新選組血風録の風景 ~芹沢鴨の暗殺~
(新選組血風録の概要)
(文久3年2月4日、小石川伝通院内処静院において、公儀肝煎による浪士団の顔合わせが行われた。総勢は234名。武州多摩郡石田村の百姓の三男である土方歳三もまた、天然理心流の師匠である近藤勇、同門の沖田総司、山南啓助、井上源三郎、友人の永倉新八、原田佐之助、藤堂平助と共にこの中にあった。)
(浪士団は世話役の清河八郎の発案により浪士隊と名付けられた。後に新徴組と呼ばれる事になる。浪士隊は上京する将軍の警護を目的としていたが、京で跳梁する不逞浪士の取り締まりに当たるとも言い、手柄次第によっては旗本に取り立てられるという噂もあった。応募した者は、江戸府内の慷慨の士、名うての剣客などが多かったが、中にはいかがわしい博徒なども相当数含まれていた。)
(幕府の世話役は浪人奉行である鵜殿鳩翁と浪人取締役の山岡鉄太郎、実際の仕切は清河とその仲間である石坂、池田が行った。初顔合わせの中、個々のグループに分かれて屯する浪人達。その中にあって、ひっそりとして目立たない近藤一派と、対照的に派手に騒ぐ芹沢鴨の一派。その芹沢を見て、どこか気にくわない様子の土方。)
(2月8日、新徴組隊士は板橋宿を立ち、中山道を京に向かった。隊は七組に分けられ、それぞれの組に清河らの人選に依る伍長という名の隊長が任命された。伍長に選ばれたのは一番隊の根岸友山を初め著名な浪人がほとんどだったが、なぜか五番隊伍長に選ばれたのは、甲府の博徒である祐天仙之助であった。芹沢鴨は取締付筆頭。近藤一派は無名の悲しさ故に博徒よりも軽く扱われ、六番隊の村上俊五郎の下に全員が配された。)
(宿を重ね、明日は本庄宿という時、近藤に宿割りの役目が回ってきた。近藤にはそういう雑務の才は無いと危ぶむ土方だったが、果たして芹沢に宿を割り振る事を忘れてしまった。へそを曲げる芹沢に平謝りに謝る近藤だったが、芹沢は宿場の真ん中に大かがり火を焚いて野宿をするという嫌がらせに出た。宿場中大騒ぎになり、藤堂が芹沢を斬るといきり立つのを余所に、黙って部屋に寝ころがり、じっと天井を見つめている土方。)
(2月23日、一行は京都の壬生に到着し、本部を新徳寺に置き、隊士達は周辺の郷士屋敷などに落ち着いた。)
「浪士隊(浪士組)の結成は、講武所剣術教授方であった松平主税助税忠敏の建白に始まっています。当時、幕府は諸外国との間に条約を締結して横浜などを開港していたにも係わらず、朝廷に対しては攘夷を行うという矛盾した約束を交わしていました。薩長土藩など攘夷派の後押しを受けた朝廷では、再三に渡って幕府に攘夷の実行を迫り、幕府を苦しめます。こうなった原因を辿れば、諸国の草蒙の志士達が薩長土藩に取り入ってこれを刺激し、朝廷の攘夷熱を煽らせているところにありました。松平忠敏は、この元凶となっている志士達を幕府側に取り込めばこの騒ぎも収まるはずと考え、浪士組結成の建白書を提出したのです。」
「浪士組結成の趣旨は、幕政の改革を実行するにあたり浪士にその一端を担わせる、その資格は尽忠報国の志を持つ者とし、その資格を有する者は今までに犯した罪を免除するというものでした。提案者である松平忠敏が念頭に置いていたのは、他ならぬ清河八郎でした。」
「清河は出羽藩の庄屋の家に生まれ、長じて江戸に遊学して北辰一刀流の門を叩き、文武を修めます。その後、自ら塾を起こして教授を務めていたのですが、桜田門外の変に刺激を受けて尊皇攘夷運動に目覚めます。そして、清河塾に集まった者達を中心に虎尾の会を結成し、横浜居留地の焼き討ちを企てました。ところが、これが幕府の知る所となり、さらには町人(捕方の手先とも言います)を殺めて幕府のお尋ね者となってしまいます。」
「江戸を追われた清河は西国に逃れ、諸国を巡りながら各地の志士達に面会しては尊皇攘夷を説いて回りました。清河にはよほど扇動の才があったのでしょう、彼に刺激された志士達は続々と京都に集まり、一大勢力を成すに至ります。彼が遊説中に出会った主な志士達は、真木和泉、平野国臣、真崎哲馬、吉村寅太郎、宮部鼎蔵、川上彦斎、田中河内介などで、文久元年から2年にかけての京都における攘夷騒ぎは、実に清河によって引き起こされたと言っても過言ではありませんでした。」
「清河が各地の志士達に呼びかけた計画は、島津久光が率兵上洛する一千の薩摩藩兵と共に京都で挙兵し、一気に攘夷を決行しようというものでした。ところが、当の久光には挙兵の意思などはさらさら無く、反対に寺田屋事件によって京都挙兵計画が潰されてしまいます。有力な同士を失い、失意の清河は京都を後にし、江戸へと舞い戻ったのでした。清河が去った後の京都では、長州藩が薩摩藩に代わって攘夷派の中心勢力となります。そして清河の扇動で集まった諸国の志士達が次々と天誅騒ぎを引き起こし、京都を騒乱の渦の中へと引きずり込んで行ったのでした。」
「そうした情勢の中で出された松平忠敏の建白書は、実は清河が次の一手として、裏で絵を描いたものだとも言われます。自らの罪を逃れると同時に浪士組という力を得るという一石二鳥の手で、虎尾の会の同士である山岡鉄太郎を通して忠敏に働きかけたと言われています。そしてこの策は頭に当たり、清河は大手を振って天下を歩ける様になると同時に、浪士組の世話役ともなったのでした。」
以下、明日に続きます。
参考文献
新人物往来社「新選組銘々伝」、「新選組資料集」「新選組の謎」、子母澤寛「新選組始末記」、藤澤周平「回天の門」
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