新選組血風録の風景 ~油小路の決闘その5~
(新選組血風録概略)
会津屋敷での惨劇は極秘裏に進められたため、御陵衛士達に知られる事はありませんでした。その数日後、伊東の下に近藤から伊東の高説を聞きたいという誘いが届きます。罠ではないかと危ぶむ篠原ですが、近藤が自分の学識に惚れているという自信があった伊東は、護衛も付けずに出かけていきます。
近藤が招いたのは、七条醒ヶ井にあった彼の妾宅でした。そこで伊東は近藤の妾である孝子の巧みな周旋によって、したたかに酒を飲まされてしまいます。
伊東が近藤宅を出たのは午後10時頃でした。伊東が出た後、近藤は土方を呼んで用意は良いかと確かめます。その声に無言でうなずく土方。
左手に菊桐の紋の入った提灯を提げて、一人で歩く伊東。折から中天に十六夜の月が掛かり、東山の稜線をくっきりと照らし出していました。
伊東は竹生島を吟じながら木津屋橋を東に渡り、草原へと差し掛かります。右手は火事後の家が普請中であり、板囲いがしてありました。伊東がその板囲いに足をとられ、思わずよろめいた時に、突然板塀の隙間から長槍が突き出されます。槍は狙いも外さず、伊東の右肩から喉にかけて突き刺しました。槍に貫かれながらも、伊東は声も立てずに刀の柄に手を掛け、目だけを動かして人数を数えます。そこに現れたのは大石と、かつて伊東の馬丁を勤めていた勝蔵でした。勝蔵は最近隊士になったばかりで、手柄が欲しいと思っていました。彼は大石を遮って、旧主の肩に切りつけます。その時、伊東の刀が一閃されました。顔を真っ二つに割られて倒れる勝蔵。しかし、同時に伊東もその場に倒れてしまいます。意味不明の言葉を残して、息を引き取る伊東。
大石の背後から現れた土方は、伊東の死体を囮にすると命じます。大石は念のために伊東の足に切りつけましたが、伊東の身体は二度と動く事はありませんでした。
「近藤の妾宅があったのは、屯所跡の石碑のあるリーガロイヤルホテルの北、旧安寧小学校のあたりではないかと推測されています。このあたりは当時は京都の町はずれで、作品中に草原とあるように、家並みもまばらな場所でした。しかし、現在は堀川通に終日車が行き交う交通の要衝になっており、また付近一帯はすっかり市街化しています。特に当時と比べて堀川が暗渠化されている事、太平洋戦争中の強制疎開によって堀川通が拡幅されている事から、現地を訪れたとしても、幕末の頃の状態を推定する事はまず無理と言って良いでしょう。」
「近藤が伊東の呼び出しに使った名目は、血風録にある様に国事の相談がしたいと誘った(伯父 伊東甲子太郎武明、新撰組始末記)とも、伊東から申し入れのあった金子借用の件だった(文久浪士報国記事)とも言われています。いずれにしても、不用心にも伊東は一人で出かけた訳ですが、通常は伊東は近藤を甘く見ており、また自分の腕にも自信を持ちすぎていたからだと説明されています。
ところが子細に見ていくと、伊東は御陵衛士として分離した後も、近藤との接触を保っていた形跡があります。慶応3年10月9日に、近藤が土佐の陸援隊が挙兵するらしいという情報を会津藩にもたらした事があるのですが、その場に居合わせた伊東がこれを追認したという記録があるそうです。これなど、御陵衛士が新選組から分離する時に交わした約定どおり、局外にあって新選組の活動に資するという行動を取っていた事例と言えそうですね。
こうした事例から見ると、伊東は勤王派としての活動を展開する一方で、近藤や会津藩との接触も保っていた事になり、いわば両属の形を取っていた様にも受け取れます。また、浪士文久報国記事の記述を信じるとすれば、伊東は御陵衛士の活動資金の一部を新選組に用立てて貰っていた事にもなり、このあたりの不透明さが、伊東が他の勤王派から信用されなかった一因なのかも知れません。こう考えてくると、伊東が易々と近藤の誘いに乗ったのは、普段から近藤との間には行き来があり、近藤から呼び出される事は特別な事では無かったからなのかも知れないという気がします。」
「ではなぜ近藤が伊東を暗殺したのかと言えば、やはり伊東に裏切られたと感じたからでしょう。このあたりは、松浦玲氏の「新選組」に詳しいのですが、伊東が暗殺される直前に、朝廷の議奏である柳原光愛に対して差し出した建白書が関係していると思われます。この建白書には、伊東の持論である「大開国論」が記されていました。大開国論とは、一言で言えば朝廷主導による王政復古の実現を目指したもので、幕府の存在は完全に否定した内容になっています。
伊東が建白書を提出したのが慶応3年11月9日の事で、その翌日に斉藤一が伊東の下から脱出しています。近藤は斉藤から建白書の事を聞いたのかも知れず、少なくとも大開国論の趣旨は聞いたものと思われます。幕府の存在が絶対である近藤にすれば、伊東の構想は受け入れがたいものでした。それまでは曲がりなりにも友好関係にあっただけに、大開国論を展開する伊東の行動は、近藤にとっては裏切り行為以外の何ものでもなかったではないでしょうか。」
「ただ、別の角度から見ると、伊東の暗殺はやはり不可解と言わざるを得ません。すなわち、御陵衛士とは、幕府の一機関である山稜奉行の下部に属する組織でした。その一方で、天皇の御陵を衛る組織である事から、朝廷も経費の一部を負担しており、そういう意味では朝臣でもありました。法制上は新選組とは全くの別の組織であり、その長たる伊東を大義名分もないままに暗殺する事は無法と言うより無く、新選組が関与したどの事件と比べても無茶な行為です。
新選組は幕府から警察権を委任された組織であり、著名な池田屋事件や三条制札事件は、社会の治安を守るために行った公権力の行使でした。また、数多く行ってきた内部粛正にしても、公の組織である新選組を危うくする不穏分子の処罰であり、これもまた広い意味での公権力の行使と言えるでしょう。ところが、伊東甲子太郎の暗殺に関しては何の法的根拠もなく、全くのテロとしか言い様がありません。
なぜ近藤がこんな無法行為をしたのかずっと不思議に思っていたのですが、伊東と近藤の関係を見ていくと、近藤は当初の約定通り、御陵衛士を新選組の外局として捉えていたのではないかという気がします。伊東もまた新選組の外郭組織であるかのような振る舞いをしていたこともあって、近藤にとって伊東は組織内の裏切り者であり、その暗殺は法度違反に依る内部粛正の延長だったのかも知れません。
しかし、世間はやはりそうは受け取りませんでした。事件直後には朝廷が新選組の処罰を主張していますし、後に囚われの身となった大石鍬次郎や相馬主計に対する処罰の理由は、新選組隊員としての活動そのものを問うものでは無く、伊東甲子太郎の暗殺への関与があったからというものでした。こうしてみると、伊東の暗殺は近藤にとっても、また新選組にとっても、大いなる失策であったという気がしています。」
以下、明日に続きます。
参考文献
新人物往来社「新選組銘々伝」「新選組資料集」「新選組の謎」、光文社文庫「新選組文庫」、子母澤寛「新選組始末記」、河出書房新社「新選組人物誌」、松井玲「新選組」、PHP新書「新選組証言録」、木村幸比古「新選組日記」
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