新選組血風録の風景 ~芹沢鴨の暗殺その3~
(八木邸前の様子。最近は乗り合いタクシーの案内で訪れる修学旅行生をよく見かけます。)
「芹沢鴨という不思議な名の由来については、これも諸説があります。下村から芹沢と名乗りを改めたのは本家の姓に戻った訳ですが、新たな門出にあたり水戸時代の名を捨てて気分を一新したという事なのでしょうか。一説には妻と息子を捨てて養家を出奔したのだとも言い、また妻と死別した事を機に養家と離縁になったのだとも言いますが、確かな事は判りません。」
「鴨という名については、「芹と鴨」を引っかけた一種の洒落ではないかとする説が面白いですね。現在では鴨と言えば葱ですが、江戸時代には「鍋焼の鴨の芹とは二世の縁」という川柳があるほど、鴨肉と芹は相性の良い食べ物として知られていました。これが事実だとすれば、芹沢鴨は、結構遊び心のある人物だった様ですね。ちなみに、幕末に会津藩の本陣があった金戒光明寺では、この芹鴨鍋を昼食プランとして再現されていますので、興味のある方はお試しになられてはいかがですか。(ただし15名以上からの申し込みとなってます。)」
「またこの他に、常陸風土記の中に、天皇が狩りに訪れた時、弓を向けられた鴨が逃げずにひれ伏したという話があり、それにちなんで天皇への忠節を現すために付けた名だとする説もあるようです。」
「芹沢が獄から解き放たれたのは、文久2年12月26日の事でした。そして、伝通院に現れたのが文久3年2月4日の事です。この約一ケ月の間に、芹沢に何があったのかはよく判っていません。天狗党を除名されたのだとも、幹部登用の道から外された事を不満に思って袂を分かったのだとも言われますが、詳細は不明です。あるいは京都にあって水戸の天狗党と連携するために、同士から派遣されたという説もありますね。さらに一説に依ると、芹沢鴨は下村継次とは別人で、その名を騙っただけの偽物だとする向きもある様です。」
「何にせよ、水戸において尊皇攘夷運動に係わっていたという経歴は、浪士組にあってはきらびやかに映った様です。芹沢とその仲間である新見錦は最初から隊長に任命されており、その前歴がものを言ったのではないかと考えられています。」
「そして、面白いのは浪士文久報国記事にある記述で、浪士組の編成にあたっては、組頭は各自で選ぶ様にとのお達しがあり、近藤一派は特に芹沢を選んでその下に付いたと記されています。もしこれが事実だとすれば、近藤達は東禅寺事件などで有名な芹沢に憧れ、自らその一派に加わったという事になりますね。だとすれば、これは新選組の成り立ちにも係わってくると思うのですが、そこまで言及する研究者はまだ誰も居ない様です。」
「その近藤達が浪士組の結成を知ったのは、最初は風聞として伝え聞いたものらしく、そして確報は井上源三郎がもたらしたものだった様です。浪士文久報国記事に依れば、試衛館の一同はその設立趣旨を聞いて大いに喜び、近藤、沖田そして永倉が代表として松平忠敏の下に申し込みに行き、これが受け入れられたとあります。」
「浪士組の編成は資料によってまちまちで、芹沢は3番隊長とする説、取締役付きだったとする説、近藤もまた隊長だったとする説など様々です。これはどうやら道中でしばしば変更があった事に起因している様です。例えば理由はよく判りませんが、芹沢は途中で隊長を近藤と交代させられた様ですね。とは言っても、すぐに取締役付きに任じられている事から、やはり重く見られていた事には変わり無い様ですが。200人以上の荒くれ者からなる集団ですから、世話役達は道中の規律の確保にさぞ気を遣った事だろうと想像は出来ますね。」
「芹沢と言えば、本庄宿での大かがり火騒動が有名です。道中における芹沢の横暴を物語る最たるもので、後の芹沢一派と近藤一派の確執の原因ともなったとされる事件です。しかし、この事件の元を辿れば「新撰組顛末記」の記述に行き着き、そしてこれを証明する同時代資料は無いそうですね。「新撰組顛末記」は永倉新八の記述を元に編集された読み物ですが、必ずしも史実のみを記載しているとは限らず、編集段階で組み込まれた創作も相当数含まれていると考えられています。同じ永倉が書いた浪士文久報国記事にはこの一件は記載されておらず、大かがり火騒動が実際にあった出来事かどうかは疑わしいという見方が出ています。」
「文久3年2月23日に浪士組は壬生に落ち着きます。なぜ彼等が壬生に入ったのかと言えば、前川家が浪士組の宿所選定を任されていた事に起因する様です。現在も壬生に残る前川邸は分家筋にあたり、前川本家は油小路六角にありました。前川本家は掛屋(金融業者)を営んでおり、御所や所司代、奉行所などの公金の運用に携わる事で公儀と密接な繋がりを持っていました。公儀では、浪士組の上洛にあたっての宿割りという面倒な仕事を、市中情勢に詳しくかつ信用のおける出入り商人である前川本家に任せた様です。平たく言えば、前川家を便利使いしたという事ですね。」
「浪士組の宿所選定は、結構気を遣う仕事だった様です。浪士組は公儀御雇いとはいえ、元はと言えば江戸に蔓延る不逞浪士の集まりでした。この集団を京都の町中に置く事は憚かれ、かといって全くの郊外に置いたのでは統制に困ります。そこで、京都の町はずれでありながら二条城に近いという地理的理由から、壬生の地が選ばれたのでした。それに、ここには前川家の分家が所有する広大な屋敷があったという事もその主たる理由の一つだった事でしょう。前川家ではこの困難な仕事を処理するにあたって、自ら泥を被ったのだとも言えるのかも知れません。」
以下、明日に続きます。
参考文献
新人物往来社「新選組銘々伝」、子母澤寛「新選組始末記」、PHP新書「新選組証言録」
参考サイト
新選組屯所・旧前川邸
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