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2007.01.25

新選組血風録の風景 ~油小路の決闘その11~

Aburakouji7

「油小路から脱出した4人の御陵衛士達は、今出川の薩摩屋敷に匿われました。以後、彼等は主として薩摩藩に属し、戊申の役に従軍する事になります。この事から、御陵衛士は薩摩の手引きで新選組から離脱し、その庇護を受けていたと説明される事が多いようです。事実、脱出した御陵衛士の一人に薩摩脱藩の富山弥兵衛が居り、その橋渡役がちゃんと隊内に居た事になりますよね。しかし、生き残った御陵衛士達が維新後に残した証言を詳細に見ていくと、必ずしもそうではなかった事が判ってきます。」

「まず、加納道之助の証言に依れば、油小路で辛くも虎口を脱出した彼は、薩摩藩邸を目指して逃げて行ったとあります。これだけを見れば当初からの予定であったかの様にも見えますが、実は誰を訪ねて行くという当てがあった訳ではなく、新選組に狙われた者を庇護してくれるとすれば薩摩藩しかないという思案からだった様です。」

「加納は逃げていく途中でたまたま富山と出会い、これ幸いとばかりに今出川まで一緒に走りました。ところが、薩摩藩邸の対応は思いのほか冷たいものだった様です。駆け込んだ時間が午前3時頃だったため誰も起きておらず、ようやくの思いで門番を叩き起こして中村半次郎に会いたいと頼んだのですが、翌朝に出なおしてこいと冷たく突き放されてしまいます。」

「窮した加納達が、御藩に恨みはないが、天下に身を寄せるところが無いので、門前を借りて腹を切りますと迫ったところ、驚いた門番がようやく中村に取り次いでくれました。話を聞いた中村は彼等を藩邸に匿ってくれたのですが、加納はこの時初めて薩摩藩邸に入ったと証言しています。」

「次に阿部十郎ですが、内海次郎と一緒に小椋池に出かけていた彼は、伊東が襲われたとの知らせを受けて高台寺に戻ったのですが、そこには既に誰も居ませんでした。彼等はとりあえず泉涌寺の戒光寺へ行き、そこに二昼夜の間潜そみ、市内の様子を窺っていました。そして、阿部は新選組の手から逃れるために土佐藩邸に庇護を求める事にし、内海を伴って藩邸を訪れて留守居役に頼み込みました。しかし、土佐藩では彼等を受け入れる事は出来ないと、その申し出を拒否します。阿部等は、それではこの場を借りて切腹すると加納達と同じ手を使ったのですが、ここではそれも通用せず、藩邸から追い立てられてしまいました。」

「困った阿部達は一度戒光寺に帰り、今度は新選組の目の光る市内を避けて、東山の山伝いに白川の陸援隊を目指しました。同じ土佐藩でも、生前の中岡慎太郎と伊東甲子太郎の間には交流があり、その中岡の作った陸援隊なら彼等を受け入れてくれるかも知れないと考えたのでしょう。そして、その門前まで行くと薩摩藩の中村半次郎が待っていました。中村は土佐藩が彼等をすげなく追い払った事を知っており、その事を詫びて快く門内に迎え入れてくれたのです。阿部達はその夜になって、ようやく今出川の薩摩藩邸に居た加納達と合流する事が出来ています。」

「これらの証言からすれば、御陵衛士は薩摩藩にも、そして土佐藩にも全く繋がりを持っていなかった事が判ります。やはり彼等は新選組との関係を疑われ、勤王の志士とは認めて貰ってはいなかったのですね。そして皮肉な事に、伊東が新選組に暗殺された事によって、やっとその疑いを晴らす事が出来たのでした。」

「上の写真は、相国寺の東にある「甲子の役 戊申の役 薩摩藩戦死者墓」です。江戸期における薩摩藩京都藩邸は四条高倉にあったのですが、幕末の動乱でそこが手狭となったため、相国寺の境内を借りて第二の藩邸としていました。加納達が駆け込んだのは、この今出川にあった藩邸の方ですね。」

「その跡地は今は同志社大学の敷地となっており、一基の石碑の他には藩邸があった事を示す物は何も残っていません。一方、この戦没者の墓は、薩摩藩が相国寺の敷地を借りていた縁で、蛤御門の変、あるいは鳥羽伏見の戦いで亡くなった藩士達を葬ったとされる場所です。藩邸があった位置とは異なりますが、この周辺で当時を偲ばせる唯一の史跡と言って良いと思います。」


「ところで、御陵衛士達の証言を読んでいると、実は彼等には新選組に対する警戒心が全く無かったのではないかという気がして来ます。」

「まず、一人で出かけるという伊東に対して、篠原の日記などでは、もしかしたらこれは新選組の罠かも知れないと忠告したとあるのですが、結局は伊東一人で行かせており、誰も護衛には付いていません。それどころか、阿部と内海に至っては、小椋池まで鳥打ちに出かけてしまっています。」

「本当に罠だと思っていたのなら、表だって護衛には付かないまでも近藤宅の近くで警戒にあたるでしょうし、少なくとも全員が屯所に残って厳戒態勢を敷いていたはずです。ところが彼等は、伊東は今夜は宮川町にあったという妾宅に泊まってくると考え、知らせがあった時には全員が寝ていたと言います。」

「そして、伊東の遭難を知らせに来た町役人の話では、伊東は5、6人の土佐人と口論の上斬られたとあったのですが、これを直ちに新選組の仕業と見破ったのは服部ただ一人でした。三木三郎は、新選組は旧知の者だから我らに害を及ぼすはずはないと言っていますし、武装しようとする服部に反対したという篠原は、実は現場に伏兵が居るとは思っていなかったと証言しています。加納にしても新選組の罠に落ちて油小路の現場に行ったと証言しており、実際に襲われるまでは半信半疑だった様子です。」

「こうして見ると、彼等は新選組が敵対行為に及ぶとは思って居なかった様子が浮かび上がって来ます。やはり彼等と新選組は友好関係にあったからなのか、あるいは、前の天皇の御親兵とも言うべき御陵衛士に対して手出しをする筈がないという自信があったからなのでしょうか。何にしても御陵衛士達は、あまりにも無防備に過ぎたという気がしています。裏を返せば、新選組に依る伊東の暗殺は、誰にも思いも寄らないほどの暴挙であり、以前にも書いた様に、新選組にとっても犯すべからざる失策だっという事ではないでしょうか。」

「伊東が生きていたからとして、彼の言う大開国論が政局にどの程度の影響力を発揮したかは判りません。薩長土肥の力の前には、御陵衛士の存在などは微々たるものであったでしょうからね。しかし、海援隊の坂本龍馬と共に、もし維新後にも生きていれば、その後の日本のあり方を違った方向に進め得た人物の一人である事には変わりはないと思います。そういう意味でも油小路事件は、やはりとても残念な出来事だったという気がしますね。」

参考文献
新人物往来社「新選組銘々伝」「新選組資料集、光文社文庫「新選組文庫」、子母澤寛「新選組始末記」、PHP新書「新選組証言録」


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コメント

おはようございます、なおくん様

アップされる写真に、おお!!こんなところに史跡がと、
新鮮な驚きです。
専攻が古代~中世末まででしたので、幕末~維新辺りは疎いのです。
小説で辿るのもよいですが、折角の舞台、足を運ぶとより実感できますね。

丁寧に綴られるなおくん様の記事、私、好きですので、
このままでいいと思うのですが・・・。
子母澤さんの漢字、タイプミスしてましたね(笑)。

投稿: いけこ | 2007.01.26 09:48

いけこさん、コメントありがとうございます。

この薩摩藩戦死者墓は住宅街の中にあって、
周囲の雰囲気とは違和感があり、どこか唐突な印象を受けます。
あまり知る人も居ない様で、いつもひっそりとしていますね。

見るからに立派な石碑で、
如何にも官軍が建てたものだという雰囲気がありますよ。
きっと建立時には盛大な儀式が執り行われた事でしょうね。

この長い記事を褒めて頂き、とても嬉しいです。
調子に乗って次に移ってしまいましたが、
まだまだ改善の余地はあると思っています。
とりあえず小説の概要と解説で文体を変えてみましたが、
いかがなものでしょうか。

これからも続けて読んで頂ければ、大変有り難いです。

投稿: なおくん | 2007.01.26 23:54

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