新選組血風録の風景 ~油小路の決闘その4~
(新選組血風録概略)
高台寺月真院に御陵衛士として分離独立した伊東甲子太郎達でしたが、新選組に腹心の佐野七五三介ら4人を残していました。彼等を通して新選組隊内の情報を内報させるためでしたが、この事は近藤、土方も承知しており、御陵衛士覆滅の第一歩として4人の排除に掛かります。
土方は佐野以下4人を呼び、黒谷の会津屋敷への使いを命じます。用向きは軍資金の受領で、土方自らが率いて行くと告げて佐野達を油断させます。会津屋敷では酒肴が用意されており、土方も含めた5人で接待を受けました。そして夜も更けた頃、土方が会津藩士に別室へと呼び出されます。それを合図に、槍を持った10人の新選組隊士が佐野達に襲いかかり、あっと言う間に串刺しにしてしまったのでした。
この襲撃した隊士の中に人斬りと怖れられた大石鍬次郎が居ました。彼は倒れた佐野の死体に何度も槍を突き刺すという残忍な行為をくり返すのですが、見かねた土方に制止され、最期に佐野の顔を蹴り上げてやっとその手を止めました。ところが、その時不思議な事が起こります。大石に蹴られた拍子に佐野が息を吹き返し、ふらふらと立ち上がったのです。そして脇差しを抜くや大石の頭から足先までを浅く斬り下げ、再び元のごとく倒れたのでした。
大石にはこの事件に関連した後日談があります。御陵衛士の一人加納道之助が官軍として板橋に駐留して居た時、鍬吉と名乗る百姓姿の男が彼を訪ねて来ました。加納が会ってみると、鍬吉とは変装した大石鍬次郎その人でした。大石は加納に対し、昔のよしみで官軍に入れてくれないかと頼み込みます。しかし、加納は会津屋敷において大石が佐野に対して行った所業を忘れておらず、その恨みを晴らすべく、拷問に掛けた上で斬首に処してしまったのでした。
「御陵衛士が新選組から分離する際、双方の間で今後についての取り決めが行われていました。それは、御陵衛士から新選組へ、あるいは新選組から御陵衛士への移籍は今後一切認めないというものでした。この約定が後に佐野達4人の悲劇を招く事になります。
伊東一派とみなされながら新選組に残留したのは、佐野七五三之助、茨木司、富川十郎、中村五郎の四人でした。彼等は伊東の意向を受けて間者として新選組に止まった作品中にはあるのですが、果たしてどうだったでしょうか。
彼等の内、佐野については篠原らとは神奈川奉行所以来の同士であり、根っからの伊東派でした。彼の経歴から考えると、あえて伊東と袂を分かってまで新選組に残留したとは考えられず、彼については伊東と気脈を通じて間者として残留したと考えて良いのかも知れません。
茨木司については、彼は非常に有能な隊士で幹部の覚えもめでたく、諸士調役兼監察に就いていました。入隊時には伊東とは関わりが無かった様ですが、次第に伊東の人柄に惹かれる様になり、御陵衛士の分離の際には伊東に従おうとしています。しかし、近藤もまた有能な茨木を惜しんで手放そうとしなかったため、やむなく新選組に残留する事となりました。阿部十郎が維新後残した証言に依ると、茨木には、新選組が幕臣に取り立てられる日が来れば、他の者をまとめて公然論を立てて離脱して来る様にと言い含めてあったとあります。茨木は思い詰める質であったらしく、分離後もしばしばと密会しては早まった事をするなと言い聞かせたとありますから、間者という雰囲気では無い様ですね。情報を探るスパイと言うより、分離工作を任された工作員と言った方が相応しいのかも知れません。
富川十郎と中村五郎については、阿部も篠原も御陵衛士の同士と認めていますが、事情があって新選組に残留させざるを得なかったとあります。しかし、その事情が何だったかは語られておらず、間者としての密命を受けていたかどうかまでは判りません。ただ、茨木と一緒に離脱して来るようにという指示を受けていたとしても、あながち不自然では無いと思われます。
一方、西村兼文の「新撰組始末記」では、佐野達は伊東に付いて行くつもりだったのですが、御陵衛士が分離独立した日に外出していて隊に居なかったために仲間に入いる事が叶わず、両派の行き来を禁じた約定に従ってやむなく残留したのだと記されています。一見筋が通っていそうですが、これについては、「慶応雑記」という資料に、御陵衛士の新選組からの分離は慶応3年3月20日と21日の両日に渡って行われたのですが、藤堂平助、富山弥平衛ら4人は美濃に出張して不在であったため、後日帰京してからの離脱となったとあるそうです。これからすると、分離の日に隊に居なかったから残留したとする「新撰組始末記」の記述は怪しいと言えそうですね。
新選組の幕臣への登用は慶応3年6月10日の事でした。その3日後、佐野達4人は、彼等に同調する軽格の6人を伴って、京都守護職宛てに新選組離脱の嘆願書を提出しています。その理由は、「脱藩まで犯した自分たちの志は尊皇攘夷の実現にあって栄達する事ではなく、このまま幕臣の地位を受けてしまっては初志を貫徹する事が出来ない。また二君に仕える事は武士の道ではなく、元の主君にも申し訳が立たずとうてい受け入れる訳には行かない」というものでした。これは、新選組との間に定めた約定がある以上、直ちに佐野達を御陵衛士に受け入れる事が出来ないため、伊東が考えて佐野達に授けた策でした。公然と新選組を離脱した後なら、御陵衛士に受け入れても差し支えは無いという理屈ですね。
しかし、守護職側からの回答は、新選組と協議した上で決めるので、一旦は帰隊する様にというものでした。
「新撰組始末記」に依れば、守護職からの通報を受けた近藤は、決して彼等の願いを聞き入れない様にとの回答を寄越したとあります。この回答を得た会津藩公用人は、佐野達に翌日に出直すようにと促しました。やむなく引き上げた佐野達は新選組に帰る事も出来ないまま、西本願寺の西村兼文の下に身を寄せます。西村は佐野達の身を案じ、伊東の下へと一報を入れると共に、彼等のために一夜の宿を世話してやりました。翌日、佐野達は伊東の下を訪れ、事の顛末を語ります。伊東は再度守護職邸を訪れる事を危ぶみ、一時身を隠して時期を待ってはどうかと彼等に勧めました。しかし、佐野達はまさか守護職邸で乱暴を働く事は出来ないだろうと言って、再び出頭して行きます。そんな彼等を待ち受けていたのは新選組の罠でした。守護職邸では佐野達と軽格の6人を別々の部屋に招じ入れた後、佐野達の部屋に新選組の隊員が襲いかかったのです。不意を突かれながらも彼等は果敢に闘い、大石に一太刀浴びせたのは作品中にあるとおりです。しかし、衆寡敵せず、佐野達は凶刃の下に倒れてしまいました。軽格の6人は付和雷同しただけという事で放逐となり、佐野達については表向きは切腹して果てた事として、立派な葬式が出されたとあります。
一方、「浪士文久報国記事」に依れば、守護職から通報を受けた新選組からは、近藤以下、井上、大石等の隊士が守護職邸に駆けつけます。そして、佐野達に面会して、ひとまず帰隊する様にと説得を試みました。一度は説得に応じた佐野達でしたが、いざ局に帰ろうとした時、一室に籠もっていた4人が切腹してしまったのです。その様子を見届けに部屋に入ったのは大石でしたが、倒れていた佐野が脇差しで大石に斬りかかり、その膝を傷つけたとあります。
この事件に関しては、以前から殺害説と自害説の二通りの説があって、どちらとも決着は付いていません。阿部十郎の証言にしても、一度は彼等は切腹して果てたたと言い、2度目には新選組によって惨殺されたと前言を撤回しています。なんとも悩ましいところではありますが、私的には、京都守護職邸で暗殺を行うというのはいくら何でも無法に過ぎ、彼等は自発的に切腹したのだろうと考えています。事実は果たしてどうだったのでしょうね。」
「作品中に記された加納に依る大石捕縛のエピソードについては、新選組始末記にあるとおりなのですが、史実とは違っています。詳しくは以前に紹介していますが、簡略に記せば大石は維新後変名して潜伏していたところを、阿部達におびき出されて捕縛されたのでした。彼は伊東甲子太郎殺害の容疑で斬首となり、妻子を残したまま32歳の生涯を閉じています。」
以下、明日に続きます。
参考文献
新人物往来社「新選組銘々伝」「新選組資料集」「新選組の謎」、光文社文庫「新選組文庫」、子母澤寛「新選組始末記」、河出書房新社「新選組人物誌」、松井玲「新選組」、PHP新書「新選組証言録」、木村幸比古「新選組日記」
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コメント
三周年、おめでとうございます!!
これからも楽しみにしています。
希望としては、「新選組血風録の風景」の企画、
もう少しゆっくりのペースでアップしていただけると
読みやすいのですが・・・^^;
投稿: ヒロ子 | 2007.01.19 21:59
ヒロ子さん、コメントありがとうございます。
3年経ってもあまり進歩の無いブログではありますが、
これからもよろしくお願いいたします。
ところで、やっぱり血風録の風景は長すぎますか。
自分でも判っているのですが、ついあれもこれもと書きすぎてしまいます。
ただ、新選組フリークと呼ばれる方にとっては、
これでも書き足りない位だと思われ、
どのあたりでバランスを取るかまだまだ試行錯誤中です。
回数を多くして毎回の文章を短くしていこうかとか、
写真をメインにしてコメントを短くしようかとか、
あれこれ迷っている最中です。
今はかなり読みにくいとは思いますが、これからもご意見を頂ければ幸いです。
投稿: なおくん | 2007.01.20 00:39