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2007.01.23

新選組血風録の風景 ~油小路の決闘その9~

Aburakouji5
(孝明天皇 後月輪東山陵)

「油小路事件で最初に倒れたのは藤堂平助でした。この事件の時、7人の御陵衛士とは別に、彼等の賄い方を勤めていた岡本武兵衛という人物が現場に同行しています。彼は伊東の死体を運ぶための人足として連れて行かれたのですが、無事に事件の現場から逃走し、貴重な目撃談を残しています。その証言に依れば、藤堂が伊東の死体を乗せた駕籠の垂れを引き下ろしていたところ、その背中を無造作に斬りつける者が居ました。その直後砲声が鳴り響き、一斉に四方から新選組隊士が襲いかかって来たのです。背中を切られた藤堂は、振り向き様に顔面を真っ向から切り下げられ、その場で即死してしまったのでした。」

「藤堂は新選組結成時からの同士で、八番組長を勤めていた事で知られます。上洛時には若干20歳で、若いと言われる沖田総司よりもさらに年下でした。藤堂和泉守の落胤という伝説を持ち、小柄ながら非常に美男子であったという記録も残っています。新選組!では、剣の腕は今ひとつという具合に描かれていましたが、実際には近藤の四天王の一人と言われ、沖田、永倉、原田と並び称される実力の持ち主でした。」

「剣は北辰一刀流の千葉周作の道場に学び、目録にまで進んでいます。近藤との繋がりについては、浪士文久報国記事に上洛前の試衛館での日常の風景として、日々の稽古が終わる都度に稽古人が一同に集まっては国事についての議論をしたとあるのですが、その仲間の一人として藤堂の名が挙げられています。彼は永倉や山南と同じく、他流派の出身ながら、近藤の道場に早くから食客の一人として出入りしていたのですね。」

「新選組結成後は直ちに副長助勤に登用され、最高幹部の一人として新選組を支えて行く事になれます。彼は誰よりも忠実に隊務をこなし、常に真っ先に敵中に飛び込んで行くという勇敢さを見せた事から、「魁(さきがけ)先生」の異名を取るにまで至っています。近藤はそんな藤堂を愛し、また信頼していたようですね。池田屋事件の際に屋内突入メンバーとして近藤が選んだのは、彼の四天王と呼ばれた沖田、永倉それに藤堂の三人でした。(原田はこの時、土方隊に配属されていました。)」

「そんな彼が、伊東甲子太郎の加入後は、次第に近藤から離れて行く事になります。江戸に居た頃、藤堂は試衛館の食客であると同時に、同流の伊東の寄り弟子でもありました。寄り弟子とは具体的にはどういう関係になるのか判らないのですが、伊東の道場に出入りして剣の手ほどきを受けていた事は確かだと思われます。」

「最初に伊東を新選組に誘ったのは他ならぬ藤堂でした。「新撰組顛末記」に依れば、尊皇を忘れて佐幕に走る近藤に見切りを付けた藤堂が、自分が近藤を暗殺するので伊東はその後を受けて新選組隊長になり、新選組を勤王化して行って欲しいと持ちかけたとあります。これは顛末記にだけある記述で直ちには信用できませんが、結果として藤堂は近藤に別れを告げ、伊東に従って御陵衛士となる道を選ぶ事になります。」

「模範的な新選組隊士であった藤堂が、なぜ近藤を捨てて伊東を選んだのかは良く判っていません。素直に考えれば、近藤よりも伊東の思想に共鳴するところがより大きかったという事なのでしょう。あるいは、流派の繋がりが最後にものを言ったのかも知れません。」

「藤堂に去られた近藤ですが、まだ彼に対する愛情は残っていました。油小路事件の際に、もし藤堂が現れた場合は、これを助ける様にと永倉と原田に命じていたのです。永倉と原田もその事は承知の上で現場に臨んだのですが、合図よりも早く斬りかかった隊士が居り、その相手が事もあろうに藤堂だったのです。永倉達が藤堂を助け様にも、その暇は全くなかったのですね。」

「藤堂を斬ったのは三浦常次郎でした。三浦は入隊後間もない仮同士の身分であり、年配でありながら技量は未熟であったと言われます。合図よりも先に斬りかかったのは、初めて経験する実戦であり、まだ場慣れしていなかったせいなのか、あるいは功を焦るあまりの抜け駆けだったのでしょうか。」

「浪士文久報国記事では、三浦は藤堂の反撃によって膝を切られ、その傷が元で事件後に死亡したとあります。また新撰組顛末記では、三浦はかねて藤堂に世話になっており、恩人を斬ってしまった事を苦にして、衰弱死してしまったと伝えられています。しかし、他の記録に依れば三浦は鳥羽伏見の戦いにおいて死亡したとされており、どの記述を信用すべきかは難しいところですね。」

「確かな事は、新選組!でも描かれていた様に、藤堂は新選組と御陵衛士の双方から愛され、その死を惜しまれた人物だったという事です。彼の遺体は一度壬生の光縁寺に埋葬されたのですが、維新後御陵衛士の仲間の手によって泉涌寺の塔頭・戒光寺に改葬されています。彼は今でも孝明天皇の陵を守る衛士として、泉涌寺の地で眠り続けているのですね。」

以下、明日に続きます。

新人物往来社「新選組銘々伝」「新選組資料集」「新選組の謎」、光文社文庫「新選組文庫」、子母澤寛「新選組始末記」、PHP新書「新選組証言録」、木村幸比古「新選組日記」、永倉新八「新撰組顛末記」

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コメント

こんにちは、なおくん様

昨日、一気にその1~9まで読んでしまいました。
まさに、当時の歴史の息づかい、志士達のいた京都に、
今居るのだなと思うと不思議な気持ちがします。
途端に、「血風録」、小母澤さんの「始末記」、司馬さんの「龍馬がゆく」をごそごそ引っ張り出してしまいました。
本日、徹夜でございます(笑)。

投稿: いけこ | 2007.01.24 13:10

いけこさん、コメントありがとうございます。
この長くて読みにくい記事を読んで下さり、
それだけでも十分ありがたいです。

歴史の町と言われる京都ですが、
今の街を見て平安時代まで遡る事はさすがに困難ですよね。
でも幕末なら当時の景色を見る事も不可能では無いですし、
その足跡を辿る事も出来ます。
その手かがりとして、
血風録は丁度手頃な小説ではないかという気がしています。
何と言っても面白い作品ですからね。

これからは出来るだけコンパクトに、
少しでも読みやすい様にまとめて行こうと思ってますので、
ご意見等ありましたらよろしくお願いいたします。


投稿: なおくん | 2007.01.24 22:38

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