新選組血風録の風景 ~油小路の決闘その3~
(新選組血風録概略)
おけいの計略に乗ってしこたま酒を飲んだ篠原は、背中の傷の痛みと出血もあって、やがて昏倒してしまいます。そして、翌日の夕方目覚めた篠原は昨夜の気負いはすっかりと消え失せており、切腹することは止めにして、背中に傷を受けた事は隊には隠し通そうと決めます。
隊に隠し事を持った篠原は心理的に負い目を感じ、その反動として、これまで反発を覚えていた新選組に批判的な伊東甲子太郎に同調する様になります。そして、伊東から新選組からの分離を打診された篠原は、伊東の案に同意し、むしろ分離独立を公然と宣言すべきだと助言をしてやります。篠原の同意を得た伊東はやっと決心を固め、近藤と談判の上、孝明天皇陵を警護する御陵衛士として新選組を離脱しました。一見すると伊東の思想に同調したかの様な篠原でしたが、実は背中の傷が隊に発覚する事を怖れるあまり、伊東の案に乗ったというのが真相でした。
「そもそも伊東が新選組に加入した理由は、藩という背景を持たない徒手空拳の彼が、幕末の時勢も煮詰まりつつあった元治という時期に、尊皇攘夷の理想を掲げて世に打って出ようとすれば、新選組に加入する以外に手段が無かったからでした。名も無き草蒙の志士達が活躍出来た安政以前ならともかく、元治元年の頃には幕府や会津、あるいは薩長土といった雄藩が時勢の中心にあり、個人の力で動かせる時勢ではなくなっていたのです。
この時期に個人で参加できる有力な勢力としては、新選組の他に水戸天狗党がありました。実際に伊東は一時期水戸天狗党と手を結ぼうとしたのですが、その前途が危ういと見抜いた彼は天狗党への参加を見合わせています。そのため、彼に残された選択支は新選組加入以外には無かったのです。
伊東の下に新選組加入の誘いが届いたのは、丁度水戸天狗党への参加を見合わせた直後、元治元年の秋の事でした。溢れる様な才幹と尊皇攘夷の志を持ちながら時勢への参加が遅れ、一介の道場主として忸怩たる思いを抱いていた伊東にとっては、まさに渡りに船の様な誘いだった事でしょう。既に池田屋事件を経て幕府の爪牙としての姿を現しはじめていた新選組ではありましたが、伊東にとっては時勢に打って出る足掛りとしての魅力の方が大きかったものと思われます。」
「新選組に入ってからの伊東は、新選組の中の穏健派として隊内での勢力を扶植する事に腐心しています。隊内の秩序を重んじ二言目には失策を犯した隊士を斬れと言う近藤に対し、その横からまあまあと割って入って処分を軽くしてやるといった具合にして恩を売り、次第に勢力を大きくして行きました。その一方で、その見識の高さによって近藤からも厚い信頼を受ける事に成功しています。例えば、新選組の前途を賭けた2度の広島行きの随行員として近藤が選んだのは他ならぬ伊東でした。」
「こうして、新選組の中での重鎮としての地位を固めた伊東でしたが、世の尊皇攘夷派は次第に倒幕派へと衣を変えつつありました。それまでの尊皇攘夷運動は、弱腰の幕府に迫って幕政を改革する事で攘夷を実現させる、あるいは朝廷を動かして攘夷せざるを得ない状況に幕府を追い込むといった事を目的としていました。ところが、薩英戦争、下関戦争などを経て日本と外国の力の差が明らかになり、攘夷の実現のためには旧態依然たる幕藩体制ではどうにもならない事が判ってくると、尊皇攘夷運動は倒幕運動へと姿を変えて行きます。伊東もやはりこの流れを敏感に感じ取り、新選組として出来る事の限界を悟りました。そこで、伊東はもはや足かせにしかならない新選組からの離脱を決意するに至るのです。しかし、彼の前には局を脱する事を許さないという、鉄の掟が立ち塞がっていました。」
「伊東が最初に新選組からの離脱の意思を明らかにしたのは、慶応2年9月26日の事とされます。篠原の手記によれば、この日篠原と共に近藤の妾宅を訪れた伊東は、まず昨今の時勢を説き、自分たちは孝明天皇の御陵衛士として新選組から離れて自由な姿となる、その上で薩長に接近して彼等の動静を探り出し、隊の外から新選組に協力する事にしたいと切り出しました。これに対して近藤は疑念を抱いて極力反対したのですが、翌日もまた二人して強腰で談判に及んだところ、ついに近藤も離脱に同意したとあります。ただし、これには重大な疑義があって、9月26日の時点では孝明天皇はまだ在世中であり、その陵墓の御陵衛士になるという構想が出てくるはずもないのでした。恐らくは、この時点ではまだ分離の意思は明示しておらず、時勢論を闘わせただけではなかったかと考えられています。」
「慶応2年も押し詰まった12月25日、孝明天皇が崩御されます。それまでの天皇の葬儀は火葬と決まっており、泉涌寺にある天皇家墓所に九輪塔を建てて山稜の代わりとされて来ました。ところが、尊皇思想の高まりを受けての事でしょう、孝明帝については山稜奉行の戸田忠至の建言によって土葬の古制に戻す事が決められ、独立の山稜が築かれる事になります。伊東はこの陵墓に目を付け、その陵墓を守る衛士となる事を考えつきます。陵墓が築かれる事が明らかになったのは慶応3年1月3日の事で、伊東は1月18日に九州へ遊説の旅に出ています。恐らくは、この間に御陵衛士となる事で新選組からの離脱が実現出来ると目星が付き、西国の志士達から分離独立についての理解を得るための旅に出たものと思われます。そして、御陵衛士となるための実際の交渉は篠原に任せられました。篠原は、泉涌寺塔頭戒光寺の湛然長老に働きかけ、その結果3月10日に伝奏から御陵衛士としての拝命を受ける事に成功しています。」
「なお、作品中の日付には明らかな誤謬があります。伊東が篠原に新選組からの離脱を打診したのは慶応2年2月25日の事とあるのですが、これは史実は別としても作品の中においても矛盾していますね。なぜなら冒頭の三条大橋の事件があったのが慶応2年3月30日の事と書かれていますから、伊東が本心を打ち明けたのは篠原が傷を受ける前の出来事となってしまうからです。これでは作品のコンセプトが台無しですよね。おそらくは慶応3年2月25日としたかったのか、もしくは慶応2年9月25日の誤りでしょう。前者なら分離独立の直前、後者なら篠原の手記にある近藤との談判の直前となりますからね。」
(新選組血風録概略)
篠原の同意を得た伊東は、新選組の幕臣への取り立てが決まった事をきっかけとし、近藤に御陵衛士になる事を打ち明けます。そして、自分たちは幕臣となって身分を拘束されるのは好まない、より自由な立場で薩長と交わり、その機密を探り出す事によって新選組の活動に資するつもりだと説いて、新選組からの分離について同意を得ます。新選組から離脱した御陵衛士は15人で、彼等は一度五条大橋東詰の長円寺に入り、その後6月8日に高台寺の月真院へと移りました。
彼等は門前に禁裏御陵衛士屯所という表札を掲げ、朝廷から特に菊と桐の紋章を染め抜いた幔幕を張り巡らしました。伊東が奔走して集めた資金は潤沢で、食費だけでも1日八百文(東海道の宿賃が一泊二百文)という贅沢さでした。
「伊東が九州から帰ったのは3月12日の事でした。その時には御陵衛士への任命は通達されており、伊東はそのすぐ翌日に近藤に会って新選組からの独立を説いています。近藤は既に知っていたからなのか、あるいは別に存念があったためなのか、意外にもあっさりと了承した様です。
ところが、あまりに事態の進展が早かったため、御陵衛士の屯所をどこにするかが決まっていませんでした。伊東は八方奔走し、3月20日に一度三条の城安寺に入り、すぐその翌日に五条の善立寺に移っています。作品中では五条橋東詰めの長円寺となっていますが、これは「新選組始末記」にそう記されているからで、さらに元を質せば西村兼文の「新撰組始末記」に行き当たります。小野圭次郎の「伯父 伊東甲子太郎武明」には善立寺とあり、現在のほとんどの資料は善立寺を採用しているのですが、長円寺が全くの間違いというだけの根拠もありません。
当時の善立寺は、五条通に面した東山郵便局の前のグリーンベルトの辺りにあったのですが、太平洋戦争中の強制疎開により現在の東大路通松原西入の地に移りました。御陵衛士がここに居たのは2ヶ月と少しの間で、6月8日には月真院へ入っています。
御陵衛士のメンバーについては諸説があり、10名説、13名説などがあるのですが、作品中の15人説を採れば、
伊東甲子太郎
三木三郎
篠原泰之進
新井忠雄
毛内有之助
服部武雄
斉藤一
藤堂平助
加納道之助
富山弥兵衛
阿部十郎
内海次郎
中西登
橋本皆助
清原清
となります。」
以下、明日に続きます。
参考文献
新人物往来社「新選組銘々伝」「新選組資料集」「新選組の謎」、光文社文庫「新選組文庫」、子母澤寛「新選組始末記」、河出書房新社「新選組人物誌」、松井玲「新選組」
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