新選組血風録の風景 ~油小路の決闘その2~
篠原が背中に傷を負った事を悔やんだのには理由がありました。それは新選組には秋霜のごとく厳しいとされる局中法度があったからです。
一、士道ニ背キ間敷事
一、局ヲ脱スルヲ不許
一、勝手ニ金策致不可
一、勝手ニ訴訟取扱不可
一、私ノ闘争ヲ不許
右条々相背候者切腹申付ベク候也
この五箇条の他に内規があり、例えば私事で斬り合いに及び、相手を倒さず自分だけが傷を負った場合、未練なく切腹すべしと定められていました。もっとも、事情によっては切腹を免れる場合もありましたが、篠原の場合は敵を逃がしたばかりか後ろ傷であった事が致命傷でした。後ろ傷とは背中から斬られて負った傷の事であり、敵に背中を見せるという卑怯な振る舞いをしたとみなされるからです。もはや逃れられぬと覚悟した篠原は、九条村の休息所に戻って腹を切ろうとします。
「この局中法度については、「新選組始末記」以外には書かれたものが無く、恐らくは子母澤寛氏による創作だろうというのが最近の定説になってまいす。ただし、全くの作り事ではなく、永倉新八の遺談をまとめた「新選組顛末記」に4箇条からなる禁令が記されており、同様の隊規はあったとも推測されています。永倉が語った禁令とは次のとおりです。
第一 士道をそむくこと
第二 局を脱すること
第三 かってに金策をいたすこと
第四 かってに訴訟をとりあつかうこと
内容的には局中法度とほぼ同じですが、「私ノ闘争ヲ不許」という条文がありません。これは禁令とは別に長州征伐への従軍を前提として定められた「軍中法度」に同様の条文があり、子母澤氏はそこから一条を抜き出して全五条の局中法度という体裁を整えたのではないかと考えられています。また、恐るべき内容を記した内規も新選組始末記以外に記したものはなく、実在したのかどうかは定かではありません。恐らくはこれも創作なのでしょうね。
ところで、「軍中法度」とは新選組が戦争に従軍した場合に適用される軍規の事であり、平時にまで及ぶものではありません。この小説では、
「組頭がもし討ち死にした場合は、組衆はその場で討死にすべし」
「はげしき虎口にておいて死傷続出すとも組頭の死体のほかは引き退くことまかりならず」
という隊規が局中法度と同列で記されていますが、これらも軍中法度の中に定められた条文です。こういう巧みなすり替えが血風録では散見されますが、小説の緊張感を高める効果を狙ってのものと思われます。」
篠原が腹を切ろうとしている事を知ったおけいは、言葉巧みに篠原の気を逸らし時間を稼ぎます。おけいは、篠原の死後、その事を家族に知らせなければならないと言って、篠原の身の上を聞き出します。篠原は妻を持った事は無いと答え、自分が久留米藩の江戸定府の家柄である事、家は兄が継いでおり、自分は風雲を求めて脱藩している事、脱藩後に知り合った伊東甲子太郎に従って上洛し、新選組に入った事などを語ります。
「篠原が江戸定府の武家の子であるというのは全くの創作で、実際には久留米の石工の子として生まれています。作品中では江戸において北辰一刀流の玄武館で修行したとされていますが、実際には久留米の道場において「要心流剣法」と「良移心倒流柔術」を修めています。後に久留米藩家老の中間として奉公し、主人に従って江戸に出府したのですが、33歳の時に伊大老が暗殺された桜田門外の変に刺激されて脱藩し、水戸へと向かったのでした。
その後、一時期神奈川奉行所に奉公した事があり、その時加納鷲雄、服部武雄らと知り合いになります。そして、伊東甲子太郎と出会ったのは加納鷲雄の紹介に依るものでした。伊東が新選組に加入を決めたのは1864年(元治元年)9月の事で、この時伊東は30歳、篠原はそれよりも7つ年上の37歳でした。作品中では、伊東は新選組加盟にあたって篠原に相談し、その同意を得て始めて決意したとありますが、そういう事実を記した資料は見あたりません。ただ、伊東の甥にあたる小野圭次郎氏が著した「伯父 伊東甲子太郎武明」には、伊東が最も頼りにしていたのは篠原で、大事を行うにあたっては常に行動を共にしていたと記されており、司馬氏はこのあたりの記述からこの物語を創作したのかも知れません。」
「作品中では篠原は妻帯した事が無いと言い切っていますが、実際には萩野という妻と庄太郎という息子が居ました。京都に来た当初は妻子は江戸に置いて来た様ですが、後に京都へと呼び寄せています。萩野は後に起こった油小路の変の際に、新選組の追求をかいくぐって伏見の薩摩藩邸へと逃れ、庄太郎は下僕に伴われて大阪へと逃れたと篠原の手記に記されています。
この萩野は、維新後に篠原が赤報隊の事件に連座して投獄された際に、我が身に代えて夫を救い出したいと訴え出た事で世の賞賛を浴びたのですが、篠原はその直後に何故かこの妻と離婚しています。そしてその翌年に27歳年下のチマと再婚したのでした。現在残っている篠原晩年の写真の中に写っているのはこのチマで、萩野と庄太郎がその後どうなったかは定かではありません。幕末の苦難を共にした妻子を見捨てるとはどういう了見かという気がしますが、あるいはそこには他人には窺い知れない事情があったのかも知れません。」
なお、明日16日15時から17日15時にかけてココログのメンテナンスが予定されているため、次回の更新は17日になる予定です。メンテナンス中は、コメント及びトラックバックの受付が出来ませんので、あらかじめご了承下さい。
参考文献
新人物往来社「新選組銘々伝」「新選組資料集」「新選組の謎」、光文社文庫「新選組文庫」、子母澤寛「新選組始末記」、歴史読本平成16年12月号「特集新選組をめぐる女たち」、河出書房新社「新選組人物誌」
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