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2007.01.27

新選組血風録の風景 ~芹沢鴨の暗殺その2~

Yagitei3

「浪士組結成にあたっての大赦の実施で恩恵を受けたのは、清河だけではありませんでした。後に新選組局長を務めた芹沢鴨と新見錦もまた、この大赦の恩恵を受けて危うく死罪になるところを免れているのです。」

「本編の主題である芹沢鴨は、有名な割には生年を初めとして不明な部分が多い人物です。諸説がある中で、茨城県行方市(旧玉造町)のホームページに依れば、芹沢鴨は同市芹沢の出身で、常陸平氏大掾氏の流れを汲む人物と紹介されています。この説は、浪士文久報国記事に水戸芹沢村の浪人とある事、また後に京都北野天満宮に掲げた歌額の署名に「芹沢鴨 平光幹」とあったとされる事などと符合していますね。」

「近藤の書簡には「下村嗣司こと芹沢鴨」(浪士文久報国記事では「木村継次」)とあり、浪士隊に入った頃の本名は「下村」であった事が窺えます。これは彼が芹沢家から神職の家柄である下村家へ養子に入っていたからであろうと考えられています。つまり、芹沢鴨の前身は神主であったという事になりますね。勤王家である彼にとっては、如何にも相応しい家柄であったとは思われます。」

「下村継次の名は、天狗党の前身である玉造勢の幹部の一人として見る事が出来ます。玉造勢は佐原の豪商達から800両を借り上げたという証文を残しているのですが、その証文の五番目に彼の署名があります。この借り上げは、尊王攘夷派による資金調達の常套手段である押し借りの典型的なもので、仲間の数を背景に豪商達を威し上げて金を出させるという手口でした。」

「新撰組顛末記に依れば、下村は玉造勢が板子宿に陣を敷いていた時に、法令違反に問われた3人の部下を斬ったとあります。また、鹿島大神宮に参拝した際に持っていた鉄扇で神社の大太鼓の皮を叩き破ったともあり、これらの罪を問われた下村は獄に下り、法に照らして死罪を言い渡されたのでした。」

「一方、浪士組の一員であった草野剛三が残した証言に依れば、芹沢と新見は東禅寺事件(水戸の浪士達がイギリス公使オールコックの一行の宿所である江戸・高輪東禅寺を襲ったという事件)に連座して処刑されるところであったとあり、顛末記の記述とはニュアンスが異なっています。」

「いずれにしても、下村は清河と同じく大赦の恩恵を受けて許されたのでした。そして、文久3年2月4日、下村継次は、芹沢鴨と名を改めて小石川伝通院に現れるのです。」

以下、明日に続きます。

参考文献
新人物往来社「新選組銘々伝」、子母澤寛「新選組始末記」、PHP新書「新選組証言録」

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