子です。この細い道の名前は何というのでしょうね。当時はこの道の左手に、高瀬川から船を入れる為の水路「舟入」がありました。この道の奥に桝屋跡があるのですが、ここからでは、はっきりそれとは判りません。当時と今とでは景色がまるで違っていおり、かつてはもっと見通しが良く、桝屋もちゃんと見えたのでしょう。そして、そこには高瀬舟から荷を上げ下ろしする光景もあった事でしょうね。」

以下、明日に続きます。

参考文献
子母澤寛「新選組始末記」、新人物往来社「新選組を歩く」、新創社編「京都時代MAP 幕末・維新編」

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2007.02.20

新選組血風録の風景 ~長州の間者その9~

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(新選組血風録概要)

(梅松院で一人を斬って以来、新作は人を斬る事が容易になった。道場での立ち会いと違い、真剣で同じ相手に巡り会う事は二度と無く、得意技を一つ持てば良いと悟ったのである。そして、間合いの中に飛び込む為の図太さも会得した。)

(道場での稽古では、面打ちを重視した。長身という利点を生かした得意技とする為である。ある日、新作は松永と稽古で立ち会った。新作は勝負を度外視し、面技にばかりこだわった。そのため、松永に翻弄されてしまったが、松永もまた新作に脳天を打ち抜かれて、二、三度目を回しかけた。剣としては融通の利かない下品だと言う松永に、自分程度の腕ならこの方法しか無いと返す新作。)

(ある日、巡察から帰ると、前川邸で異変が起きていた。三人の長州の間者が殺されたと言うのである。楠小十郎が原田に、御倉伊勢武が斉藤に、そして荒木田左馬亮が永倉によって斬られていた。隊内の間者は一人と聞かされていた新作は不審に思う。)

(五日後、小膳に会った新作は、もう一人の間者が殺されたと告げた。最初は驚いた小膳だが、それが五日前の事だと知ると顔を明るくした。どうやら、つい最近に会ったばかりの様子である。新作は本当の間者は誰なのかと問いつめるが、小膳は巧みにはぐらかしてしまう。)

・長州の間者の粛正

「荒木田左馬亮ら長州の間者とされた隊士が粛正されたのは、文久3年9月26日の事でした。その様子は、新撰組顛末記に詳しく記されています。」

「この前日の夜、御倉、荒木田、越後、松井竜次郎の四人は、永倉と中村金吾を祇園一力に誘い、暗殺を企てようとしました。しかし、彼等の企みに気付いた永倉は、全く隙を見せなかったので暗殺は失敗に終わります。」

「新選組では彼等を間者とは気付いていたのですが、泳がせる事で長州側の情報を探ろうとしていました。しかし、ついに害意を明らかにしたので、粛正する事に決めてしまいます。」

「この日、荒木田と御倉は屯所に髪結いを呼び、縁側で月代を剃って貰っていました。永倉は斉藤と林信太郎の二人の隊士と語らい、その背後からそっと近づきます。そして、永倉の合図で一斉に脇差しで突き刺しました。不意を突かれた二人は刀に手を掛けただけで即死してしまいます。」

「一方、越後と松井に対しては、沖田と藤堂が彼等の部屋に切り込みました。しかし、いち早くその気配を察した越後達は、部屋の窓を破って逃げてしまいます。」

「越後達に逃げられた沖田は、隊内に彼等と同心の者が居る、油断めさるなと叫びました。その声を聞いて飛び上がったのが、松永と楠でした。松永は井上の追撃を振り切って、背中に軽傷を負っただけで逃げ切ったのですが、楠は原田に捕まります。」

「原田は近藤の前に楠を連れて行こうとしたのですが、楠はああだこうだと抗弁して言う事を聞きません。かっとなった原田は、遂に抜き打ちで楠の首を刎ねてしまったのでした。」

「この楠小十郎の最後については異説があります。「新選組物語」に依れば、楠が殺される場面を八木為三郎が見ていたと言うのです。楠は17歳くらいという若い隊士で、美男五人衆に数えられるほどの美形だったと伝えられます。」

「彼はとても優しい性格の隊士で、子供だった為三郎とも良く遊んでくれました。この日の朝は深い霧に覆われており、楠は前川邸の門のところに立って、うっとりと霧を眺めていました。為三郎少年は楠の姿を見て声を掛けようとしたのですが、その瞬間、楠が「わっ」と声を上げて駆け出しました。」

「その時分の前川邸の前には水菜の畑が広がっており、楠はその畑の中に駆け込みました。その背後から抜き身の刀を持って「野郎!」と言って飛び出してきたのが原田です。為三郎少年は怖くなって、そのまま家に逃げ帰りました。」

「それから暫くして、為三郎は家の者と一緒に現場に来てみたのですが、前川邸の門は固く閉められていました。そして、畑の方に行ってみると、あちこちが踏み荒らされ、血の固まりが点々と落ちています。三、四十間も行くと、水菜が一坪程も踏み荒らされていて、血溜まりが出来ていました。八木家の人々はこの凄惨な現場を見ると、ここでやられたんだと異口同音に言って顔を背けたそうです。」

「楠が掃いていた下駄は、一つは門前に、もう一つは斬られた現場に土まみれになってなって落ちていました。仲の良かった為三郎少年は、痛ましい楠の最期を思って心を痛めた様ですね。なお、越後、松永、松井の三人は、この深い霧に紛れたおかげで逃げ切る事が出来た様です。」

「いずれにしても、こういう内部粛正の場面の描写は凄惨極まりなく、新選組の暗部を見る思いがします。特にこの文久3年9月という月は、新見、芹沢、平山に続く粛正ですから、草創期の新選組は、まさに血塗られた歴史の幕開けとなったのでした。」

以下、明日に続きます。

考文献

子母澤寛「新選組始末記」、「新選組物語」、永倉新八「新撰組顛末記」


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2007.02.19

新選組血風録の風景 ~長州の間者その8~

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(今熊野神社)

(新選組血風録概要)

(梅松院への出動があった直後、編成替えにより新作は沖田の一番隊に配属された。そして、直属する伍長は、人斬りと呼ばれた松永主膳となった。松永は人を斬るのが何よりの楽しみという男で、近藤や土方でさえ顰蹙するような風狂人だった。)

(新作は、松永が竹生島で寺小姓をしていた事を知り、これも弁財天女のもたらした縁かと不思議に思う。今熊野の姉の家に帰った時、社寺の事情の詳しい義兄に松永の事を聞いてみた。義兄に依れば、神仏混淆の竹生島には僧と神官が居て、都久夫須麻神社の神官には荒木田姓が多く、松永は宝厳寺に居たのだろうとの事。)

(新作が荒木田なら左馬亮という人物が隊にも居ると言うと、近江なまりがあるなら竹生島だと断言する義兄。しかし、松永と荒木田の間には交流はなく、同郷にしては不自然だと不審を抱く新作。)

(つかの間のおそのとの逢瀬。しかし、小間物屋の件でまたしても諍いになり、気まずくなってしまう。京女は好いても惚れぬと言う新作に、壬生浪の子は産みたくないと返すおその。弁財天女の利福とはこんなものかと思ってしまう二人。)

・松永主膳について

「松永主膳のモデルとなった隊士は実在していて、松永主善という一字違いの人物です。壬生浪士組結成当時のメンバーには入っていませんが、8・18の政変の際には出動したとされ、おそらくは文久3年6月頃に入隊したと考えられています。とすると、実は新作と入隊時期はそう変わらないという事になりますね。」

「永倉新八の同士連名記には京都浪士とあり、小説の様に竹生島出身という事実はありません。新選組における松永の事績はこれといって残っておらず、人斬りと呼ばれた事も無い様ですね。ただ、長州の間者ではないかと、ずっと疑われていた人物ではあった様です。」

「松永に関する唯一の記録が、脱走時の出来事です。文久3年9月25日に、長州の間者として御倉伊勢武らが粛正されます。この時、この騒ぎに驚いて逃げ出したのが松永でした。井上源三郎がその背後から襲い掛かって一刀を浴びせたのですが、松永の逃げ足は早く、薄手を負っただけで逃げおおせてしまいました。これ以後の松永の消息は何も判っていません。」

「この小説の様に創作性の高い作品を書くに当たっては、松永の様に実在はしたものの、その事績はほとんど判っていないという人物は、何かと便利な存在なのでしょうね。リアリティーを確保しつつ、設定の自由も同時に得られる訳で、司馬氏の小説技法の巧みさを感じます。」

・小説の舞台について

「新作の姉の家があるとされる今熊野とは、智積院の南から泉涌寺にかけての東山沿いの地域を指します。地名の起こりは新熊野神社(いまくまのじんじゃ)にあります。この神社は、1160年(永暦元年)に後白河法皇によって熊野から勧進され、創建されました。源平が争った平治の乱の翌年の事ですね。」

「この頃は熊野信仰が盛んで、新熊野神社の造営にあたっては、わざわざ紀州から土砂材木等を運び、熊野をそのまま再現したと伝えられます。上の写真にも一部写っていますが、社頭の大樟もまたその時に熊野から運び、上皇自らがお手植された木だと伝わっています。遠くからでもそれと判るほどの雄大な木で、樹齢は900年を数え、熊野の神降臨の霊樹とされています。」

「なお、「新」と付くのは、既に熊野神社があったためで、現在でもその神社は東山丸太町の交差点に神域を留めています。」

「現在の今熊野は家屋が密集する地域になっていますが、当時は京都の町はずれで、ほとんど人家は無かった様ですね。泉涌寺の家来であったという義兄の家がどこにあったのかは見当が付きませんが、泉涌寺の門前近くだったのでしょうか。」

「今熊野は東大路通沿いに商店街が並ぶ賑やかな場所だったのですが、現在では商売を止めた店舗が多くなり、いわゆるシャッター通り商店街となりつつあるようです。しかし、まだまだ活気は感じられる場所なので、このまま終わってしまうことなく、かつての賑わいを取り戻してほしいところですね。」

以下、明日に続きます。

考文献

新人物往来社「新選組資料集」、別冊歴史読本「新選組の謎」、子母澤寛「新選組始末記」、永倉新八「新撰組顛末記」


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2007.02.18

新選組血風録の風景 ~長州の間者その7~

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(千本釈迦堂)

(新選組血風録概要)

(12月3日、千本釈迦堂の境内にある梅松院という寺に、浪士が密会しているとの情報が入った。十番隊に出動命令が下り、新作も原田に従って屯所を出た。その時、何を思ったか、沖田も現場まで同行した。)

(寺に踏み込んだ時、浪士の一人が、さっきのは嘘ではなかったのかと口走った。それを聞き、もう一人の間者が知らせたのだと気付く新作。沖田は新作の背後にあって、その動きを注視している様だった。そして沖田から指図されるままに、新作は浪士の一人を斬ってしまう。)

・新選組の巡察区域について

「新選組というと、京都市中を隈無く巡察していたような印象がありれますが、実際には見廻組や京都所司代、京都守護職といった他の警察組織と地域を分担して、市中の取り締まりに当たっていました。」

「担当区域は時期によって変遷があり、現在判っている一番古い記録は元治元年4月現在のもので、

北 蛸薬師通
南 松原通
東 鴨川辺
西 御土居際

となっていました。」

「このうち、御土居とは、豊臣秀吉が京都を城郭化すべく築いた土累の事で、幕末当時には6割ほどが残っていたそうです。現在でも数カ所で見る事が出来、洛北の玄琢には、かなり原型を止めた姿で残っています。」

「これからすれば、千本釈迦堂は担当区域から外れていた事になりますね。ところが良く調べてみると、元治元年2月26日に、新選組が上七軒において、不逞浪士を捕縛したという記録があるのです。とすると、前出の担当区域になった2ヶ月前には、洛北も新選組の巡視区域に入っていたという事になるのでしょうか。それとも、特に新選組に命が下ったものなのか...。いずれにしても、この小説の設定は、荒唐無稽ではなかった様ですね。」

・小説の舞台について(梅松院)

「この作品において、不逞浪士が出入りしていたという千本釈迦堂境内の梅松院は、現存しない寺です。もしかしたら塔頭の一つだったのかも知れないと思って調べてみたのですが、どうやら松梅院という実在の寺をもじって付けた名前の様ですね。」

「松梅院は千本釈迦堂の西、北野天満宮の東に隣接してあった寺です。千本釈迦堂とは特に関係は無く、北野天満宮の神宮寺だった様ですね。神宮寺とは江戸時代以前に行われていた神仏習合に基づき、神社に併設して建てられた寺の事です。松梅院は、現在の北野天満宮に匹敵するほどの広さを持った大寺でした。」

「北野天満宮の場合、社家の一つに松梅院があり、代々この寺の住職を勤めていた様ですね。安土桃山時代には出雲の阿国とも関係があった様で、この寺の境内で阿国かぶきの勧進興行が行われています。そして幕末には、因幡藩の宿舎となった事もありました。」

「各地にあった神宮寺は、明治の初めに出された神仏分離令によって神社から独立したのですが、多くは檀家を持たなかったために、ほとんどは廃寺となってしまった様です。松梅院も同様の運命を辿ったのか、跡地には何も残されていません。わずかに、天満宮の参道に、松梅院と記した道標が残っている程度です。(ただし、これも社家の名前としての松梅院かも知れませんね。)」

以下、明日に続きます。

伊東成郎「閃光の新選組」、新人物往来社「新選組を歩く」、新創社編「京都時代MAP 幕末・維新編」

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2007.02.17

新選組血風録の風景 ~長州の間者その6~

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(桂小五郎像)

(新選組血風録概要)
(文久3年8月18日、政変により長州藩の勢力は京から追われた。祖国から連絡を絶たれた新作は、新選組を脱走して長州藩に走ろうかと思ったが、小膳に止められた。今こそ、間者が必要とされる時だと言うのである。)

(本国で欲しがっている情報は、有力公卿の動向と幕府側の情報だが、幕府側の情報は新選組内で流れる噂が案外精度が高いらしい。何でも良いから言って欲しいと小膳を通じて伝えてきたのは桂小五郎だった。大物に名を知られていると判り、俄然やる気になる新作。)

・8・18の政変後の桂小五郎の動向

「8・18の政変で長州藩は京から追われ、京都の政局は公武合体派が主導権を握りました。長州藩士は3人の留守居役以外は在京を禁じられてしまったのですが、桂小五郎・久坂玄瑞らはしばらくの間京都に潜伏しています。しかし、島田魁日記に依れば、8月21日に三条木屋町に居た桂小五郎を捕縛に向かったとあり、桂の潜伏はすぐに幕府方に探知されていた様です。」

「桂はその後も危険を顧みずに京都に止まり、長州藩復権のために長州藩に同情的な藩や公卿の間を周旋していたのですが、幕府方の追求は厳しく、9月の末には一度長州藩に戻っています。」

「その後長州藩では、自らの立場の正統性を朝廷に訴えようと、しきりに嘆願上洛の機会を窺っていたのですが、公武合体派の反対により果たせずにいました。そうこうしている内に長州藩内では、真木和泉や来島又兵衛らの急進派が力を増し、七卿を伴っての率兵上洛の機運が高まってきます。これを危ぶんだ桂や久坂は、躍起になって急進派を押さえようとしました。」

「桂は文久4年1月に再び京都に向かい、対馬藩士と偽って対馬藩邸に潜伏します。そして長州藩主が蒙った罪の許しを請うべく、諸藩の間を周旋して廻りました。その甲斐あって、因幡藩等長州藩に友好的な諸藩に依る会合が開かれるなど、一定の成果を見ています。そして、元治元年5月に桂は京都留守居役に任命され、ようやく大手を振って都大路を歩ける様になりました。」

「しかし、長州藩の国元ではいよいよ急進派の勢いが増し、もはや上洛団の進発が避けられない情勢へと傾いて行きます。もし暴発すれば、幕府に長州藩を討つ口実を与えてしまう事になり、せっかくの周旋も水の泡となるという事態に桂は追い込まれてしまいました。この様な状況の中で、池田屋騒動を迎えるのです。」

「こういう危ない橋を渡っていた桂にとって、間者のもたらす情報は命綱の様なものだった事でしょうね。特に新選組内の情報は取り締まり当局の動きを知る事に繋がり、潜伏活動には不可欠のものだったと思われます。この小説でも後の方で出てきますが、この時期には多くの間者が新選組内に居たとされており、彼等の諜報活動はきっと桂の逃亡を助けていた事でしょう。」

・桂小五郎像について

「上の写真の桂小五郎像は、河原町御池の京都ホテルオークラの西側にあるものです。このホテルの敷地は幕末の長州藩邸跡に重なり、その縁で建てられたものなのですね。建立は平成7年で、景観問題で揺れたこのホテルの開業1年後の事でした。」

考文献
木村幸比古「新選組日記」、学研「幕末京都」


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2007.02.16

新選組血風録の風景 ~長州の間者その5~

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(新選組血風録概要)
(新作は原田の十番隊に配属された。彼の思惑とは反して十番隊は最も活発な隊の一つで、毎日の様に巡察に出かけては人を斬った。)

・新選組の分隊システム

「新選組はとてもシステム化された、近代的な組織だったと言われます。その象徴が組長制で、沖田の一番隊から原田の十番隊まであったとされています。これは西村兼文が著した「新撰組始末記」に記された編成で、各組には1人の組長の下に2人の伍長と10人の隊員を配属させていたとあります。」

「ただし、この編成は慶応元年以降に実施されたもので、新選組の隊士も100名を遙かに越え、名実共に最盛期に達した頃のものでした。これに対して、新作が入隊した文久3年の夏頃には新選組(壬生浪士組)もまだ小規模なもので、この様な分隊制は実施されていませんでした。その頃は局長、副長の下に複数の副長助勤が置かれ、平隊士は出動の都度に適宜助勤の下に配置されていたものと思われます。」

「もっとも、このあたりの設定は血風録にはよくある手法で、小説を判りやすくするための技法と言うべきなのかも知れませんね。」

・原田の十番隊は存在しなかった?

「さて、ここから本題に入ります。新作が配置された原田の十番隊(組)というのは「新撰組始末記」だけに記されているものですが、従来はその存在が疑われた事が無く、ほとんどの資料に引用されて来ました。ところが、平成15年12月に発表された「新選組金談一件」という資料によって、新選組の組織にあったのは八番隊までで、九番、十番という組は存在しなかったらしい事が判って来たのです。」

・原田は勘定役?

「新選組金談一件は新選組から千両の借用を求められた三井両替店が、苦心惨憺の末にその要求を回避するまでを綴った記録なのですが、その中に慶応2年9月現在の新選組の組織が掲載されています。そこには助勤は1番から8番まであり、各組の人員は10人であると記されています。そして、問題の原田は勘定役と明記されていました。」

「この情報を三井に伝えたのは、他ならぬ西村兼文でした。西村は難題を吹きかけられた三井から相談を受け、何かと力を貸していた様です。西村が三井に与えた助言の中に、新選組の組織や、隊士の人となりなども含まれていたのですね。」

・行軍録との類似性

「この編成の確からしさについては、もう一つ元治元年12月に作成された「行軍録」の編成との類似性が揚げられます。この行軍録とは長州征伐への従軍を前提に作成された編成であり、平時に適用されたものではありません。」

「行軍録では近藤と土方の下に1番から8番までの組長が編成されているのですが、原田はその中には入って居らず、河合、酒井といった勘定方と共に小荷駄隊に配属されています。そして、行軍録は慶応元年9月にもう一度作成されているのですが、そこでも原田の配置はやはり小荷駄隊です。」

「従来は原田のこの配置について、原田の十番隊は新選組の殿軍であり、殿軍は小荷駄隊を率いるのが常道とされていた、あるいは戦闘力に優れた彼を小荷駄隊に配置する事で、殿軍としての機能を果たす事を期待していたなどという説明がされていました。」

「しかし、新選組金談一件の記述に沿えば、原田は元から小荷駄隊を監督する勘定役であり、この配置はごく当然なものであった事になります。この方が説明としては自然ですし、なるほどと納得が行くというものですね。行軍録は平時の編成と無関係に作られた訳ではなく、幹部の配置など、ある程度は関連したものだった様です。」

・原田が組頭になった時期は?

「なお、新選組金談一件に依れば組長という呼称も無く、組頭と呼ばれていた様です。原田は慶応2年12月に起きた三条制札事件に参加しており、その時の肩書きが七番組頭でした。この直前の10月に武田観柳斎が新選組から離脱しており、おそらくはその後任として原田が充てられたのではないかと考えられます。」

・10番編成と記された理由は?

「新選組を10番隊編成とした「新撰組始末記」は明治22年に書かれたもので、新選組が存在した当時とは20年以上の時間の隔たりがあります。そこに記された編成は西村の記憶違いか、あるいは原田と三木三郎(九番組長とされている)が後に組頭になった事を混同してしまったのかも知れません。」

「以上は、伊東成郎氏が書かれた「閃光の新選組」を元にした要約であり、「新選組金談一件」を直接読んだ訳ではありません。この資料は三井文庫論叢に収録されているそうですが、残念ながら手元には無いのです。この資料には他にも様々な興味深い情報が掲載されているらしいので、いつか手に入れたいと思っているところです。」

「それにしても、最も基本的な事項と思われていた組織編成にも、意外な事実が隠されているものですね。また原田にしても、従来は短気な武辺者というイメージだったのが、実は緻密さを要求される勘定方に在籍していたとは思いも掛けない事で、その人物像をもう一度見直す必要が出てきそうです。」

以下、明日に続きます。

考文献
子母澤寛「新選組始末記」、伊東成郎「閃光の新選組」、新人物往来社「新選組銘々伝」、「新選組資料集」


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2007.02.15

新選組血風録の風景 ~長州の間者その4~

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(新作が通っていた道場のあったとされる場所 柳ノ馬場綾小路下がる)

(新選組血風録概要)
(新選組の入隊考試で沖田総司と立ち会った新作は、わざと力を抜いて自分が受ける評価を低くしようとした。長州藩士と斬り合わないで済む様に、第一線に配備される事を避けようとしたのである。しかし、そのことは沖田に不審を抱かせる元となった。)

(沖田は新作の本当の技量を見抜き、彼がわざと弱く見せようとした事を疑問に思い、その事を土方に告げた。土方は念のために山崎に命じて新作の周囲を探らせた。しかし、特に不審な点は見あたらず、おそのとの夫婦約束の事だけが判っただけだった。)


・新選組入隊時の考試について

「新選組に入隊する際に、武芸に関する試験があったという事は常識の様になっています。大河ドラマ「新選組!」でも、映画「壬生義士伝」でも、考試の場面は出てきましたよね。しかし、実際の隊士募集では、特に試験は行われなかった様です。」

「新選組の末期の事になりますが、稗田利八が江戸で入隊した時の様子が新選組始末記に記されており、そこでは次の様な手順を踏んだ事が判ります。」

「1.募集の場所に行くと、取り次ぎの隊士が出て来て、面談が行われた。」

「2.面談が終わった後、二、三日してから出直してくる様にと言われ、指定された日に出直すと、仲間が20名ばかり集まっていた。」

「3.そこへ江戸へ下っていた土方が現れ、細々とした話があった後、隊士となる事が認められた。」

「4.その日は支度金を貰って引き取り、後日土方と共に京に上った。」

「5.京都の屯所に着いた日に、大石鍬次郎から隊士としての心得を言い渡された。」

「6.翌日、鎖帷子を渡され、武芸自信の者は師名を添えて申し出よと言われた。」

「7.その後、自分の所属を言い渡された。」

「この事から、隊士を選ぶ基準は面接だけだった事が判ります。即決せずに2、3日開けたのは、本人の覚悟を試す為だったのかも知れません。実際にも、面談だけ受けて、指定された日には現れなかった者も多く居た様です。あるいは、この期間は、新選組側において応募者の身元を確認をするために必要な時間だったのかも知れません。」

「そして意外な事に、武芸に関しては一番最後に自己申告をさせていたのです。」

「その代わり、入隊した後の鍛錬は徹底したものだった様です。日々の稽古はもちろんの事、寝込んでいる所に突然切り込んだり、暗闇の中で刃引きをした真剣で立ち会わせたりといった、実戦を重視した訓練を行っていました。そして、どうしても使い物にならない場合は、隊から追放されるという事もあった様です。」

「それにしても一番最後の頃とはいえ、隊士の募集の手順は案外しっかりと確立していたという印象を受けます。新選組も年月を経るに従って、組織化が進んでいたという事なのでしょうね。」


・小説の舞台の紹介(柳ノ馬場綾小路下がる)

「次に上の写真は、新作が通っていた道場があったとされる場所「柳ノ馬場綾小路下がる」の付近の現状です。当然ながら、ここには剣術の道場といったものは現存しません。」

・綾小路通

「綾小路通は四条通の一本南の筋にあたり、平安京から今に続く道の一つです。新選組とのからみで言えば、壬生の前川邸の門前を通る道がそうですね。」

・柳馬場通

「一方、柳馬場通は麩屋町通の二筋西にあたります。この通には天正年間に二条柳町という当時日本一と言われた遊里がありました。通り名の「柳」はそこから来ているのですね。」

「その後、二条城の造営にあたってこの遊里は六条に移転させられたのですが、その跡地で豊国祭臨時例祭の馬揃えが行われた事から、「柳馬場」と呼ばれる様になりました。ちなみに、六条に移った遊里は再度移転を命じられ、島原遊郭となっています。」

・高橋提灯

「綾小路通も柳馬場通も共に一方通行の狭い道で、典型的な洛中の道ですね。繁華な四条通とは違って、商家と民家が入り交じった、これと言って特徴のない町並みです。」

「その中で、ちょっと面白い店がありました。写真の真ん中に写っている高橋提灯がそれで、1730年(享保15年)に創業されたという老舗です。当初は扇子問屋だったのですが、その後提灯業に転じました。京都御所御用達を勤めるという由緒ある店でもあります。」

「実は、東京にある雷門の大提灯を作っているのがこの店なのですね。実際の制作は山科にある工場で行われている様です。何気ない京都の街角にあるこの店が、誰でも知っている東京の名物提灯を扱っているというのも、なかなか面白いものですよね。」

以下、明日に続きます。

考文献
子母澤寛「新選組始末記」、小学館「京都の大路・小路」、伊東成郎「閃光の新選組」

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2007.02.14

新選組血風録の風景 ~長州の間者その3~

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(木屋町三条上がる 丹虎跡)

(新選組血風録概要)
(文久3年重陽、柳ノ馬場の道場に居た新作の下に、おそのの店の下男が使いにやってきた。木屋町三条上がるにある丹虎まで今すぐ来て欲しいという。)

(新作が丹虎に出向くと、主人に離れ座敷に案内された。待つほど一時間、やってきたのはおそのではなく吉田稔麿という武士だった。吉田は小膳からの頼まれた人物に代わり、新作の仕官についての周旋を引き受けたと言う。吉田は新作の父が岸という姓で元は長州藩士だった事、家中には親戚が多く残り、自分にとっても遠縁にあたる事など、新作自信が知らない事までも知っていた。)

(内心驚いている新作に、王事の為に死ねるかと迫る吉田。即座に死ねますと答える新作。心が高揚する新作に吉田が投げ掛けたのは意外な言葉だった。新選組に入れと言う。言葉も出ない程驚く新作に、間者になれと畳みかける吉田。)

(吉田が言うには、新作ほど間者に向いている人物は居ないという。第一に京都浪人である、第二に尊攘浪士とのつきあいが過去一度もない、第三に腕が立つ、第四に元長州人である。吉田ほどの志士に見込まれたという感激で、承知してしまう新作。)

(吉田は来月に新選組の新しい隊士を募集する考試があると言い、隊士になる以上、模範的な隊士となって怪しまれぬ様にせよと忠告した。そして、京都にある長州藩の諜報網のあらましを語り、掴んだ情報は小膳にまで知らせて欲しいと伝えた。そして、おそのには何も言ってはならないと釘を刺し、そして隊内にはもう一人の間者が居るが名前は言えないと言い残した。)

・血風録の日付について

「この小説全般に言える事なのですが、日付に関してはかなりいい加減なところがあります。新作が吉田と会ったのは重陽とあるのですが、これは9月9日の事ですよね。ところが、この先の下りで8月18日の政変が出てくるのですが、その時には新作は既に新選組に入隊していた事になっています。」

「これは明らかに矛盾しており、ここで言う重陽とは、5月5日あるいは7月7日と言いたかったのでしょうか。こんな具合に日付に限らず設定上おかしな部分はいくつもあるのですが、あまり細かい所は気にせずに読み飛ばしてしまうのがこの作品を楽しむコツかと思います。」

・吉田稔麿という人物について

「吉田稔麿は吉田松陰の門下生で、久坂玄瑞、高杉晋作、入江九一と共に松蔭の四天王と称された俊英です。ただし、小説にある様に松蔭の遺弟という事実はなく、縁戚関係にはありませんでした。江戸に出て旗本妻木田宮の用人となり、幕府の情勢を探っていたというのは小説にあるとおりです。」

「以来、江戸、京都、長州の間を駆けめぐり、目覚ましい活躍をした志士でした。後に江戸に向かう途中で京都に立ち寄り、池田屋騒動に遭遇する運命にある人物です。」

「文久3年8月21日には、長州藩が下関で外国船を砲撃した事について糾問するために訪れた幕府の使節団に対し、吉田は烏帽子・直垂姿に身を包み、一人で軍艦に乗り込みました。そして、江戸における忠臣蔵の人気に触れ、四十七士を忠君の例に挙げて、巧みに使節団を煙りに巻いてしまったと伝えられます。」

「ちなみに、この時幕府使節団が乗ってきた軍艦が朝陽丸で、後に明治新政府の手に渡り、函館湾海戦に参加し、旧幕府軍の盤龍丸の砲撃を受けて轟沈しています。「新選組!!土方歳三 最後の一日」をご覧になった方は、ドラマの終盤で沈みゆく新政府軍の船を覚えておられるかと思いますが、あの船が朝陽丸ですね。」

・小説の舞台の紹介

「新作が吉田と会った丹虎は別名四国屋とも言い、後の池田屋騒動の時に土方隊が探索した場所とされてまいす。土佐の武市半平太が住んで居た場所でもあり、現地には武市瑞山先生寓居之跡という石碑が建っています。ちなみに、武市はこの年の4月に土佐に帰っていますので、新作が訪れた時には既に居なかった事になりますね。」

「丹虎跡は現在は金茶寮という料理旅館になっており、玄関まで路地が続く造りで、いかにも京都らしい風情が溢れています。武市半平太ゆかりの部屋に泊まる事も出来る様ですが、部屋そのものは近年に改装されている様ですね。」


以下、明日に続きます。

考文献
子母澤寛「新選組始末記」

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2007.02.13

新選組血風録の風景 ~長州の間者その2~

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(蛸薬師麩屋町の現状)

(新選組血風録概要)
(新作はおそのの家を訪ねたり出逢茶屋で会ったりしていたが、店を継ぐ話になると煮え切らず、最後にはおそのが必ず泣き出すのであった。おそのは小間物屋を手放さない事だけが幸せに通じる道だと信じているかの様だった。)

(おそのの姉小膳は、そんな二人を見かねた様だった。ある日、新作に向かって長州に仕官する気はないかと聞いてきたのである。小膳とおそのの父の代までは長州藩出入りの商人であり、今でもその縁で知るべがあると言う。新作は父の遺言から長州はまずいと思ったが、背に腹は代えられなかった。新作がよろしく頼むと言うと、小膳はたとえ30石、50石の分限でも、妹の方は言い聞かせて、店を閉めさせると請け合ってくれた。)

小説の舞台の紹介

「おそのの店があったとされる蛸薬師麩屋町上がるの現状は、上の写真のとおりです。蛸薬師通も麩屋町通も共に一方通行の細い道路で、京都のどこにでもある街角に過ぎません。偶然小間物屋風の店がありましたが、無論この小説とは何の関わりもありませんので、念のため。」

・蛸薬師通

「蛸薬師通は京都の中心部を東西に走る道で、平安京造営時の街路では四条坊門小路に該当します。現在の通り名はこの道路の東詰めにある蛸薬師堂にちなんだものです。」

「蛸薬師堂があるのは京都でも有数の繁華街である新京極ですが、その中でもこの御堂は賑やかな提灯で飾られているので、歩いていてもすぐにそれと知れます。」

「しかし、蛸薬師通そのものにはこれといった特徴もなく、通りかかったとしても気付かない事がほとんどでしょう。ではその地味な通りを、ざっと案内してみましょうか。」

「祇園祭の宵山で、橋弁慶山をご覧になった事があるでしょうか。橋弁慶山は謡曲「橋弁慶」に題材を取り、牛若丸と弁慶が五条大橋で闘う様を再現した人形を乗せる山です。宵山にはこの人形が町家の二階に飾られ、通りから見える様にライトアップされています。結構目立つので人だかりがするのですが、この山のある道路が実は蛸薬師通です。祭りの夜には、特に賑わう道ですよね。」

「そこから少し西へ行って室町通を過ぎたあたりに、織田信長がバテレンに地所を与えて建てさせたという南蛮寺がありました。当時は和風3階建てという珍しい教会だった様ですね。現在はビル街の一角に石碑を見る事が出来ます。」

「さらに西に向かって油小路通と交差するあたりに、信長が討たれた本能寺がありました。現在は油小路を少し下がった辺りに、本能寺跡と記した石碑が残されています。地味な様でも町中を通る道だけあって、ざっと見ただけでも結構歴史が残っているでしょう?」

・麩屋町通

「次に麩屋町通は南北に走る道路で、平安京では富小路に該当します。現在の富小路通は一本西にあるのでややこしいのですが、豊臣秀吉による京都改造の際に通り名が入れ替わった様です。」

「麩屋町通と呼ばれる様になったのは比較的新しく、元は白山通と呼ばれていました。現在でも押小路通を下がったあたりにある白山神社に由来すると言われますが、その後この通りの周辺に豆腐や麩を扱う業者が集まった事から、麩屋町通と呼ばれる様になりました。」

「その同業者町もやがて廃れ、現在ではわずかに湯波半にその面影を見る事が出来ます。江戸時代の半ばには、「国問屋」と呼ばれる地方物産を扱う問屋街が成立していました。今では俵屋、角屋、柊屋といった老舗旅館がある事で知られる麩屋町通ですが、かつては商人達の熱気溢れる、活気のある界隈だったのですね。」

・蛸薬師麩屋町

「おそのの店があったのは、その問屋街と蛸薬師堂への参道が交わる辺りであり、当時としてはかなり賑やかな場所だったと思われます。四条や三条といった大通りには及ばないまでも、小娘が小間物屋を営むには相応しい場所だったのかも知れません。」

「現在でも新京極、それに錦市場から近いせいか、人通りは結構多いです。この写真を撮っている時も、人通りが絶えるのをじっと待っていましたからね。おそのが店に執着したのも、少し判る様な気がします。」

以下、明日に続きます。

参考文献
小学館「京都の大路・小路」

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2007.02.12

新選組血風録の風景 ~長州の間者~

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(琵琶湖)

(新選組血風録概要)
(幕末の頃、京で竹生島弁財天を家に勧請する事が流行った。この弁財天は貨殖、縁結びに験があるとされ、信仰を集めていた。蛸薬師麩屋町上がるの小間物屋の娘おそのは、わざわざ家の庭に池を作って真ん中に石を置き、朱塗りの祠を築いた。そして、その祠に収める御札を授かるべく竹生島参りに出かけた。一方、京都浪人である深町新作は、姉婿の泉涌寺家来吉田掃部に頼まれて、竹生島に代参に行った。島に渡る船中で一緒になった二人はすぐに親しくなり、島の宿坊で結ばれた。京へ帰る道中では夫婦約束を交わす仲にまでになっていた。)

(しかし、新作にとって難題だったのは、おそのが町人になって店を継いでくれと言ったことであった。新作の父は長州の出で、家老益田家に仕えていた岸という姓の武士であった。しかし、国元で何か不都合があったらしく、浪々の身となって京都にたどり着いた。そして柳ノ馬場に住む内に京女をめとり、新作が生まれたのである。長州の出であった事を隠すため、新作の母方の姓である深町を名乗っていた。)

(父は死の間際にこのことを明かし、岸姓であった事は他人には漏らすなと伝えた。そして、新作に立派な武士になれと告げてこの世を去った。その後の新作は父の教えを守り、柳ノ馬場綾小路下がるにある道場に通い詰め、17歳にして目録を得、20歳を過ぎて間もなく皆伝を与えられるというところまで修行を積んできた。新作は、そうした自分が武士を捨てて町人になる事が耐えられなかったのである。)

(しかしおそのは承知せず、浪人の妻になるのは嫌だと言い張った。やむなく新作は、主取りをすれば良いのだなと譲ったが、おそのはそれでも「はい」とは言わなかった。この節、歴とした家に仕えるのは難しく、門跡や公家の家来では食べていくのも難しいとおそのは知っていたのである。石取りの武士になる自信は新作にもなかった。)

・小説の舞台の紹介(竹生島)

「竹生島は琵琶湖の北の湖心に浮かぶ島で、弁財天を祀る宝厳寺という寺がある事で知られています。宝厳寺の起源は古く、724年に遡るとされます。ある日、聖武天皇の夢枕に天照大神が立ち、江州の小島に弁財天の聖地がある、そこに寺院を建立せよ。さすれば、五穀豊穣、国家泰平、万民豊楽となるであろうとお告げがありました。天皇はさっそく僧行基を使わし、堂塔を開基させたと伝わります。」

「その成立からしても神仏混淆であった事が判る竹生島ですが、明治の神仏分離令によって都久夫須麻神社と宝厳寺とに別れ、現在に至っています。江戸時代には蓄財の神として信仰を集め、元が蛇の姿をした神とされていた事から、水に縁のある場所に祀られました。小説の中で池の中に祠を建てたとあるのはこの事に依っています。」

・深町新作のモデル

「この作品に登場する深町新作もおそのも創作上の人物です。深町のモデルとなった隊士は見あたりませんが、あえてあてはめるとすれば越後三郎でしょうか。越後は京都浪人と伝えられ、御倉伊勢武らと共に新選組に入隊した人物でした。桂小五郎が送り込んだ間者と言われ、祇園一力で永倉新八の暗殺を企てたものの失敗に終わり、反対に粛正されそうになったところを危うく逃れたとされます。」

「新作と共通する部分はこの他にもあり、後からこの物語に出てくる松永主膳(実在の隊士は松永主計)と一緒に粛正されかかったという点が揚げられます。まあ、そういう隊士が実在したという事を念頭に、司馬氏が創作したのかもしれないという程度の推測なのですけどね。この「長州の間者」は前2作と違って、創作性がかなり強い作品となっています。」

以下、明日に続きます。

考文献
新人物往来社「新選組の謎」、永倉新八「新撰組顛末記」

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2007.02.10

新選組血風録の風景 ~芹沢鴨の暗殺その16~

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(糸里を抱えていたとされる輪違屋)

(新選組血風録概要)
(お梅は、誰が手を下したのか、声も立てずに殺されていた。平山は原田に一太刀で首を刎ねられ、絶命していた。平山と一緒に寝ていたはずの小栄、そして別室に居たはずの平間と糸里はいつの間にか居なくなっていた。平間はこの日以後、世間にその名を出す事はなかった。)

(翌朝、3人の死体を改めた近藤は、守護職には病没と届け出た。)

(事件の翌々日、葬儀は壬生屯所にて大々的に執り行われた。守護職関係や諸藩の留守居役、芹沢の実兄などが参列する中で、近藤は堂々と弔辞を読み上げた。その声は涙で途切れた。それは悲しみの涙ではなく、新選組が自分のものになるという感動を押さえかねた涙であった。)

(参列者の中に菱屋太兵衛の姿があった。それを見て、あの男は商売の為に来ているのだと土方に告げる沖田。菱屋は新選組の御用達になりたいがために、この葬儀の場に来ているのであった。それを聞き、何とも得体の知れぬ人間だと思う土方。しかし、その一方で、沖田も、近藤も、そして土方自身も、得体の知れなさでは同じだとも思うのだった。)

「襲撃者の中で芹沢に最初に斬りつけたのは沖田とされています。これは西村兼文の「新撰組始末記」に「沖田が最初に忍び入り、声も掛けずに斬りつけた」とあるからで、この時芹沢はすぐに脇差しで応戦し、沖田の鼻の下に傷を付けたと記されています。ただ、西村も伝聞を記録しただけであり、当事者が沈黙したまま死んでしまった今となっては、誰が誰を斬ったのかは永遠の謎と言うしか無いでしょう。為三郎の母にしても芹沢殺害の瞬間を見た訳では無いのですからね。」

「新選組始末記によれば、斬りつけられた芹沢は飛び上がり、ずたずたに斬られながらも廊下に逃げ、為三郎達が寝ていた隣の部屋に逃げ込みました。そして、そこに置いてあった子供の文机に躓いて為三郎達の上に倒れた所を止めを刺されたとも、その時には既に死んでいたともあります。八木家に行けば、この時芹沢が躓いたとされる机と、刺客が鴨居に付けたとされる刀傷を見る事が出来ます。」

「この時為三郎の母は子供達の床に駆けつけようとしていたのですが、その前に芹沢が部屋に倒れ込んできてしまったのでした。そして、刺客が寝ている子供達の上から芹沢に斬りつけるのを見て、半狂乱になって叫んでいたそうです。後になって、この時の騒ぎで勇之助が足に怪我を負っていた事が判り、それを知った沖田が気の毒がったという話が残っています。」

「刺客はすぐに去って行きましたが、よくこの母を捨てておいたものだという気がします。なぜなら、絶対に秘密にして置かなければならないのに、自分達の姿を見られてしまったのですからね。世話になっている八木家の人を傷つけたくはなかったのでしょうけど、もし後で自分たちの名前を出されたらどうするつもりだったのでしょうか。このあたりも芹沢暗殺に絡む謎の一つだと思います。」

「平山は一太刀で首を刎ねられ、お梅もまた首を切られて、皮一枚で胴と繋がっているような状態でした。小栄についてはたまたま厠へ行っていて助かったとも、そこに居た近藤に逃がしてもらった(新撰組始末記)とも言います。平間と糸里は別室で寝ていたせいか無傷のままで、目を覚ました為三郎は、下帯姿の平間が刀を手に、どこに行った、どこに行ったと叫びながら、家の中を走り歩いていたのを見たそうです。」

「この平間については、この後屯所から姿をくらましており、行方知れずとなっていました。逃亡後の彼については盛岡で養蚕教師をしていたなど様々な憶測が流れていましたが、その後の調査で故郷の芹沢村に帰っていた事が判っています。郷里で彼の死亡記録が見つかったからで、この事件があってから11年後の明治7年8月22日に亡くなっていたのでした。当夜の事については、「厠に行った時に刀が光るのが見え、恐ろしくなって雨の中を逃げ出したが、旦那(芹沢鴨)は死んでしまった」と語ったという口伝が芹沢家に残っているそうです。」

「芹沢と平山の葬儀は前川邸にて、神式で行われました。水戸学の徒であり、そして前身は神職であったという芹沢に合わせての事だったのでしょう。ですから、この二人については戒名は存在していません。」

「葬儀には新選組隊士のほか会津藩関係者、壬生郷の人々など大勢の人が参列し、棺の前で近藤が立派に弔辞を読んだというのは小説にあるとおりです。葬儀には水戸藩から芹沢の二人の兄も訪れていたと伝わります。」

「芹沢と平山は壬生寺の墓地に埋葬されました。距離が近いこともありましたが、葬列の先頭が壬生寺に着いても最後尾はまだ前川邸の中に居たと言いますから、かなりの人数が参列していた事が窺えます。」

「なお現在は、この二人を含めて新選組関係者の墓は境内の入り口近くの場所に移されています。阿弥陀堂の奥にある壬生塚がそれで、やはり新選組を偲んで墓を訪れる人が多かったため、一般の人の墓と一緒にしておくのは何かと差し障りがあったからだと思われます。」

「可愛そうだったのがお梅で、菱屋ではすでに暇を出した女だからと言って引き取りを拒みます。それでは芹沢と一緒に埋めてやろうという案が出たのですが、大名公卿の娘を妻とすべき身分の新選組局長と、氏素性の知れぬ女とを一緒に葬る事は出来ぬと、近藤がこれを拒否してしまいました。当時の新選組にそれほど大した権威があったとは思えないのですが、近藤にはそれだけの矜持があったという事なのでしょうか。あるいは、お梅に含むところがあったのか...。」

「困り果てた八木家では、金を付けて西陣の里方にやっと引き取って貰ったという事です。お梅の墓の所在は知られて居らず、もしかすると無縁仏になってしまったのでしょうか。せめて芹沢の隣に埋めてやれば良かったのにと思わずにはいられません。」

「芹沢と平山の死は公式には病死とされ、暗殺に係わった土方達は一切を口外しませんでした。為三郎の母もまた危険を感じて黙して語らず、ずっと後になってから為三郎に語って聞かせたのでした。」

「芹沢の死によって唯一の水戸系の生き残りとなった野口健司も、その年の12月28日に切腹して果てています。新選組を騙る水戸者が、近江国七里村において起こした事件に連座して腹を切らされたと言われますが、確かな事は判っていません。おそらくは芹沢一派粛正の総仕上げとして、無理矢理事件と関連づけて詰め腹を切らせたものと思われます。」

「芹沢亡き後の新選組は、完全に試衛館グループの支配下に置かれました。主導権を握った近藤は、依然として新選組を尊皇攘夷の思想集団であると位置づけては居ましたが、別の見方をすれば会津藩の意向に従順な下部組織に変質してしまったとも言えます。皮肉な事に新選組は、芹沢を始末した事によって、近藤が本来望んでいた尊皇攘夷の魁としての方向性を失ってしまったのかも知れません。」

考文献
子母澤寛「新選組始末記」、木村幸比古「新選組日記」、新人物往来社「新選組資料集」、「新選組銘々伝」、歴史読本2004年12月号「特集 新選組をめぐる女たち」


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2007.02.09

新選組血風録の風景 ~芹沢鴨の暗殺その15~

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(壬生寺)

(新選組血風録概要)
(裸で寝ていた芹沢に、沖田の刀が一閃したところから殺戮が始まった。右肩を斬られた芹沢は、わっと言って立ち上がり、隣室へと転がり込んだ。その背後から原田が斬りつけたが、刀が鴨居に当たって止まってしまった。芹沢はそのまま廊下へと逃れたが、そこにあった文机に躓いて倒れたところを、土方の刀が背後から貫いた。)

「新選組始末記に依れば、刺客がやってきたのは、午後12時を20分ほども過ぎた頃でした。為三郎の母によれば、芹沢の高鼾が聞こえ、母もまたまどろみ掛けていたと言います。そこに4、5人が激しい勢いで玄関から入ってくると、芹沢の部屋の唐紙を蹴破って中に入って行きました。既に刀は抜いて手に持っていたという事です。」

「為三郎の母はこの4、5人の男達のうち、沖田と原田については確かに見たと証言しています。そして山南も居たのではないかとも言っていますが、確かには判らなかったそうです。」

「この証言から、当日の刺客は、最初に様子を見に現れたという土方と、為三郎の母が確かに見たという沖田と原田、それに山南を加えた4人だったというのが定説になっています。しかし、これには異説があります。」

「異説を唱えているのは他ならぬ永倉で、彼は浪士文久報国記事の中で、山南と原田の代わりに御倉伊勢武と藤堂平助を加えています。御倉伊勢武という隊士は長州藩の出身で、禁門の変の後、長州藩の行き過ぎた勤王論に付いて行けなくなったとして、新選組に加盟を申し込んできた人物でした。実は桂小五郎が送り込んだ間者だったと言い、新選組でもそれを承知で加盟させたと言われます。」

「この日刺客の一人として御倉が選ばれたのは、彼の剣の腕の程を知りたかった事が一つ、そして切り込みを行う場合、最初に突入する者が一番危険度が高いため、その役を間者である彼にやらせたのだとも言われています。」

「永倉は当日の切り込みには参加しておらず、後日の聞き込みから刺客の顔ぶれを想定したと思われますが、新撰組顛末記でも同じ名前を挙げており、なんらかの確証があったのでしょうか。」

「一方、切り込みは玄関から行われたとあるのですが、八木家に見学に行った時に聞いた説明では、刺客は庭から侵入したとありました。新選組!でも、4人は庭から入って行きましたよね。しかし、浪士文久報国記事では、土方が玄関の障子と門の扉を開けておいたとあり、襲撃は玄関から行われたと読みとれます。」

「このあたりもよく判らないところで、八木家の口伝では玄関からと伝わっていたのですが、その後の研究により庭から入って来たという説に変わったという事になるのでしょうか。芹沢が寝ていたとされる部屋は庭に面しており、刺客が狙うとすれば距離のある玄関からよりも、庭から直接部屋を襲ったと考えた方が合理的という気はしますけどね。」

以下、明日に続きます。

考文献
子母澤寛「新選組始末記」、木村幸比古「新選組日記」、新人物往来社「新選組資料集」

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2007.02.08

新選組血風録の風景 ~芹沢鴨の暗殺その14~

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(新選組血風録概要)
(一同は密かに前川邸の裏門から出ると、道を渡って八木家の玄関に躍り上がった。そして襖を蹴倒し、屋内へと突入した。)

「芹沢鴨の暗殺は新選組の仕業とされていますが、実のところ、それを証明するのは当夜唯一の目撃者であった八木源之丞の妻の証言だけです。実行犯とされる土方達は黙して語っていませんし、浪士文久報国記事に当夜の様子を記した永倉新八にしても、長くその事実を知らされないままでいました。彼が書き残したものは、維新後に八木家を訪れた時に家人から聞いた話を元に、永倉なりの推測を加味して書いたものと思われます。」

「新選組始末記に記された当日の様子は次のとおりです。この話は八木為三郎が母から後日聞いた話であり、為三郎自身が直接見たという訳ではありません。実は為三郎もその場に居合わせたのですが、肝心な時にはすっかり寝入っており、自分たちが寝ている上で芹沢が殺された事にも気付かなかったのでした。為三郎は全ての事が終わった後で目を覚まし、事件直後の現場を見ているので話が混乱しやすいのですが、芹沢暗殺の目撃者はあくまで彼の母一人です。」

(芹沢達が島原から帰ったのは午後10時頃の事でした。駕籠で門の外まで帰ってきた様子で、芹沢はぐでんくでん、平山は完全に酔いつぶれており、玄関に倒れ込んだまま起きあがれないといった具合でした。普段から酒を嗜まない平間だけがしっかりしており、八木家の男衆と一緒に芹沢と平山を部屋の中まで運び込んだのでした。)

(芹沢と平山が入ったのは玄関から真っ直ぐに入った奥の部屋、為三郎と勇之助の兄弟が寝ていたのはその部屋とは壁を一枚隔て縁続きの西側の部屋、母が寝ていたのは玄関の左手の部屋でした。平間はその反対側の部屋に入りました。)

(12時頃、玄関の障子をそっと開けて入ってきたものがありました。この日の夜は、仲秋も過ぎたというのに蒸し暑く、その上雨でうっとうしいものだから、唐紙は開け放してありました。玄関の障子は、新選組が来てからというもの、夜中でも出入りするものですから、雨戸などはついぞ閉めた事はありませんでした。そんな状態ですから、母の寝ている部屋の中からでも玄関の様子は見えたのです。)

(為三郎の母はまだ寝入って居らず、今時分誰だろうといぶかりました。もしかすると、この日村の寄り合いで祇園へ行っていた源之蒸が帰ってきたのかと気を付けていたのですが、どうも体つきからすると土方の様でした。その土方は、そこだけは閉めてあった芹沢の部屋の唐紙をそっと開けで、中を覗いている様子なのです。よほど土方さんと声を掛けてみようかと思ったのですが、男はすぐにまたそっと出ていったのでした。)

「ここまでの状況説明はさすがに当夜の目撃談だけあって実に具体的で、そっと入ってきたという土方の姿が目に浮かぶ様です。しかし、実際の八木家の現状と照らし合わせると、少し困った事になります。」

「八木家のホームページに八木家の見取り図があるのですが、これと新選組始末記の記述と照らし合わせると、まず平間が入ったという玄関の右手の部屋が見あたりません。子供の寝部屋だったという事なので狭い部屋だったと思われるのですが、もしかしたら明治以後になってから改造されてしまったのでしょうか。どなたかこのあたりの事情についてご存じの方は居ませんか。」

「次に、土方は玄関に上がって唐紙を開けて中を覗いていたというのですが、芹沢が寝ていたのは6畳の中の間を隔てた奥の間でした。しかし、玄関の唐紙を開けただけでは、間に仕切があって芹沢の様子は判らないと思うのですが...。彼等が寝入っている事さえ判れば良かったという事なのでしょうか。」

「さらに、為三郎の母が寝ていたというのは内玄関の事と思われます。確かにここなら本玄関に入ってきた人物を見る事は可能だと思われるのですが、反対に土方の方にしても、そこに誰か寝ていると判るはずと思うのです。土方ほどの敏感な人物が辺りの気配を窺いながら忍び込んでいるですから、隣の部屋から自分を窺っていた母の気配に気づかないはずは無いと思うのですが...。ここが一番の疑問点ですね。」

「また、この証言では、誰がどの部屋で寝ていたかを土方達が知り様がありません。浪士文久報国記事ではその点について補強がされており、島原から帰った後も土方が八木家で芹沢達の相手を務め、それぞれが女と共に部屋に入った事を確かめてから、前川邸に戻ったと記されています。これは永倉が想像で書いたのか、八木家で聞いた事だったのか、どちらなのでしょうね。」

「重箱の隅を突く様な見方ではありますが、わずかな疑問点は残ります。しかし、そこはあえて不問に伏して、明日に続きます。」


考文献
子母澤寛「新選組始末記」、木村幸比古「新選組日記」

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2007.02.07

新選組血風録の風景 ~芹沢鴨の暗殺その13~

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(壬生寺 芹沢鴨・平山五郎の墓)

(新選組血風録概要)
(近藤達が宿舎にしている前川荘司邸に帰ってきたのは、午後9時過ぎだった。芹沢が居る八木邸とは狭い道一筋を隔てており、この二つを合わせて新選組屯所と言った。雨は依然として降り続けている。)

(八木邸に行っていた沖田は夜遅くまで家人の部屋で遊んでいたが、やがてびしょぬれになって帰ってきた。沖田は芹沢は今し方寝静まったと言い、平山は芹沢の隣室に桔梗屋の吉栄と、平間は右手の部屋に輪違屋の糸里とそれぞれ一緒だと報告した。)

(午後10時過ぎ、雨が上がった。月が出始め、雲が見えてきた。近藤は行こうと言ってたすきを掛けた。足ははだしである。)

「芹沢鴨の暗殺については、一つの謎がつきまとっています。それは暗殺があった日付けの事で、従来は墓碑に刻まれた9月18日が正しいとされて来ました。ところが現在では、その日が9月16日ではなかったかという説が有力になりつつあります。」

「芹沢鴨の暗殺があった日の様子については、新選組始末記に八木為三郎の記憶として、「この日は朝から雨がびしゃびしゃ降って、お昼頃一時晴れましたが、夕方から今度は、土砂降りのひどい雨になりました。」と記されています。小説の描写もほぼこれに沿っていますね。」

「ところが、同時代の四条大宮で質屋を営んでいたという人物の日記が見つかり、そこには、
16日 雨降。 夜同断。
17日 双天。 夜同断。
18日 晴天。 夜同断。
と記されていたのです。18日は朝から夜まで晴れており八木為三郎の記憶とは一致しません。状況が一致するのは16日であり、この事から芹沢鴨暗殺の日の見直しの動きが始まったのでした。」

「それ以前から暗殺があった日は9月16日だとする説は存在していました。会津藩士の記録である七年史がその根拠で、他にも西村兼文の「近世野史」には8月16日となっているそうです。浪士文久報国記事には9月6日となっており、6という数字は合ってますね。」

「また、これらとは別に9月16日に芹沢が殺害されたと記した水戸藩士の手紙が見つかっており、16日説が有力になりつつある様です。ただし、18日説が否定された訳ではなく、決着が付くのはもう少し先になるのかも知れません。」

「平山と一緒だったという小栄はこの夜難を逃れているのですが、木村幸比古氏の「新選組と沖田総司」には小栄の子孫と名乗る方から直接聞いたとする後日談が掲載されています。」

「それによると小栄は明治維新後まで生き延びて、子爵・黒田清綱の妾となり、栄子と名乗りました。そして長男の清秀を生んだのですが、清綱は妾腹の子に家を継がすのを嫌ったのか、甥の清輝を養子に迎えて家を継がせ、清秀は分家させました。この黒田清輝は明治画壇で重きをなした人物である事は周知の事実ですよね。思わぬ所に新選組縁の人物が絡んでいるものです。栄子が生んだ清秀は昭和25年まで生き、現在もその子孫の方が残って居られるそうです。」

「糸里の方は浅田次郎の小説ですっかり有名になりましたが、無論あの作品は創作であり、史実ではありません。」

「新選組始末記に、当日の夕刻、為三郎が弟の勇之助と一緒に玄関の左手にある寝部屋に入ったところ、真っ暗な中に布団の上に座っている女が居て驚いたという話が掲載されており、状況からするとこれが糸里だった様ですね。あらかじめ平間が呼び寄せてあったのと思われますが、その夜、お梅や八木家の女中達と一緒に遊んでいたという小栄とは、どこか対照的な印象を受ける女性ですね。糸里について判っているのはこの程度で、本当に輪違屋に居たのかどうかも確認は出来ていない様です。」

以下、明日に続きます。

考文献
新人物往来社「新選組銘々伝」、歴史読本2004年12月号「特集 新選組をめぐる女たち」、子母澤寛「新選組始末記」、「新選組遺聞」、永倉新八「新撰組顛末記」、木村幸比古「新選組日記」、「新選組と沖田総司」


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2007.02.06

新選組血風録の風景 ~芹沢鴨の暗殺その12~

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(祇園・山の緒跡推定地)

(新選組血風録概要)
(近藤と土方から意を受けた沖田は、それとなく芹沢の部屋に出入りして、部屋の様子を検分した。すっかり調べを終えて、その日が来るのを待ちわびる様子の沖田。そのくせ、芹沢が可愛そうだと言い、そのすぐ後から一ノ太刀は自分が付けるとも言う沖田に、かなわないと思う土方。もしお梅が居たらどうするのかという沖田の問いに、我々を目撃する唯一の人物になり、その時は斬るしかないと土方は答える。それを聞き、また可愛そうだなと涙を浮かべる沖田。)

(当日の夜。この日は夕刻から雨が降っていた。島原の角屋で酒宴に興じる新選組の幹部達。戌の刻(午後8時)の拍子木が鳴る頃には、どの男もしたたかに酔っていた。宴がはねる頃、芹沢もすっかり酔いつぶれていた。帰り道を案じる近藤に、「お梅が待っている。」と答える芹沢。平山、平間の二人に芹沢を任せ、角屋を後にする近藤と土方。外は傘の柄がしなうほど雨が吹きすさんでいた。新見の時もこんな夜だったとつぶやく近藤。)

(芹沢・近藤と並んで局長を務めていた新見は、既にこの世に居なかった。この9月の初め、祇園・山の尾にて遊興中に近藤と土方が乗り込み、数々の隊規違反を上げて詰め腹を切らせていた。芹沢の右腕とも言うべき新見は既に無く、残すは平山、平間、野口の3人だけとなっていた。)

「芹沢に先立ち新見が粛正されたのは、文久3年9月13日の事とされます。この新見錦という人物は芹沢鴨以上に謎の多い人物で、水戸脱藩という以外には、その出自を含めてほとんど何も判っていません。」

「生年は浪士組の名簿に記された28歳という年齢から1835年(天保6年)と推定されており、芹沢より8歳年下だった事になります。子母澤寛の「新選組遺聞」に依れば、神道無念流の岡田助右衛門の門人で、免許皆伝の腕前でした。」

「新見の前歴を知るわずかな手掛かりは草野剛三が残した証言で、「芹沢と新見は東禅寺事件で打ち首になるところを助かった」とあり、芹沢と共に玉造党に属し、東禅寺事件に連座して獄にあった事が窺えます。この前歴が重く見られたのでしょう、浪士組では三番組の組長を務め、壬生浪士組においても芹沢と共に局長の一人に推されています。」

「局長の一人として重きをなしていたはずの新見なのですが、壬生浪士組から新選組にかけての事績はあまり残っていません。京都残留についての会津候への嘆願書や壬生浪士組が板倉候に提出した建白書にその名がある事、大阪の平野屋五兵衛に対する借用書に署名している事などが知られる程度です。」

「8・18の政変においては、永倉新八が語り残した「新撰組顛末記」においては芹沢・近藤と共に隊士を率いた事になっているのですが、同じ永倉が書き残した「浪士文久報国記事」や会津藩士の残した日記にはその名が見えません。また、芹沢が起こした相撲取りとの喧嘩や大和屋焼き討ち事件などにも、絡んでいた様子が窺えません。」

「なんとも影の様であやふやな存在の新見錦なのですが、その最後は切腹して果てたと伝えられています。」

「新選組始末記では、文久3年9月5日の事として、祇園の貸座敷「山の緒」にて、近藤一味により旧悪をあばかれ、詰め腹を切らされたとあります。遊蕩に耽って隊務を怠り、しばしば民家を襲っては隊費と称して黄金を奪っていた事が発覚したのでした。」

「一方、浪士文久報国記事では、新見は隊規を破ることが甚だしく、また乱暴が酷ったため、近藤、芹沢が説諭してこれを収めようとしたのですが、新見は聞き入れようとしませんでした。やむを得ず、一同の結論として新見を切腹させることに決まったのですが、その矢先、新見は四条木屋町に旅宿していた同藩の水戸浪士吉成常郎方で乱暴を働き、遂に水戸浪士の梅津某の介錯によって切腹して果てたとあります。」

「この吉成常郎とは、吉成恒次郎の事でしょうか。もし彼であったすれば、玉造党の前身である長岡勢において新見と一緒に居た筈で、旧知の間柄だったと思われます。ここで言う乱暴と言うのは何だったのでしょう、もしかすると、8・18の政変で新選組が長州藩を追い出した事と関係があったのかも知れません。吉成にすれば新見は裏切り者と映り、二人で言い争いになったのではないでしょうか。」

「この新見錦については、田中伊織と同一人物とする説があります。死亡時期が近い事、新見錦と記録の上で重複しない事から有力視されており、壬生寺に残る墓碑から、死亡日時は9月13日だったと推定されています。この田中伊織については、西村兼文の新撰組始末記に、近藤の意に逆らう事が多かった事が憎まれ暗殺されたと記されています。」

「また、新見錦の前身について、玉造党に居た新家粂太郎と同一人物ではないかとする説が出ています。新家は玉造党において芹沢と共に行動していた事が知られており、「新」の字が共通する事から新見の本名ではないかと推測されています。」

「もし、新見錦が新家粂太郎だったとすれば、壬生浪士組から新選組にかけてほとんど事績を残していない理由が説明出来ると言われています。すなわち、新見は4月に平野屋から資金を調達した後、5月に行われた長州藩に依る下関の外国船砲撃の応援に出かけていて、京都を留守にしていたと言うのです。新家の日記に長州へ行っていた事が記されているそうで、確かに魅力的な説ではありますね。」

「これを補強する材料として、霊山護国神社に祭神として祀られている事が揚げられます。同社の祭神を記した京都養正社の「御神神録」に新選組関係者として唯一人その名があり、もしかすると長州藩と何らかの関わりがあったのではないかと推測されています。」

「ただ、新見錦=新家粂太郎説は面白い説ではありますが、全くの推測に過ぎず確証はありません。これから先、新たな資料が見つかるなどして証明される事を期待したいところですね。」

「確かに言えるのは、新見は芹沢の粛正に先立って死んだという事です。新見の死もまた8・18の政変とは無関係とは思えず、尊攘過激派が京都から一掃された事によって、新選組における居場所を失ったのではないでしょうか。彼が局長として推されたのは、その尊皇活動の前歴が重く見られての事だったのですからね。政変以後は、会津藩にとっては芹沢と共に目障りな存在と見られていたと思われます。」

「それにしても、芹沢と新見を一緒には始末せず、一人づつかたづけていくところに、近藤・土方の周到さを感じます。組織の運営に関しては、近藤・土方は、芹沢・新見よりも一枚上手だったのでしょうね。」

「新選組!においては、土方と山南が連携して新見を追い込んでいくシーンが見事でした。そして、山南に呪いの言葉を投げかけて死んでいく新見もまた迫力がありましたね。現在再放送されている新選組!において、新見切腹の回が来るのを楽しみにしているところです。」

「上の写真は、山の緒があったと推定されている場所です。ただし「新選組を歩く」に場所が記されているだけですので、どこまで根拠があるのかは判りません。当時はもっと道幅が狭く、軒を接する様にお茶屋が建ち並んでいた事でしょう。華やかに管弦さざめく中で新見の惨劇があったかと思うと、ちょっと切なくもなりますね。」

以下、明日に続きます。

考文献
新人物往来社「新選組銘々伝」、「新選組を歩く」、「新選組の謎」、子母澤寛「新選組始末記」、「新選組遺聞」、永倉新八「新撰組顛末記」、木村幸比古「新選組日記」

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2007.02.05

新選組血風録の風景 ~芹沢鴨の暗殺その11~

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(京都市上京区山名町・菱屋跡)

(新選組血風録の概要)
(9月に入った頃、土方は沖田から芹沢の下に毎日の様に通って来る女の話を聞いた。女は四条堀川の呉服商菱屋太兵衛の妾で、名をお梅という。太兵衛の正妻は死んで居なかったたため、お梅は菱屋の御寮人同様の存在だった。)

(芹沢は菱屋で次々と着物を誂えたのは良いが、その支払いを全くしていなかった。困った太兵衛は番頭を遣って催促をさせたのだが、芹沢に恫喝されて逃げ帰ってしまう。そこで太兵衛は一計を案じ、女相手なら芹沢も乱暴は出来まいとお梅を使いに出したのである。この策は頭に当たり、芹沢は困り果て、お梅の顔を見ると逃げ廻っているという。)

(その翌日、土方は井戸端でお梅と偶然出会った。ふと見たお梅のあまりの美しさに目を瞠る土方。お梅は土方に菱屋をご贔屓にと愛想を振る舞い、そして芹沢の存否を訪ねた。軽い失望を覚えながら、居ない様だと答える土方。土方はお梅に胸をときめかせた自分に驚き、剣の稽古に打ち込んでその気持ちを抑え込む。)

(数日後、沖田が驚くべき話を持ち込んできた。お梅が芹沢に犯されたと言うのである。あまりの出来事に、顔色が変わる土方。とっさに、他の隊士には言うなという土方だが、沖田は近藤の馬丁まで知っている話だと言う。この時初めて土方に芹沢に対する殺意が芽生えた。)

(ところが、さらに驚くべき事が起こった。お梅が毎日、おめかしをして芹沢に会いに来る様になったという。お梅に嬲られたかと思う土方。近藤もこの話を聞き、いよいよ芹沢を殺す時が来たと土方に持ちかける。これほど悪事が明白になった以上、芹沢が殺されたとしても隊内に動揺はないだろうと言う近藤に、同意する土方。)

「お梅が囲われていたという菱屋太兵衛は実在の商人で、従来は四条堀川に住んでいたとされていましたが、その後の研究で西陣山名町(上の写真の左手あたり)の住人だった事が判っています。そして、新選組が屯所としていた前川邸の主である前川荘司の従兄弟にあたる人物でした。新選組!ではこの史実をふまえ、太兵衛の手に余ったお梅を親戚筋の前川家で預かるという設定になっていましたね。」

「お梅は、元は島原で茶屋働きをしていた女だとも言い、年の頃は22、3だったとされています。隊士が口を揃えて褒めるほどの垢抜けた美人で、菱屋太兵衛が島原から落籍せて愛妾としていたものなのでしょう。」

「太兵衛が芹沢の借金取りに使わしたところを反対に寝取られてしまったというのは、「新選組始末記」にだけ記されている話です。永倉新八の「浪士文久報国記事」では愛人にしていたとあり、また西村兼文の「新撰組始末記」には強奪したと記されているだけで、借金取りの話は出てきません。もしかするとこの部分については、子母沢寛の脚色が入っているのかも知れませんね。」

「ただ、菱屋が前川家の縁戚だったというのは偶然にしては出来すぎており、おそらくは前川家が芹沢に、呉服の商人として菱屋を紹介したのが縁の始まりだったのでしょう。そしてお梅に惚れた芹沢が、強引に自分の妾にしたのも確かな様です。」

「新選組始末記に依れば、お梅もまた自分を菱屋から奪った芹沢を、憎からず思っていた様です。芹沢が暗殺された日も早くから八木家を訪れており、女中達と一緒に遊びながら芹沢の帰りを待ちわびていたのでした。そして新選組物語に依れば、お梅は芹沢と夫婦になる約束までしていたともあります。」

「このあたり、当時の道徳的観念とのかねあいもありますが、案外この二人は仲睦まじい関係だったのかも知れないという気もします。新選組!で描かれた二人も、紅葉狩りのシーンは良い雰囲気でしたよね。もしも芹沢が後にまで生きていたら、お梅もまた新選組局長夫人として、今とは違った評価を受けていたかも知れません。」

以下、明日に続きます。

考文献
子母澤寛「新選組始末記」、「新選組物語」、新人物往来社「新選組資料集」、木村幸比古「新選組日記」、「新選組全史」


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2007.02.04

新選組血風録の風景 ~芹沢鴨の暗殺その10~

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(大阪市北区・蜆橋跡)

(新選組血風録の概略)
(文久3年7月14日、新選組は京都守護職の特命で大阪へ下った。一行は芹沢を筆頭に、近藤、土方、沖田、山南、永倉など15名であった。翌日の午後、彼等は堂島川で船遊びに興じた。船に芸妓を乗せてさんざんに騒いだ後、夕刻になって芹沢が北の新地へ行こうと言い出した。)

(船頭が鍋島浜に船を着け、芹沢を先頭に上陸した。老松町へと抜ける狭い道を、ほろ酔い機嫌で端唄を歌いながら歩く芹沢。その向こう側から一人の大阪角力がやってきた。彼もしたたかに酔っており、芹沢の前で両手を広げて通せんぼをした。力士を無視して近づく芹沢。あわや二人の身体が触れそうになったとき、血煙が上がって力士が倒れた。抜く手も見せず、芹沢が斬ったのである。振り向きもせずに立ち去る芹沢。その切り口の鮮やかさに、ひそかに戦慄する土方。)

(新選組の一行が住吉屋で飲んでいると、にわかに階下が騒がしくなった。座興の相手が来た様だと刀を持って立ち上がる芹沢。土方が窓の下を見ると、巨漢達が手に手に八角棒を持ってひしめいていた。その数4、50人。新選組が怖くて大阪で角力が取れるかと叫ぶ声。やむを得ないと立ち上がる近藤。仲間を部署する土方。)

(凄惨な乱闘が始まった。土方の関心は唯一点、自分が芹沢と同じだけの太刀業を見せられるかどうかだけだった。一人斬り、二人斬り、三人目にして初めて満足の行く斬撃が出来た。しかし、芹沢は抜き打ちで斬っており、自分の腕は芹沢に及ばないと悟る土方。)

(乱闘は15分ほどで終わった。角力方の年寄りが駆けつけてきて、土下座して謝ったからである。下手に出られた芹沢はあっさりと刀を引き、住吉屋に戻って飲み直しをはじめた。この騒ぎで力士側に10名の死者、15、6人の重傷者が出たが、新選組側は平山五郎が打撲を負った程度で、ほとんど無傷であった。新選組の実力が天下を震わせたのは、実にこの時からである。)

(この事件については、大阪西町奉行所の与力である内山彦次郎が報告書を書き、大阪城代を通して京都守護職へと送られた。この事件は松平容保の心証を酷く害し、密かに近藤達を呼んで芹沢を除く様に示唆した。しかし、近藤はむしろ内山を憎んだ。国事に挺身する新選組に対し、わずかな瑕瑾でもって中傷するとは、許し難い俗吏だと思ったのである。近藤はこの事件から10ヶ月後の元治元年5月20日に、天満橋のたもとで内山を暗殺している。)

「壬生浪士組と大阪角力の喧嘩は、文久3年6月3日に起こっています。この2日前に大阪に不穏の動きがあるという風聞があり、壬生浪士組は京都守護職から大阪へ出張を命じられました。下阪した隊士は、芹沢、近藤、山南、沖田、永倉、斉藤、平山、野口、井上、島田の10名でした。彼等は3日の朝に2人の浪士を捕縛して任務を終えた後、堂島川で船遊びに興じています。この時、芹沢に同行したのは近藤と井上を除く8人でした。以下、浪士文久報国記事に依ると次の様な経過を辿っています。」

「その日は暑かったため、我らは稽古着一枚などまちまちの姿に脇差しを差しただけという軽装で船に乗り込んた。川の流れは思いのほか急で、船は次第に鍋島浜へと流されて行った。そのうちに斉藤が腹痛を訴えたため、一行はやむなく鍋島浜へと上陸した。

大阪は道が不案内であるために川岸に沿って歩いていたところ、ある橋で相撲取りと出会い、相手に無礼があったので斬り捨てるところを、殴り倒しただけで収めた。また暫く歩いていくと、蜆橋というところに差し掛かり、ここでも相撲取りが橋の中央を歩いて来た。こちらも中央を歩いていたので橋の中程ですれ違ったところ、相撲取りが無礼な言葉を吐いたため、これを捨てておく訳にも行かず、本来なら斬り捨てるべきところを、その場に打ち倒しただけにして新地へと急いで行った。

とりあえず茶屋に入って斉藤の看病をしていると、大勢の声が聞こえた。これは大阪の相撲取りで、彼等は攘夷の魁となるべく与力から八角棒を渡されており、これを持って茶屋の前に押し寄せて来たのだった。芹沢が表に出て、無礼があれば容赦なく斬り捨てると言うと、相撲取りは八角棒で撃ち掛かって来た。壬生浪士組の一同は抜刀し、月明かりの下での乱闘となった。相撲取りは3人が斬られ、手傷を負った者は数が知れない程だった。壬生浪士組は無傷で、そのまま近藤の待つ京屋へと引き上げた。

近藤はきっと今夜また襲ってくるに違いないと考え、事の顛末を認めて町奉行所へと届け出た。その末尾に、もし再び押し寄せてくる様な事があったら、一人残らず斬り捨てるとあったので、驚いた町奉行所は警備の者を差し向けた。翌日、相撲取り側からも届け出があり、5、60人の相手が無法にも撃ち掛かり、相手方にも1人の死者があったが、当方にも3人の死者と14人の怪我人が出た。これは当方に落ち度があるのだが、死者もある事なので届け出ると認められていた。

後になって、当夜の相手が壬生浪士組だったと知り、相撲取りは震え上がった。これ以後、大阪で相撲取りと行き会った時は、相手が道を譲ってあいさつする様になり、小野川、熊川の両年寄りと懇意になった。」

「小説とは似ていて異なるのですが、相違点をあげるとするなら、近藤と土方はこの喧嘩に参加していない事、そして、小説では芹沢が有無を言わさずに相手を斬った事になっていますが、永倉の記述に依れば最初は無礼討ちにすべきところを我慢をし、それでも相手が襲って来ためにやむなく斬ったとある事でしょうか。」

「一方、近藤が故郷に充てた手紙には、概略次のとおり記されています。」

「軽装で水稽古に出たところ、同士の一人が病を発し、やむなく上陸してとある住家で手当をしていた。すると、こちらの軽装を侮った2、30人の相撲取りが無法にも撃ち掛かってきた。やむなく脇差しを抜いて渡り合ったところ、相手に14人ほど傷を負わせ、当方は無傷だった。翌朝、関取の熊川熊次郎が亡くなり、他に3人が瀕死の重傷だと聞いている。奉行所には当夜のいきさつと、7、8人に薄手を負わせたと書いて届け出た。」

「また、島田魁の日記にも同様の記述があり、これらの記録では、すべて正当防衛だったという事で一致しています。芹沢が無礼討ちにしたとあるのは永倉新八が語り残した「新撰組顛末記」で、小説の元となった子母沢寛の「新選組始末記」もこれに依っている様です。」

「如何に世相が混乱していた幕末と言えども殺人は重罪であり、小説の様に有無を言わさずに斬ったとしたら、いくら芹沢とは言え無事には済まなかったでしょうね。恐らくは、「浪士文久報国記事」にある記述が事実に近いものと思われます。もっとも、近藤が事件直後に正当防衛で押し通せと隊士に言い含め、それが永倉と島田の記述に繋がっているとも考えられますが...。」

「一方、大阪町奉行所与力内山彦五郎については、小説にあるとおり元治元年5月20日に暗殺されています。ただし、場所は天満橋ではなく天神橋においてでした。」

「内山の暗殺については犯人は判らないままに終わったのですが、当時から新選組の仕業であるとの噂はありました。これを明らかにしたのが明治になってから書かれた西村兼文の「新撰組始末記」で、後に永倉新八が「新撰組顛末記」において追認するに至り、以後犯人は新選組だったという事にされています。」

「その理由として、西村兼文は、相撲取りとの一件について執拗に近藤にからんだ事を恨みに思ったからだとしており、小説もこの説に依っていますね。一方、永倉は内山は尊皇攘夷派の手先として米を買い集め、相場を上昇させて社会を不安に陥れた張本人だったからだと話しています。」

「島田の日記にも、大阪に風聞の悪い与力が居た事が記されており、不正をはたらく小役人が居た事は確かな様です。ただ、内山がそうだったという証拠は無い様ですね。」

「しかし、同じ永倉が書いた浪士文久報国記事には一言の言及もなく、近藤の手紙にも内山の事は出てこない様です。奉行所の与力を殺すなど公に出来る事ではないので口をつぐんでいたとも考えられますが、不自然さは否めません。内山暗殺は西国浪士の仕業だったとする説もあり、新選組の仕業と決めつけるのは少し早計ではないかという気がしています。」

「上の写真は、大阪市北区にある蜆橋の跡です。蜆橋は蜆川(曾根崎川)という川に架かっていた橋で、ここから西側に北新地と呼ばれる地域が広がっています。今では大阪の夜の町として有名ですが、当時はお茶屋が連なる花街でした。蜆橋は、その北新地の入り口にあたっているのですね。」

「現在では蜆川は埋め立てられ、ビルの角に「しじみばし」と書いた銘板だけが残されています。およそそんな史跡があるとは思えない場所で、ほとんどの人は気付かずに通り過ぎている事でしょう。」

「もし現地に行かれるなら、淀屋橋から御堂筋の西側の歩道を梅田に向かって歩き、新御堂筋との分岐点を目安にすると判りやすいと思います。滋賀銀行とコーヒーの青山の看板が目印ですよ。」

以下、明日に続きます。

考文献
子母澤寛「新選組始末記」、新人物往来社「新選組資料集」、木村幸比古「新選組日記」、別冊歴史読本「新選組を歩く」、文藝別冊「新選組人物誌」

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2007.02.03

新選組血風録の風景 ~芹沢鴨の暗殺その9~

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(京都御所・蛤御門内からの風景)

「8・18の政変にあたっては、会津藩より壬生浪士組へも出動命令が下りました。壬生浪士組は、将軍から攘夷の命令が下るまでは将軍の身辺にあってその警護をしたいと申し出て京都に止まった組織でした。にも係わらず、石清水八幡宮行幸の際に沿道の警備を命じられた事、そして将軍の警護のために一度大阪に下った事以外には、これといった任務は与えられていません。そうした中で、御所の警護に就けという命令は、壬生浪士組にとっては初めてとも言って良い大役だったのです。」

「壬生浪士組が御所に至ったのは18日の午後の事とされます。この頃には既に御所の九門は諸藩の兵で固められ、堺町御門では長州藩兵と薩摩、会津藩の兵がにらみ合っているという状況にありました。」

「これは推測ですが、この時点になってようやく出動したという事は、壬生浪士組は戦力としてはほとんど期待されていなかったという事なのでしょうね。恐らくは事変の勃発時には何も連絡が無く、戦局が切羽詰まって少しでも人数が必要となった時に、はじめて出動要請が下ったものと思われます。その任務も前線で闘うための戦力ではなく、後方警備といった役割でした。まともな軍事調練を受けていない烏合の衆ですから、当然と言えば当然の事だったのでしょうけどね。」

「この時、出動した隊士は52名(一説に80名)とされています。「浅黄麻へ袖口の所ばかり白く山形を染め抜き候羽織」という後世有名になった隊服を着用し、合い印として「上へ長く山形を付け、誠忠の二字を打ち抜きに黒く書き置」いた騎馬提灯を腰に差しての行軍でした。そして、芹沢と近藤の二人は、小具足で身を固め、烏帽子を被っていたと伝えられます。」

「隊列の中で特に目立っていたのが松原忠司で、坊主頭に鉄入りの白鉢巻きをし、大長刀を持っていたので、あたかも今弁慶を見る様であったと言われています。そして「方今の形勢累卵の如し、天下の有志之を知るや否や」と節を付け、声高々に都大路を歩いて行ったのでした。」

「意気揚々と蛤御門(新在家御門)に着いた壬生浪士組でしたが、この門を守っていた会津藩兵に行く手を塞がれてしまいます。壬生浪士組が出動して来るという連絡が、前線の警備兵にまで届いていなかったのですね。怪しい者共と判断した兵士達は、抜き身の槍を突きつけて、彼等の前に立ち塞がってしまいます。当日の現場がいかに混乱し、また情勢が緊張の極にあった事が判ると同時に、壬生浪士組がまだ無名の存在でしかなかった事が窺えるエピソードです。」

「この時、会津兵の剣幕に、さしもの近藤もたじろぐばかりでした。ところが、芹沢鴨は大胆不敵な態度を見せます。眼前に突き出された抜き身の槍の穂先を見てもひるむ事無く、腰の扇を広げて笑いながらこれを扇ぎ立てたのでした。そして、会津兵に対して悪口雑言を投げかけたと言います。あわや一触即発となった時、会津藩の公用掛が駆けつけて、ようやくその場は収まりました。」

「壬生浪士組は無事に御所内に入る事を許され、御花畑の警備に就きました。御花畑とは上の写真の右前方にあった空き地の事で、文字通り花が植えられていたものと思われます。」

「現在の京都御苑は当時は公家屋敷街であり、今とはまるで違った光景が広がっていました。例えば、写真右手前には清水谷家の屋敷があり、正面に見える樹齢300年と言われる椋の木は「清水谷家の椋」と呼ばれています。ちなみにここは、後の蛤御門の変の時に、長州の来島又兵衛が討ち死にした場所としても知られています。」

「御花畑とは言っても、御所の正門である建礼門(南門)の前であり、後方警備としては重要な場所でした。長州藩が陣取る堺町御門はここから真っ直ぐ南に行ったところにあり、万が一門が破られた場合には戦場となる可能性が高かったのです。恐らく会津藩は、開戦した後になってからこの場所を守る兵力が手薄と気付き、急遽壬生浪士組を充てたのではないでしょうか。彼等は期待に応え、命をも要らぬという覚悟で任務を全うしています。」

「壬生浪士組はこの時の働きが見事であると認められ、市中取り締まりのお役目を正式に言い渡されました。浪士文久報国記事に依れば、8月21日に朝廷より市中取り締まりを命じられ、もし手に余った場合は斬り捨てても良いという許しを得たとあります。」

「ここで言う朝廷とは武家伝奏の事でしょうか。そして島田魁の日記には、伝奏より新選組の名を下されたとあり、隊名と共に役割を命じられたのかも知れません。無論、実際に命じたのは京都守護職だったと思われ、武家伝奏を通して朝廷に伝え、そこから下命されるという手順を踏んだものと推定されます。」

「この時をもって、幕府の特別警察たる新選組は発足したと言えるでしょう。もっとも、近藤達は攘夷のための思想集団である事を止めた訳ではなく、これはあくまで攘夷実行までの間の仮の任務のつもりでした。しかし、時代の流れは近藤の意思とは関係なく、彼等をして市中の安寧を守る為の組織としてその名を刻みつける事になります。」

「新選組が市中取り締まりを命じられたのは、その働きが認められた事もあるでしょうけれども、8・18の政変により幕府が政局の主導権を握った事が、大きく作用していると思われます。それまでは尊攘過激派を取り締まると言っても直接には長州藩への遠慮があり、さらにはその背後に控える朝廷にも配慮しなければなりませんでした。そうそう大っぴらに取り締まる事は出来なかったのですね。ところが、この政変によって幕府が遠慮すべき相手は居なくなり、大手を振って治安を乱す輩を力で取り締まる事が可能になったのです。」

「8・18の政変と新選組の関係において、もう一つ忘れてはならないのが芹沢鴨の位置づけです。芹沢は、くり返しになりますが、水戸天狗党の流れを汲む志士として壬生浪士組の創設に係わった人物でした。良くも悪くも彼が壬生浪士組の隊長であり、近藤はその二番手、三番手に過ぎませんでした。」

「会津藩が壬生浪士組の隊長として芹沢を認めたのは、一つは当時は尊攘過激派が政局の主導権を握っており、彼等と繋がりのある芹沢は無視出来ない存在だったからだと思われます。それゆえ、芹沢が横暴の限りを尽くしたとしても、何も手出しをする事が出来なかったのでしょう。うかつに彼を処罰すれば、その背後に居る尊攘過激派が何をするか判ったものではないですからね。」

「ところが、8・18の政変により長州藩は京都から追われ、長州藩を拠り所としていた尊攘過激派の勢力も一掃されてしまいます。そうなると、会津藩は芹沢に対して遠慮する必要が無くなりました。むしろ、尊攘過激派の残存勢力として、邪魔な存在になったとも言えます。この事変からわずか一ヶ月後に起こる芹沢鴨の暗殺は、京都における政局の変化と密接に絡み合っていたものと思われます。」

「ただ、こうして考えてみると、不思議なのは芹沢の行動です。彼の思想からすれば、近藤よりも尊攘過激派の方が親しい存在でり、力の淵源でもありました。ところが彼は自ら先頭に立って、仲間であるはずの尊攘過激派の追い出しに一役買ってしまったのです。その挙げ句に自らも粛正されてしまった訳で、このあたりがどうにも理解出来ないところです。」

「これは全くの想像なのですが、もしかしたら芹沢は8・18の政変の意味を理解しないままに、壬生浪士組を率いていたのではないでしょうか。この政変は完全な秘密裏に実行されたものであり、壬生浪士組には何も知らされていなかったものと思われます。そこに突然の出動命令が下された訳で、しかも御所の警備という尊皇派にとってはこれ以上無いと言って良い魅力的な任務でした。だからこそ芹沢は意気揚々として出動し、近藤をもしのぐ貫禄で手柄を立てて見せたのです。しかし、彼は後になってから事の真相を知り、愕然としたのではないでしょうか。」

「あるいは、幕府をないがしろにする長州藩のやり方に反発し、自ら率先して壬生浪士組を率いたのかも知れません。水戸藩は攘夷の総本山であり、攘夷の為には井伊大老の暗殺を実行するなど、実力で幕政の改革を迫まった事もあるという過激な側面を持っていました。しかし所詮は御三家の一つであり、決して藩論が倒幕にまで至る事はなく、今度の長州藩のやり方には反発を感じていたのかも知れません。新選組!の芹沢は、この路線でしたよね。このあたり、芹沢の心理を分析した解説書はなく、私自身整理が付いていないというのが実情です。」

「結果として、ここでも芹沢は墓穴を掘った事になります。尊攘派の仲間からは裏切り者と指弾され、会津藩からは厄介者とみなされる様になったのです。粛正されるまでのひと月間、芹沢は針の筵に座らされた様なもので、酒に溺れるより仕方がなかったのではないでしょうか。」

以下、明日に続きます。

考文献
子母澤寛「新選組始末記」、新人物往来社「新選組資料集」、木村幸比古「新選組と沖田総司」「新選組日記」、別冊歴史読本「新選組を歩く」、学研「幕末京都」、光文社文庫「新選組読本」、松浦玲「新選組」


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2007.02.02

新選組血風録の風景 ~芹沢鴨の暗殺その8~

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(京都御所・建礼門)

「小説では触れられていませんが、幕末史に大きな転機をもたらした事件が8・18の政変(禁門の政変)です。この政変は新選組に対しても重大な変化を与えた事件であり、血風録からは少し離れますが、ここであえて触れておく事にします。」

「8・18の政変とは、それまで朝廷内において主導権を握っていた長州藩に対して、薩摩藩と会津藩が連合して仕掛けたクーデターです。」

「文久3年8月13日、主として長州藩の工作により、大和行幸の詔が下りました。大和行幸とは、天皇が大和にある神武天皇陵などに行幸し、その霊前にて攘夷親征の軍議を行い、その結果を伊勢神宮に参拝して報告するという計画です。いつまで経っても攘夷を実行しない幕府に代わって天皇自らが兵を率いて攘夷を行うと神前に誓う訳で、もし実現すれば幕府に委任している兵馬の権を否定したも同然の結果となり、幕府と朝廷の間に重大な緊張関係をもたらすものでした。」

「薩摩藩は、大和行幸は長州藩が徳川家に代わって天下を獲ろうとする野望の現れであると断定しました。しかし、以前は長州藩と共に朝廷内に勢力を持っていた薩摩藩でしたが、文久3年5月20日に発生した猿が辻の変によって朝廷からの後退を余儀なくされていました。そこで長州藩の独走を阻止するために、本来は政敵であるはずの会津藩と手を組む事にしたのです。」

「薩会連合は中川宮を抱き込み、朝廷工作を開始します。長州系の公卿を除いて密かに朝議を開き、天皇の名の下に彼等と長州藩を一気に朝廷から追い出そうと謀ったのです。薩会連合にとって幸いな事に、孝明天皇自身は攘夷親征には反対でした。孝明天皇は攘夷には賛成でしたが、あくまで幕府を信頼しており、これを否定する事は考えていなかったのです。」

「8月18日深夜、御所の諸門が薩摩と会津を主力とする諸藩の兵力で封鎖されます。その一方で中川宮ら公武合体派の公卿が参内し、朝議が開かれました。そして孝明天皇の裁可を仰ぎ、大和行幸の延期、長州系公卿の禁足、長州藩の堺町御門守備の任を解く、という内容の勅状を発します。」

「すべての準備が整った後、合図の大砲が放たれました。これを聞いた長州藩は堺町御門に駆けつけますが、御門は会津藩と薩摩藩の兵によって封鎖された後でした。一方、三条実美ら長州系公卿は、事態を把握するために鷹司関白邸に集まったのですが、これは禁足を命じた勅定に違反した事になり、全ての役職を解かれた上で京都からの追放を言い渡されてしまいます。」

「この時、長州藩は2700の兵力を有していたと言い、堺町御門の前で薩会連合の兵と対峙していました。しかし、御所に向かって発砲する事は朝敵となる事を意味し、最悪の事態を避けるために三条実美以下の七卿を伴って西国へと撤退したのです。」

「この政変によって、京都から尊攘激派の勢力は一掃され、公武合体派が政局を主導して行く事になります。一方、京都から追放された長州藩がおとなしく収まるはずもなく、様々な巻き返し工作を図ります。これが後の池田屋事件、さらには禁門の変へと繋がっていく事になります。」

「以上が8・18の政変の概要ですが、長くなったので新選組との関わりについては明日アップする事にします。なお、写真は御所の建礼門で別名南門、新選組が守ったのはこのあたりでした。御花畑と呼ばれた区域は、概ね写真の左右の植え込みを囲んだ範囲にあたります。」

考文献
子母澤寛「新選組始末記」、木村幸比古「新選組と沖田総司」、別冊歴史読本「新選組を歩く」、学研「幕末京都」、光文社文庫「新選組読本」

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2007.02.01

新選組血風録の風景 ~芹沢鴨の暗殺その7~

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(葭屋町一条下がる 大和屋跡付近)

(新選組血風録の概略)
(結党後、5ヶ月経った8月13日、芹沢は会津藩から預かっている大砲を小屋から引き出した。この大筒は攘夷実行の時に用いるべく与えられているもので、使う時には3局長合議の上、会津候の許可が必要だった。何も聞いていない近藤は驚いたが、芹沢には何も言う事が出来ないまま、土方に相談する。)

(沖田が調べてきた所によると、芹沢は葭屋町一条下ガル大和屋庄兵衛を威しに出かけるところであった。これより数日前、尊攘過激派の天誅組が仏光寺高倉の油商八幡屋卯兵衛方を襲い、蔵から金銀を奪ったのみならず、卯兵衛の首を刎ねて三条橋詰に晒すという事件があった。そして、現場にあった捨て札に、大和屋庄兵衛ほか3名の巨商も同罪であり、近く梟首すると書かれていた。驚いた大和屋は守護職を通して新選組に保護を求めてきていた。ところが、その一方で天誅組とも通じ、多額の献金をしたらしいという事が判った。)

(芹沢はこの事実を掴み、天誅組に献金したのならこちらにも寄こせと大砲で威すつもりであった。土方は、芹沢を斬るなら今だと近藤に水を向けた。無断で大砲を使っている事、勝手な金策を許さないという法度に違反している事から、芹沢を斬る名目としては十分であった。しかし、近藤は処刑に怪我人を出す事はないと言って、土方の提案を斥ける。)

(現場に着いた芹沢は大砲の準備を命じ、射撃の準備が整うと大和屋へと乗り込んだ。そして、店先で震えている番頭達に向かって、賊に金を出したというのならこちらにも寄こせ。即刻1万両用意しろと命じた。番頭達が主人は旅に出て不在だと答えると、嘘を付かれるのが何よりも嫌いな芹沢の顔色が変わった。)

(店から出た芹沢は、向かいの家の大屋根に登って座り込み、往来を見下ろした。そして、付近の群衆が十分に沸き立って来た頃を見計らい、鉄扇を開いて射撃を命じた。大砲は、その大音の割には威力が無く、数発打ち込んでも頑丈な土蔵はなかなか壊れなかった。しかし、焼き玉が板葺きの小屋に落ちるとたちまち火を噴き、大和屋を炎で包み始めた。)

(半鐘が鳴り響き、町中の火消しが集まってきたが、新選組の隊士がこれをはばみ、現場に寄せ付けなかった。芹沢は数時間射撃を続け、大和屋を粉々に破壊しつくすと、意気揚々と屯所へ引き上げて来た。屯所はこの話題で持ちきりとなったが、近藤と土方だけは苦り切って終日部屋に閉じこもったままだった。)

「この大和屋焼き討ちは実際にあった事件で、文久3年8月13日に起こりました。事の発端となったのが、八幡屋卯兵衛への天誅であった事は小説にあるとおりです。」

「八幡屋卯兵衛は仏光寺高倉西入るにあった油商で、開国以来、国内の諸物産を買い集めては長崎、横浜で売りさばき、巨利を得ていました。こうした商人は八幡屋一軒に止まらず、京都市中には数多くあったとされます。その一方で生糸の価格は暴騰し、西陣の受けた打撃は少なからずのものがありました。そのため多くの職人達が職を失い、その恨みは外国貿易で潤う商人達に向けられていました。」

「過激派志士達はこうした風潮に目を付け、文久3年7月15日、三条寺町の誓願寺に天誅を予告した貼り紙を掲示します。それにいわく、攘夷の命令が出ているにも係わらず、夷敵と交易して儲けている輩が居る。言語に絶し、不届きの至りであるから、子孫に至るまで攘夷血祭りの天誅を加え、夷艦を焼き払う先陣として彼等の家蔵諸道具を焼き払うであろうし、洛中に31軒、洛外に8軒余、許すところにあらずと記されていました。」

「その一週間後の7月23日、八幡屋卯兵衛の首が三条大橋西詰めに晒されます。まさに予告どおりに天誅が実行されたのですね。そして、その首には捨て札が添えられていました。そこには、丁字屋吟次郎、布屋市治郎、彦太郎親子、大和屋庄兵衛の4名の名を挙げ、彼等は私利のために絹糸、蝋、油などを買い占めている悪人であるから天誅を加えるとあり、さらに彼等から借金をしている者は一切返却には及ばず、もしも奉行所を通して催告して来る様な事があったら、その役人の名を三条、四条の橋に貼り紙をして知らせるようにとも記されていました。」

「驚いたのは名指しで天誅を予告された商人達です。布屋では、「全ての財産を投げ出しますから、お許し下さい」と書いた貼り紙をあちこちに出して助命を乞い、丁字屋もまた全財産を差し出すので許して欲しいと申し出ました。」

「一方、大和屋は、知り合いの板倉筑前介という人物が勤王の志士と繋がりが多い事を頼りとし、彼を通じて助命を嘆願しました。噂に依れば朝廷に一万両を献じ、さらに藤本鉄石の天誅組にも多額の献金をしたと言われます。」

「これを聞きつけたのが芹沢鴨でした。彼は隊士を引き連れて大和屋を訪れ、軍資金を調達しようとしたのです。尊皇を掲げる天誅組に資金を出したのなら、同じ尊皇の志士である自分たちにも出せるだろうという理屈ですね。ところが、大和屋では主人が不在であると言って何度も断りました。この頃はまだ壬生浪士組の時代であり、大和屋は芹沢をただの食い詰め浪士と軽く見ていたのかも知れません。」

「しかし、大和屋は芹沢鴨という人物を見誤っていました。彼は水戸時代から豪商相手に何度も金を巻き上げてきた常習犯であり、今では壬生浪士組と会津藩という背景まで持っていたのです。芹沢にしてみれば過激派志士達の様に陰に隠れて天誅を行う必要はなく、堂々と奸商討伐が出来たのでした。」

「8月13日の午前2時頃、大和屋を訪れた芹沢は、部下に命じて火を放ちます。たちまちの内に大和屋は炎に包まれ、所司代から火消しが駆けつけてきました。しかし、芹沢は部下に銃を構えさせ、誰も近づけさせません。芹沢は「大和屋は庶民の困難を余所に外国と交易して儲けた奸商であり、大罪人の財産を焼き払うのは天命というものである」と書いた立て札を掲げ、自らの所業を正義であると位置づけました。」

「周囲は騒然となり、集まった群衆の中には西陣の職人達も少なからず居ました。大和屋は糸商で財を成した家であり、職人達は大和屋の阿漕な商売のせいで仕事を失ったとかねて恨みを抱いていました。彼等は騒ぎに乗じて大和屋の店内に入り込み、商品や家財を路上に引きずり出し、家屋を次々と破壊して行きます。芹沢は彼等の所業を止めることなく、自らは隣家の屋根に登り、この様子を笑いながら見下ろしていました。また集まった市民達もこの挙を快とし、賞賛の声を浴びせたとされます。」

「小説には大砲を撃ったとあるのですが、この根拠を遡れば「新撰組始末記」に行き着く様です。しかし、同時代資料である「皇国形勢聞書」にはただ放火したとだけあるらしく、大砲まで持ち出したというのは行き過ぎの様ですね。また、京都守護職を通じて壬生浪士組に保護を願い出たという事実も無い様です。」

「この芹沢の蛮行には、様々な解釈が加えられています。その一つは、近藤達が行っていた相撲興行に対する嫌がらせという説です。」

「この日、壬生寺で相撲興行が行われており、その肝煎りとなっていたのが近藤でした。芹沢は、相撲興行の仕切などは武士のする事ではないと不満を抱いており、これを妨害するために大和屋焼討を行ったと言われます。事実、この騒ぎで2日の予定の相撲興行は1日で終わっており、妨害に成功したと言えば言えるでしょうね。」

「しかし、「新撰組顛末記」には、相撲興行が成功裏に終わった事に気を良くした芹沢が、力士達をもてなすために寺の池の魚をさらい上げて振る舞ったという話が記されており、必ずしも相撲興業を目の敵にしていたとは思えません。」

「また、別の説では、近日中に迫っていた大和行幸に対する芹沢流の祝砲ではないかとされます。大和行幸とは長州藩が中心となって進めていた計画で、天皇自らが祖先の地である大和に赴き、祖霊の前で攘夷を祈願するというものでした。そしてその裏では、そのまま一気に大和で倒幕の兵を挙げるという陰謀があったとされます。失敗に終わりはしましたが、天誅組の変はまさにその魁となるはずの計画でした。」

「この説では、芹沢はあくまで天狗党の一員で、京都に来たのは西国の過激派志士と連携を取るためだったという解釈が前提になりますね。そして、尊攘派が掲げた天誅の予告状にあったとおり、奸商を血祭りに上げてみせたという訳です。それも公衆の面前で誰臆することなく派手に行い、尊攘派を激励すると共に幕威を傷つける事も目論んでいたという事になるでしょう。」

「ただ、祝砲と言うにはあまりにも過激であり、不用意に過ぎるという気がします。下手をすれば騒ぎが大きくなりすぎ、大和行幸自体にも影響が及びかねなかったのですからね。」

「もし仮にこれが芹沢流の祝砲であったとすれば、それを巧みに逆手に取ったのは会津藩でした。会津藩では常時一千の兵を京都に駐留させていたのですが、この数日前に交代の兵士が国元から到着したばかりでした。会津藩では、この芹沢の騒ぎに乗じて国元へ帰る途中の兵士を呼び戻しており、一時的に兵力が通常の2倍の2千に膨れあがっています。これが数日後に起こる8.18の政変において貴重な戦力となるのですが、長州藩では大和屋焼き討ちの騒ぎに対応するための処置と捉え、会津藩の真意に気付いていなかった様です。」

「はっきりしているのは、御所の近くで火事騒ぎを起こした芹沢に、幕府は何も手出しを出来なかったという事です。会津藩御預かりの芹沢が正義を唱えて実行した行為であり、そこには奸商に恨みを持つ市民の応援があったという事もあって、公には成敗出来なかったのでしょう。さらに、当時は尊攘過激派が京都の政局を制しており、彼等と繋がりのある芹沢にはうかつに手を出せないという背景もあったとのかもしれません。この時点では、幕威は地に落ちていたと言えるのでしょうね。穿った見方をすれば、兵力を増強するための隠れ蓑とするためには千載一遇の好機であり、あえて芹沢を見逃したのだとも取れるかも知れませんが...。」

「この事件を起こした芹沢には、明らかに奢りが感じられます。攘夷派との繋がり、そして京都守護職との繋がりが、芹沢をしてこの蛮行に走らせた要因だったのではないでしょうか。つまり、自分を罰せられる者は誰も居ないという思い上がりからこの挙に至り、結局は自らの墓穴を掘る事になったという気がしています。なぜなら、この事件によって会津候の芹沢に対する恨みは骨髄に達し、密かに近藤を呼んで抹殺を命じたと言われているですから。」

以下、明日に続きます。

考文献
新人物往来社「新選組銘々伝」、「新選組資料集」、子母澤寛「新選組始末記」、永倉新八「新撰組顛末記」、木村幸比古「新選組と沖田総司」、別冊歴史読本「新選組を歩く」、学研「幕末京都」

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