新選組血風録の風景 ~芹沢鴨の暗殺その4~
(新選組血風録の概要)
(京都に着いてからわずか20日後、新徴組は江戸への帰還を命じられた。表向きは生麦事件で不穏な情勢にあった横浜の警護であったが、実は清河が新徴組を朝廷に売り渡そうと暗躍している事が明らかになったためであった。しかし、初心を貫くとして、京都に居残った者達も居た。近藤とその同士の8人である。そしてなぜか芹沢の一派5人もまたこれに同調した。)
(京に残ったものの、新徴組から離れた近藤等は、ただの浪士の集団に過ぎなかった。そこで、文久3年3月13日、彼等は連署して京都守護職宛てに嘆願書を提出した。意外にも嘆願の筋は即日認められ、会津中将御預という法的地位と経費を与えられた。ここから新選組が始まっていく。)
(近藤達は早速同士を募り、程なく100人を越える規模となった。局長は芹沢を筆頭に新見と近藤の3人、副長に山南、土方の2人、副長助勤は沖田、永倉、原田、井上、藤堂など14人、そのうち近藤系は10人を占め、隊内に隠然たる勢力を築いた。)
(土方は何時の日か新選組を近藤のものにしたいと思っていた。そのためには芹沢を除かなくてはならないが、芹沢は神道無念流免許皆伝の達人であり、隊内で及ぶ者は居なかった。土方は今暫く時期を待たなければならなかった。)
「清河が朝廷に掲げた建白書の大意は、我らは尽忠報国の士の集まりであり、将軍が攘夷を行う事を補佐するために上京した。なるほど幕府の世話にはなっているが禄を受けている訳ではなく、天皇の命令に背く者があれば、これが幕府の大官であろうとも容赦はしない。この真心を貫徹出来る様に取りはからって貰いたい、というものでした。」
「この建白書には浪士組一同が署名しており、その中には近藤と芹沢も含まれていました。浪士組は幕府肝煎りの組織ですから、この種の建白書は幕府を経由して提出するのが当然の筋です。ところが清河は有志6人を選抜して、これを直接朝廷の窓口である学習院にまで持参させたました。これは清河が浪士組を結成するにあたって描いた構想の核とも言うべき行為でしたが、朝廷に受理してもらえるかどうかは彼にとっても際どい賭けでした。事実、学習院側でも一度は幕府を通して出し直せと受け取りを拒否しています。結局は使者の巧みな弁舌によって建白書は受理され、その5日後に勅定を賜る事に成功したのですが、一歩間違えればせっかくの苦心がすべて水泡に帰するところでした。危ない橋を渡る事によって、清河は、浪士組は攘夷の為の組織であると朝廷から直接お墨付きを得る事が出来たのです。」
「清河の狙いは、浪士組を梃子にして攘夷実行の勅定を奉じ、幕府を強制的に攘夷の渦の中に引きずり込む事にありました。直に朝廷に繋がる事が出来れば、清河が率いる浪士組は形式的には幕府と同等の立場に立てるのですからね。しかし、幕府もそれほど甘くはありませんでした。これ以上清河を京都に置いておく事は危険と考え、今度は幕府から朝廷に働きかけて、生麦事件の処理を巡って緊迫している横浜の警護を浪士組に命ずる勅定を頂いたのです。朝廷の命令という形にして、体よく清河を追い払おうとしたのですね。」
「その一方で、浪士文久報国記事に依れば、老中板倉勝静は浪士取締役と芹沢鴨の組下に対して、清河の暗殺を命じたとあります。芹沢の組下とは、平山五郎等芹沢の仲間と他ならぬ近藤一派の事を指します。この暗殺は失敗に終わっていますが、結局は清河は江戸において暗殺される事になります。直接手を下したのは佐々木只三郎、後の見廻組頭取ですね。この時清河は浪士組を率いて横浜を襲うべく奔走中であったと言い、幕府にとっては放置出来ない危険人物でした。ただ、清河が勅定を頂いた人物である以上、表だっては処分出来なかったのですね。」
「近藤は故郷への手紙の中で清河が暗殺された事に触れ、本来は京都において自分たちの手で梟首しようとしていたのだが、残念ながら失敗してしまったのだと書いています。京都に上る道中から意見が合わなかったとも記しており、近藤の清河に対する不信感は相当なものだった事が窺えるエピソードです。」
「浪士組の東帰に反対して京都に残留した近藤達でしたが、さしあたっての任務も無いままに、まず行ったのは仲間内での粛正でした。」
「幕府は浪士組の一部が残留するにあたり、殿内義雄と家里次郎にそのとりまとめを命じています。彼等の呼びかけに応じて残留を表明し、会津藩に届け出たのは次の24名でした。(ただし、斉藤と佐伯は浪士組ではなく京都からの参加。)
(後の新選組構成員)
芹沢鴨
新見錦
近藤勇
山南敬助
土方歳三
沖田総司
井上源三郎
平山五郎
野口健司
平間重助
永倉新八
斎藤一
原田左之助
藤堂平助
佐伯又三郎
(脱退・粛正組)
殿内義雄
家里次郎
根岸友山
粕谷新五郎
上城順之助
遠藤丈庵
阿比類栄三郎
鈴木長蔵
清水吾一
殿内義雄は昌平坂学問所で学んだ俊才であり、剣の腕も相当に立ったと言われる人物です。浪士組においては目付役を務めており、幕府としてはリーダーとして据えるのに好ましい人物だったのでしょう。ところが、近藤は殿内に失策があったとして、これを討ち果たしています。同士を求めて旅に出る途中、四条大橋において近藤と沖田によって討たれたとも、芹沢が手を下したとも言われますが、殺害時の詳細については判っていません。ただ、近藤が故郷へ宛てた手紙の中に天誅を下したとあるので、芹沢・近藤一派の誰かが殿内を斬った事は確かな様です。」
「家里次郎もまた大阪で切腹して果てました。これは近藤達が直接手を下したのかどうかは判りませんが、グループ内における主導権争いの中で犠牲になったのではないかと考えられています。そして、近藤達による粛正の影に怯えたのでしょう、殿内暗殺から間もなく根岸友山、粕谷新五郎らが脱退し、芹沢・近藤一派を中心とした、後の新選組の核となる人物達が残留します。」
以下、明日に続きます。
参考文献
新人物往来社「新選組銘々伝」、子母澤寛「新選組始末記」、PHP新書「新選組証言録」、松浦玲「新選組」
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コメント
こんにちは、なおくん様
凄く分かりやすいです。
私、ちょっとこの辺りが曖昧でした。
小説も読みながら、「あれ、この人、何時の間にいなくなった?」という人物がいたので・・・。
今年は節分会を廬山寺にいってみようと思っていたのですが、
なおくん様の記事で、久しぶりに壬生寺にも足を運ぼうかしらと画策中です(笑)。
投稿: いけこ | 2007.01.30 16:26
いけこさん、コメントありがとうございます。
新選組もこのあたりの動きは複雑で、判りにくいですよね。
殿内の暗殺などは新選組の暗部とも呼ばれ、
触れたくないファンも多いようです。
もっとも、私の記事は省略している部分が多いですから、
決して鵜呑みにせず、
疑問がある点は必ず参考文献に当たって下さい。
まあそのあたりは、いけこさんには釈迦に説法ですよね...。
投稿: なおくん | 2007.01.30 22:21