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2007年1月

2007.01.31

新選組血風録の風景 ~芹沢鴨の暗殺その6~

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(京都・島原 角屋)

(新選組血風録の概要)
(芹沢鴨の横暴は、日を追う毎に激しくなっていった。ある日、新選組が島原の角屋で酒宴を開いていた時、芹沢は宴半ばで何か気にくわない事があったらしく、にわかに「亭主を呼べ!」と顔色を変えた。たまたま同席していた土方が隊士に耳打ちして階下にやり、亭主の徳衛門を逃がしてやった。そして仲居にも言い含めて、主人は他行中ですと答えさせたのだが、芹沢はこれは土方のさしがねであると見抜いしまう。その上で、土方を連れて主人の部屋へと討ち入り、主人が居ない事を確かめるや今から城割を行うと宣言し、鉄扇を振るって手当たり次第に調度・什器の類を壊し始めた。荒れ狂う芹沢を尻目に、席に戻って一人静かに酒を飲む土方。芹沢が荒れれば荒れるほど人望を失い、やがて自滅する時が来ると冷ややかに思案を巡らす。)

「角屋の一件は、芹沢の乱暴狼藉ぶりを示す事件として、最も良く知られたものの一つです。この事件を記録したのは永倉新八で、新撰組顛末記と浪士文久報国記事の両方に記載があります。顛末記の方が経過に詳しく、この事件の前段として水口藩との諍いが語られています。」

「文久3年6月末頃、水口藩の公用人が新選組の乱暴狼藉について会津藩に苦情を漏らした事がありました。これを聞きつけた芹沢は、その公用人を捕まえて来る様にと隊士に命じます。新選組に押しかけられた水口藩では八方陳弁に努め、ついには詫び状を書く事でその場を収めます。」

「しかし、冷静になってみると、詫び状を取られた事が藩主に伝われば、公用人は切腹を申しつけられる事になってしまいます。このため、水口藩では間に人を立てて、詫び状を取り返そうとしました。芹沢は角屋にて隊士一同と共に会うと約束し、当日隊士達に諮った上で詫び状を返してやりました。そして、水口藩からのお返しとして始まったのが件の宴会だったという訳です。」

「この席上、芹沢は隊士一同に対して、水口藩士の手前であり、いつもの喧嘩口論は慎む様にと申し渡しました。ところが荒くれ者が揃った隊士達がおとなしくしているはずもなく、酒が回るにつれて席上が乱れてきます。この様子を見て、酔うほどに不機嫌になる芹沢。」

「程なく、同席していた土方は、宴席に居るのは他の店の芸妓衆ばかりで、角屋の仲居は一人も居ない事に気が付きます。角屋の主人は普段から芹沢と仲が悪く、自分の店の従業員は彼の席には出さない様にしていたのでした。土方が案じる間もなく、芹沢もその事に気が付きます。そして、自分の言いつけを守らず騒ぎ立てる隊士達にいらついていた気持ちが、ついに爆発してしまったのでした。」

「癇癪を起こした芹沢は、鉄扇で自分の前の膳を叩き壊してしまいます。それを見た隊士達は、いつもの芹沢の発作が始まったと怖れをなし、我先に逃げ出しました。後に残ったのは土方と永倉の二人です。彼等が見ている前で芹沢はますますいきり立ち、階段の手すりを引き抜くと階下へと放り投げ、その破片を拾って角屋の瀬戸物の類をすべてたたき割ってしまいました。」

「芹沢は、逃げ遅れていた角屋の老従業員を見つけると7日間の営業停止を申しつけ、さらに破壊の限りを尽くして2階へと戻ってきました。そして、土方達を見かけると大笑いをし、これほど愉快な事はない、平素気に入らない徳衛門(角屋の主人)に対して鬱憤を晴らす事が出来た、これから町奉行所に行ってくると言い残して去って行ったのでした。」

「ここに描かれた芹沢は酒乱と言うより狂人と呼ぶに近く、土方ならずとも近い内に自滅すると予測が付きます。芹沢の酒乱については、一説に依れば彼が梅毒患者であった事に由来すると言われます。草野剛三が維新後に残した証言の中に、芹沢は瘡が出来て悩んでおり、病気だから京都に残したのだとあるのですが、これが芹沢=梅毒患者説の根拠になっています。芹沢はその病気の辛さから逃れるために酒に走り、ついには酒に溺れてしまったと言うのですね。」

「さらに穿った説では、芹沢は末期の梅毒患者であって脳を冒されており、既に正気を失っていたというものまであります。そのくらいの解釈をしたい乱行ぶりではありますが、草野の証言からそこまで断定するのは少し無理があると思います。芹沢の病気についての記録はこの証言の他には無く、また瘡が出来る病気は梅毒に限った事ではないでしょうしね。しかし、彼の酒の上での乱行は他にも記されており、酒乱であった事は間違いない様です。」

「この事件の舞台となった角屋は島原に現存しており、角屋もてなしの文化美術館として公開されています。芹沢が付けた刀傷も残っているとの事で、一見の価値は十分にあると思います。ただし、公開は通年ではないので訪れる時には注意が必要です。

開館期間  3月15日~7月18日、9月15日~12月15日
開館時間  午前10時~午後4時
休館日 月曜日(祝日の場合翌日)
入館料 一般1000円、中・高生800円、小学生500円(2階の特別公開料金を除く)

また、2階の特別公開の間の兼学には、電話による事前の申し込みが必要です。」

以下、明日に続きます。

考文献
新人物往来社「新選組銘々伝」、子母澤寛「新選組始末記」、永倉新八「新撰組顛末記」、木村幸比古「新選組日記」

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2007.01.30

新選組血風録の風景 ~芹沢鴨の暗殺その5~

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(壬生・前川荘司邸 )

「新選組血風禄には最初の募集で隊士が約100名集まり、その編成が出来たのは文久3年の初夏の頃だったとあります。これは子母沢寛の「新選組始末記」の記述に基づいており、さらに元を辿れば永倉新八の「新撰組顛末記」に行き着きます。それは新選組第一次編成と呼ばれる体制で、次の様な組織でした。

(局長)
芹沢鴨
新見錦
近藤勇

(副長)
山南敬助
土方歳三

(副長助勤)
沖田総司
永倉新八
原田左之助
藤堂平助
井上源三郎
平山五郎
野口健司
平間重助
斎藤一
尾形俊太郎
山崎蒸
谷三十郎
松原忠司
安藤早太郎

(調役監察)
島田魁
川島勝司
林信太郎

(勘定方並小荷駄方)
岸島由太郎
尾関弥兵衛
河合耆三郎
酒井兵庫

ここに掲げたのは幹部の名前であり、この他に役職に就かない平隊士が相当数居たものと思われます。ただし、総勢100人も居たのかどうかは疑問で、この2ヶ月後に起こった8.18の政変の時に出動した隊士は52名となっており、実数はその程度ではなかったかと思われます。」

「また小説では3月に会津藩に残留を届け出た後、すぐに新選組という名の看板を掲げたとありますが、新選組と名乗ったのは8.18の政変の後の事でした。この頃には、壬生浪士組又は精忠浪士組と名乗っていた様ですが、はっきりとは決まっていなかった様です。「新選組!」では、芹沢派が「精忠浪士組」、近藤派が「壬生浪士組」にそれぞれこだわり、子供じみた争いをする描写が面白かったですね。」

「小説においては最初から対立を含んでいる芹沢と近藤の両派ですが、実際は少し違っていた様です。浪士組を結成した頃の近藤は芹沢の水戸思想に強く惹かれていた様子で、芹沢にかなり入れ込んでいた形跡があるのです。実は、近藤の芹沢かぶれを心配した土方が、同郷の先輩である井上松五郎(井上源三郎の兄)に、近藤が天狗になってしまったと相談を持ちかけた事がありました。「天狗」とは増上慢という意味ではなく水戸天狗党の事を意味し、近藤が芹沢に影響されて天狗党寄りになってしまったと不満を漏らしているのですね。以前にも紹介しましたが、浪士文久報国記事に「浪士組の隊長には特に芹沢を選んだ」とある様に、初期の近藤は芹沢を崇拝していた気配が窺えます。故郷に当てた手紙でも、「芹沢鴨と申す仁、拙者と共に隊長相勤め」とあり、芹沢を立てる書き方をしていますしね。」

「近藤と言えば、武士になりたいと願った百姓であり、剣の腕は立つが頭脳的な事は苦手で、幕臣に取り立てられるまでのお膳立ては、全て土方に任せていた人というイメージがあります。これは他ならぬ「新選組血風禄」と「燃えよ剣」の2作で形作られたイメージかと思いますが、実際には思想家としての側面を強く持つ人物だった様です。」

「彼の残した手紙から読みとれる初期の行動原理は、すべて彼の持つ尊皇攘夷思想に基づいていました。浪士組に参加したのも、京に残って新選組を結成したのも、すべては尊皇攘夷を実現するために取った行動でした。彼に従った山南や永倉達はその思想に共鳴した同士であり、新選組とは尊皇攘夷の実現のために近藤の下に集まった思想集団だったのです。」

「ただし、近藤の学問は誰かに師事して学んだという訳ではなく、いわば自得に近いものでした。それだけに本物の学問を持つ人物に対する憧れが強く、初期には芹沢鴨、後には伊東甲子太郎と手を組んだのは、そういう心理が働いたのではないかという気がします。隊士の中で武田観柳斎や尾形俊太郎を重用したのも、同じ流れからだったのではないでしょうか。」

「当初は芹沢に傾倒していた近藤でしたが、時間の経過と共に芹沢から離れていった様です。この理由はよく判りませんが、京都における過激派志士との思想的対立が影響しているのかも知れません。芹沢は言うまでもなく天狗党の流れを汲んでおり、その点では京都の過激派志士との接点は多かったはずです。ところが彼等の取る行動はことごとく侮幕なものであり、幕府を第一に考える近藤の思想とは相容れないものがありました。過激派志士との対立が明確になればなるほど近藤は芹沢から離れざるを得ず、ついには粛正を決意するまでに至ったのかも知れません。」

「このあたり、芹沢の心境はどんなものだったのでしょうか。芹沢にすれば、清河が浪士組を支配した様に、壬生浪士組を天狗党の影響下に置き、京都における過激派志士達と連携するつもりだったのかも知れません。ところが、壬生浪士組が会津藩御預かりとなり、その経費まで会津藩に負担して貰う様になると、過激派志士達からは裏切り行為と見なされる様になります。一方、隊内では自分に傾倒していた近藤が距離を取り始め、組織自体も幕府の下部組織として成長して来ました。芹沢としては天下に身の置き所が無くなり、ついには自暴自棄の行動に走ったのではないかという気がしています。」

以下、明日に続きます。

考文献
新人物往来社「新選組銘々伝」、子母澤寛「新選組始末記」、永倉新八「新撰組顛末記」、松浦玲「新選組」

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2007.01.29

新選組血風録の風景 ~芹沢鴨の暗殺その4~

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(京都御所・学習院跡)

(新選組血風録の概要)
(京都に着いてからわずか20日後、新徴組は江戸への帰還を命じられた。表向きは生麦事件で不穏な情勢にあった横浜の警護であったが、実は清河が新徴組を朝廷に売り渡そうと暗躍している事が明らかになったためであった。しかし、初心を貫くとして、京都に居残った者達も居た。近藤とその同士の8人である。そしてなぜか芹沢の一派5人もまたこれに同調した。)

(京に残ったものの、新徴組から離れた近藤等は、ただの浪士の集団に過ぎなかった。そこで、文久3年3月13日、彼等は連署して京都守護職宛てに嘆願書を提出した。意外にも嘆願の筋は即日認められ、会津中将御預という法的地位と経費を与えられた。ここから新選組が始まっていく。)

(近藤達は早速同士を募り、程なく100人を越える規模となった。局長は芹沢を筆頭に新見と近藤の3人、副長に山南、土方の2人、副長助勤は沖田、永倉、原田、井上、藤堂など14人、そのうち近藤系は10人を占め、隊内に隠然たる勢力を築いた。)

(土方は何時の日か新選組を近藤のものにしたいと思っていた。そのためには芹沢を除かなくてはならないが、芹沢は神道無念流免許皆伝の達人であり、隊内で及ぶ者は居なかった。土方は今暫く時期を待たなければならなかった。)

「清河が朝廷に掲げた建白書の大意は、我らは尽忠報国の士の集まりであり、将軍が攘夷を行う事を補佐するために上京した。なるほど幕府の世話にはなっているが禄を受けている訳ではなく、天皇の命令に背く者があれば、これが幕府の大官であろうとも容赦はしない。この真心を貫徹出来る様に取りはからって貰いたい、というものでした。」

「この建白書には浪士組一同が署名しており、その中には近藤と芹沢も含まれていました。浪士組は幕府肝煎りの組織ですから、この種の建白書は幕府を経由して提出するのが当然の筋です。ところが清河は有志6人を選抜して、これを直接朝廷の窓口である学習院にまで持参させたました。これは清河が浪士組を結成するにあたって描いた構想の核とも言うべき行為でしたが、朝廷に受理してもらえるかどうかは彼にとっても際どい賭けでした。事実、学習院側でも一度は幕府を通して出し直せと受け取りを拒否しています。結局は使者の巧みな弁舌によって建白書は受理され、その5日後に勅定を賜る事に成功したのですが、一歩間違えればせっかくの苦心がすべて水泡に帰するところでした。危ない橋を渡る事によって、清河は、浪士組は攘夷の為の組織であると朝廷から直接お墨付きを得る事が出来たのです。」

「清河の狙いは、浪士組を梃子にして攘夷実行の勅定を奉じ、幕府を強制的に攘夷の渦の中に引きずり込む事にありました。直に朝廷に繋がる事が出来れば、清河が率いる浪士組は形式的には幕府と同等の立場に立てるのですからね。しかし、幕府もそれほど甘くはありませんでした。これ以上清河を京都に置いておく事は危険と考え、今度は幕府から朝廷に働きかけて、生麦事件の処理を巡って緊迫している横浜の警護を浪士組に命ずる勅定を頂いたのです。朝廷の命令という形にして、体よく清河を追い払おうとしたのですね。」

「その一方で、浪士文久報国記事に依れば、老中板倉勝静は浪士取締役と芹沢鴨の組下に対して、清河の暗殺を命じたとあります。芹沢の組下とは、平山五郎等芹沢の仲間と他ならぬ近藤一派の事を指します。この暗殺は失敗に終わっていますが、結局は清河は江戸において暗殺される事になります。直接手を下したのは佐々木只三郎、後の見廻組頭取ですね。この時清河は浪士組を率いて横浜を襲うべく奔走中であったと言い、幕府にとっては放置出来ない危険人物でした。ただ、清河が勅定を頂いた人物である以上、表だっては処分出来なかったのですね。」

「近藤は故郷への手紙の中で清河が暗殺された事に触れ、本来は京都において自分たちの手で梟首しようとしていたのだが、残念ながら失敗してしまったのだと書いています。京都に上る道中から意見が合わなかったとも記しており、近藤の清河に対する不信感は相当なものだった事が窺えるエピソードです。」

「浪士組の東帰に反対して京都に残留した近藤達でしたが、さしあたっての任務も無いままに、まず行ったのは仲間内での粛正でした。」

「幕府は浪士組の一部が残留するにあたり、殿内義雄と家里次郎にそのとりまとめを命じています。彼等の呼びかけに応じて残留を表明し、会津藩に届け出たのは次の24名でした。(ただし、斉藤と佐伯は浪士組ではなく京都からの参加。)

(後の新選組構成員)
芹沢鴨
新見錦
近藤勇
山南敬助
土方歳三
沖田総司
井上源三郎
平山五郎
野口健司
平間重助
永倉新八
斎藤一
原田左之助
藤堂平助
佐伯又三郎

(脱退・粛正組)
殿内義雄
家里次郎
根岸友山
粕谷新五郎
上城順之助
遠藤丈庵
阿比類栄三郎
鈴木長蔵
清水吾一

殿内義雄は昌平坂学問所で学んだ俊才であり、剣の腕も相当に立ったと言われる人物です。浪士組においては目付役を務めており、幕府としてはリーダーとして据えるのに好ましい人物だったのでしょう。ところが、近藤は殿内に失策があったとして、これを討ち果たしています。同士を求めて旅に出る途中、四条大橋において近藤と沖田によって討たれたとも、芹沢が手を下したとも言われますが、殺害時の詳細については判っていません。ただ、近藤が故郷へ宛てた手紙の中に天誅を下したとあるので、芹沢・近藤一派の誰かが殿内を斬った事は確かな様です。」

「家里次郎もまた大阪で切腹して果てました。これは近藤達が直接手を下したのかどうかは判りませんが、グループ内における主導権争いの中で犠牲になったのではないかと考えられています。そして、近藤達による粛正の影に怯えたのでしょう、殿内暗殺から間もなく根岸友山、粕谷新五郎らが脱退し、芹沢・近藤一派を中心とした、後の新選組の核となる人物達が残留します。」

以下、明日に続きます。

参考文献
新人物往来社「新選組銘々伝」、子母澤寛「新選組始末記」、PHP新書「新選組証言録」、松浦玲「新選組」


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2007.01.28

新選組血風録の風景 ~芹沢鴨の暗殺その3~

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(八木邸前の様子。最近は乗り合いタクシーの案内で訪れる修学旅行生をよく見かけます。)

「芹沢鴨という不思議な名の由来については、これも諸説があります。下村から芹沢と名乗りを改めたのは本家の姓に戻った訳ですが、新たな門出にあたり水戸時代の名を捨てて気分を一新したという事なのでしょうか。一説には妻と息子を捨てて養家を出奔したのだとも言い、また妻と死別した事を機に養家と離縁になったのだとも言いますが、確かな事は判りません。」

「鴨という名については、「芹と鴨」を引っかけた一種の洒落ではないかとする説が面白いですね。現在では鴨と言えば葱ですが、江戸時代には「鍋焼の鴨の芹とは二世の縁」という川柳があるほど、鴨肉と芹は相性の良い食べ物として知られていました。これが事実だとすれば、芹沢鴨は、結構遊び心のある人物だった様ですね。ちなみに、幕末に会津藩の本陣があった金戒光明寺では、この芹鴨鍋を昼食プランとして再現されていますので、興味のある方はお試しになられてはいかがですか。(ただし15名以上からの申し込みとなってます。)」

「またこの他に、常陸風土記の中に、天皇が狩りに訪れた時、弓を向けられた鴨が逃げずにひれ伏したという話があり、それにちなんで天皇への忠節を現すために付けた名だとする説もあるようです。」

「芹沢が獄から解き放たれたのは、文久2年12月26日の事でした。そして、伝通院に現れたのが文久3年2月4日の事です。この約一ケ月の間に、芹沢に何があったのかはよく判っていません。天狗党を除名されたのだとも、幹部登用の道から外された事を不満に思って袂を分かったのだとも言われますが、詳細は不明です。あるいは京都にあって水戸の天狗党と連携するために、同士から派遣されたという説もありますね。さらに一説に依ると、芹沢鴨は下村継次とは別人で、その名を騙っただけの偽物だとする向きもある様です。」

「何にせよ、水戸において尊皇攘夷運動に係わっていたという経歴は、浪士組にあってはきらびやかに映った様です。芹沢とその仲間である新見錦は最初から隊長に任命されており、その前歴がものを言ったのではないかと考えられています。」

「そして、面白いのは浪士文久報国記事にある記述で、浪士組の編成にあたっては、組頭は各自で選ぶ様にとのお達しがあり、近藤一派は特に芹沢を選んでその下に付いたと記されています。もしこれが事実だとすれば、近藤達は東禅寺事件などで有名な芹沢に憧れ、自らその一派に加わったという事になりますね。だとすれば、これは新選組の成り立ちにも係わってくると思うのですが、そこまで言及する研究者はまだ誰も居ない様です。」

「その近藤達が浪士組の結成を知ったのは、最初は風聞として伝え聞いたものらしく、そして確報は井上源三郎がもたらしたものだった様です。浪士文久報国記事に依れば、試衛館の一同はその設立趣旨を聞いて大いに喜び、近藤、沖田そして永倉が代表として松平忠敏の下に申し込みに行き、これが受け入れられたとあります。」

「浪士組の編成は資料によってまちまちで、芹沢は3番隊長とする説、取締役付きだったとする説、近藤もまた隊長だったとする説など様々です。これはどうやら道中でしばしば変更があった事に起因している様です。例えば理由はよく判りませんが、芹沢は途中で隊長を近藤と交代させられた様ですね。とは言っても、すぐに取締役付きに任じられている事から、やはり重く見られていた事には変わり無い様ですが。200人以上の荒くれ者からなる集団ですから、世話役達は道中の規律の確保にさぞ気を遣った事だろうと想像は出来ますね。」

「芹沢と言えば、本庄宿での大かがり火騒動が有名です。道中における芹沢の横暴を物語る最たるもので、後の芹沢一派と近藤一派の確執の原因ともなったとされる事件です。しかし、この事件の元を辿れば「新撰組顛末記」の記述に行き着き、そしてこれを証明する同時代資料は無いそうですね。「新撰組顛末記」は永倉新八の記述を元に編集された読み物ですが、必ずしも史実のみを記載しているとは限らず、編集段階で組み込まれた創作も相当数含まれていると考えられています。同じ永倉が書いた浪士文久報国記事にはこの一件は記載されておらず、大かがり火騒動が実際にあった出来事かどうかは疑わしいという見方が出ています。」

「文久3年2月23日に浪士組は壬生に落ち着きます。なぜ彼等が壬生に入ったのかと言えば、前川家が浪士組の宿所選定を任されていた事に起因する様です。現在も壬生に残る前川邸は分家筋にあたり、前川本家は油小路六角にありました。前川本家は掛屋(金融業者)を営んでおり、御所や所司代、奉行所などの公金の運用に携わる事で公儀と密接な繋がりを持っていました。公儀では、浪士組の上洛にあたっての宿割りという面倒な仕事を、市中情勢に詳しくかつ信用のおける出入り商人である前川本家に任せた様です。平たく言えば、前川家を便利使いしたという事ですね。」

「浪士組の宿所選定は、結構気を遣う仕事だった様です。浪士組は公儀御雇いとはいえ、元はと言えば江戸に蔓延る不逞浪士の集まりでした。この集団を京都の町中に置く事は憚かれ、かといって全くの郊外に置いたのでは統制に困ります。そこで、京都の町はずれでありながら二条城に近いという地理的理由から、壬生の地が選ばれたのでした。それに、ここには前川家の分家が所有する広大な屋敷があったという事もその主たる理由の一つだった事でしょう。前川家ではこの困難な仕事を処理するにあたって、自ら泥を被ったのだとも言えるのかも知れません。」

以下、明日に続きます。

参考文献
新人物往来社「新選組銘々伝」、子母澤寛「新選組始末記」、PHP新書「新選組証言録」

参考サイト
新選組屯所・旧前川邸

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2007.01.27

新選組血風録の風景 ~芹沢鴨の暗殺その2~

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「浪士組結成にあたっての大赦の実施で恩恵を受けたのは、清河だけではありませんでした。後に新選組局長を務めた芹沢鴨と新見錦もまた、この大赦の恩恵を受けて危うく死罪になるところを免れているのです。」

「本編の主題である芹沢鴨は、有名な割には生年を初めとして不明な部分が多い人物です。諸説がある中で、茨城県行方市(旧玉造町)のホームページに依れば、芹沢鴨は同市芹沢の出身で、常陸平氏大掾氏の流れを汲む人物と紹介されています。この説は、浪士文久報国記事に水戸芹沢村の浪人とある事、また後に京都北野天満宮に掲げた歌額の署名に「芹沢鴨 平光幹」とあったとされる事などと符合していますね。」

「近藤の書簡には「下村嗣司こと芹沢鴨」(浪士文久報国記事では「木村継次」)とあり、浪士隊に入った頃の本名は「下村」であった事が窺えます。これは彼が芹沢家から神職の家柄である下村家へ養子に入っていたからであろうと考えられています。つまり、芹沢鴨の前身は神主であったという事になりますね。勤王家である彼にとっては、如何にも相応しい家柄であったとは思われます。」

「下村継次の名は、天狗党の前身である玉造勢の幹部の一人として見る事が出来ます。玉造勢は佐原の豪商達から800両を借り上げたという証文を残しているのですが、その証文の五番目に彼の署名があります。この借り上げは、尊王攘夷派による資金調達の常套手段である押し借りの典型的なもので、仲間の数を背景に豪商達を威し上げて金を出させるという手口でした。」

「新撰組顛末記に依れば、下村は玉造勢が板子宿に陣を敷いていた時に、法令違反に問われた3人の部下を斬ったとあります。また、鹿島大神宮に参拝した際に持っていた鉄扇で神社の大太鼓の皮を叩き破ったともあり、これらの罪を問われた下村は獄に下り、法に照らして死罪を言い渡されたのでした。」

「一方、浪士組の一員であった草野剛三が残した証言に依れば、芹沢と新見は東禅寺事件(水戸の浪士達がイギリス公使オールコックの一行の宿所である江戸・高輪東禅寺を襲ったという事件)に連座して処刑されるところであったとあり、顛末記の記述とはニュアンスが異なっています。」

「いずれにしても、下村は清河と同じく大赦の恩恵を受けて許されたのでした。そして、文久3年2月4日、下村継次は、芹沢鴨と名を改めて小石川伝通院に現れるのです。」

以下、明日に続きます。

参考文献
新人物往来社「新選組銘々伝」、子母澤寛「新選組始末記」、PHP新書「新選組証言録」

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2007.01.26

新選組血風録の風景 ~芹沢鴨の暗殺~

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(京都・壬生 新徳寺)

(新選組血風録の概要)
(文久3年2月4日、小石川伝通院内処静院において、公儀肝煎による浪士団の顔合わせが行われた。総勢は234名。武州多摩郡石田村の百姓の三男である土方歳三もまた、天然理心流の師匠である近藤勇、同門の沖田総司、山南啓助、井上源三郎、友人の永倉新八、原田佐之助、藤堂平助と共にこの中にあった。)

(浪士団は世話役の清河八郎の発案により浪士隊と名付けられた。後に新徴組と呼ばれる事になる。浪士隊は上京する将軍の警護を目的としていたが、京で跳梁する不逞浪士の取り締まりに当たるとも言い、手柄次第によっては旗本に取り立てられるという噂もあった。応募した者は、江戸府内の慷慨の士、名うての剣客などが多かったが、中にはいかがわしい博徒なども相当数含まれていた。)

(幕府の世話役は浪人奉行である鵜殿鳩翁と浪人取締役の山岡鉄太郎、実際の仕切は清河とその仲間である石坂、池田が行った。初顔合わせの中、個々のグループに分かれて屯する浪人達。その中にあって、ひっそりとして目立たない近藤一派と、対照的に派手に騒ぐ芹沢鴨の一派。その芹沢を見て、どこか気にくわない様子の土方。)

(2月8日、新徴組隊士は板橋宿を立ち、中山道を京に向かった。隊は七組に分けられ、それぞれの組に清河らの人選に依る伍長という名の隊長が任命された。伍長に選ばれたのは一番隊の根岸友山を初め著名な浪人がほとんどだったが、なぜか五番隊伍長に選ばれたのは、甲府の博徒である祐天仙之助であった。芹沢鴨は取締付筆頭。近藤一派は無名の悲しさ故に博徒よりも軽く扱われ、六番隊の村上俊五郎の下に全員が配された。)

(宿を重ね、明日は本庄宿という時、近藤に宿割りの役目が回ってきた。近藤にはそういう雑務の才は無いと危ぶむ土方だったが、果たして芹沢に宿を割り振る事を忘れてしまった。へそを曲げる芹沢に平謝りに謝る近藤だったが、芹沢は宿場の真ん中に大かがり火を焚いて野宿をするという嫌がらせに出た。宿場中大騒ぎになり、藤堂が芹沢を斬るといきり立つのを余所に、黙って部屋に寝ころがり、じっと天井を見つめている土方。)

(2月23日、一行は京都の壬生に到着し、本部を新徳寺に置き、隊士達は周辺の郷士屋敷などに落ち着いた。)


「浪士隊(浪士組)の結成は、講武所剣術教授方であった松平主税助税忠敏の建白に始まっています。当時、幕府は諸外国との間に条約を締結して横浜などを開港していたにも係わらず、朝廷に対しては攘夷を行うという矛盾した約束を交わしていました。薩長土藩など攘夷派の後押しを受けた朝廷では、再三に渡って幕府に攘夷の実行を迫り、幕府を苦しめます。こうなった原因を辿れば、諸国の草蒙の志士達が薩長土藩に取り入ってこれを刺激し、朝廷の攘夷熱を煽らせているところにありました。松平忠敏は、この元凶となっている志士達を幕府側に取り込めばこの騒ぎも収まるはずと考え、浪士組結成の建白書を提出したのです。」

「浪士組結成の趣旨は、幕政の改革を実行するにあたり浪士にその一端を担わせる、その資格は尽忠報国の志を持つ者とし、その資格を有する者は今までに犯した罪を免除するというものでした。提案者である松平忠敏が念頭に置いていたのは、他ならぬ清河八郎でした。」

「清河は出羽藩の庄屋の家に生まれ、長じて江戸に遊学して北辰一刀流の門を叩き、文武を修めます。その後、自ら塾を起こして教授を務めていたのですが、桜田門外の変に刺激を受けて尊皇攘夷運動に目覚めます。そして、清河塾に集まった者達を中心に虎尾の会を結成し、横浜居留地の焼き討ちを企てました。ところが、これが幕府の知る所となり、さらには町人(捕方の手先とも言います)を殺めて幕府のお尋ね者となってしまいます。」

「江戸を追われた清河は西国に逃れ、諸国を巡りながら各地の志士達に面会しては尊皇攘夷を説いて回りました。清河にはよほど扇動の才があったのでしょう、彼に刺激された志士達は続々と京都に集まり、一大勢力を成すに至ります。彼が遊説中に出会った主な志士達は、真木和泉、平野国臣、真崎哲馬、吉村寅太郎、宮部鼎蔵、川上彦斎、田中河内介などで、文久元年から2年にかけての京都における攘夷騒ぎは、実に清河によって引き起こされたと言っても過言ではありませんでした。」

「清河が各地の志士達に呼びかけた計画は、島津久光が率兵上洛する一千の薩摩藩兵と共に京都で挙兵し、一気に攘夷を決行しようというものでした。ところが、当の久光には挙兵の意思などはさらさら無く、反対に寺田屋事件によって京都挙兵計画が潰されてしまいます。有力な同士を失い、失意の清河は京都を後にし、江戸へと舞い戻ったのでした。清河が去った後の京都では、長州藩が薩摩藩に代わって攘夷派の中心勢力となります。そして清河の扇動で集まった諸国の志士達が次々と天誅騒ぎを引き起こし、京都を騒乱の渦の中へと引きずり込んで行ったのでした。」

「そうした情勢の中で出された松平忠敏の建白書は、実は清河が次の一手として、裏で絵を描いたものだとも言われます。自らの罪を逃れると同時に浪士組という力を得るという一石二鳥の手で、虎尾の会の同士である山岡鉄太郎を通して忠敏に働きかけたと言われています。そしてこの策は頭に当たり、清河は大手を振って天下を歩ける様になると同時に、浪士組の世話役ともなったのでした。」

以下、明日に続きます。

参考文献
新人物往来社「新選組銘々伝」、「新選組資料集」「新選組の謎」、子母澤寛「新選組始末記」、藤澤周平「回天の門」


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2007.01.25

新選組血風録の風景 ~油小路の決闘その11~

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「油小路から脱出した4人の御陵衛士達は、今出川の薩摩屋敷に匿われました。以後、彼等は主として薩摩藩に属し、戊申の役に従軍する事になります。この事から、御陵衛士は薩摩の手引きで新選組から離脱し、その庇護を受けていたと説明される事が多いようです。事実、脱出した御陵衛士の一人に薩摩脱藩の富山弥兵衛が居り、その橋渡役がちゃんと隊内に居た事になりますよね。しかし、生き残った御陵衛士達が維新後に残した証言を詳細に見ていくと、必ずしもそうではなかった事が判ってきます。」

「まず、加納道之助の証言に依れば、油小路で辛くも虎口を脱出した彼は、薩摩藩邸を目指して逃げて行ったとあります。これだけを見れば当初からの予定であったかの様にも見えますが、実は誰を訪ねて行くという当てがあった訳ではなく、新選組に狙われた者を庇護してくれるとすれば薩摩藩しかないという思案からだった様です。」

「加納は逃げていく途中でたまたま富山と出会い、これ幸いとばかりに今出川まで一緒に走りました。ところが、薩摩藩邸の対応は思いのほか冷たいものだった様です。駆け込んだ時間が午前3時頃だったため誰も起きておらず、ようやくの思いで門番を叩き起こして中村半次郎に会いたいと頼んだのですが、翌朝に出なおしてこいと冷たく突き放されてしまいます。」

「窮した加納達が、御藩に恨みはないが、天下に身を寄せるところが無いので、門前を借りて腹を切りますと迫ったところ、驚いた門番がようやく中村に取り次いでくれました。話を聞いた中村は彼等を藩邸に匿ってくれたのですが、加納はこの時初めて薩摩藩邸に入ったと証言しています。」

「次に阿部十郎ですが、内海次郎と一緒に小椋池に出かけていた彼は、伊東が襲われたとの知らせを受けて高台寺に戻ったのですが、そこには既に誰も居ませんでした。彼等はとりあえず泉涌寺の戒光寺へ行き、そこに二昼夜の間潜そみ、市内の様子を窺っていました。そして、阿部は新選組の手から逃れるために土佐藩邸に庇護を求める事にし、内海を伴って藩邸を訪れて留守居役に頼み込みました。しかし、土佐藩では彼等を受け入れる事は出来ないと、その申し出を拒否します。阿部等は、それではこの場を借りて切腹すると加納達と同じ手を使ったのですが、ここではそれも通用せず、藩邸から追い立てられてしまいました。」

「困った阿部達は一度戒光寺に帰り、今度は新選組の目の光る市内を避けて、東山の山伝いに白川の陸援隊を目指しました。同じ土佐藩でも、生前の中岡慎太郎と伊東甲子太郎の間には交流があり、その中岡の作った陸援隊なら彼等を受け入れてくれるかも知れないと考えたのでしょう。そして、その門前まで行くと薩摩藩の中村半次郎が待っていました。中村は土佐藩が彼等をすげなく追い払った事を知っており、その事を詫びて快く門内に迎え入れてくれたのです。阿部達はその夜になって、ようやく今出川の薩摩藩邸に居た加納達と合流する事が出来ています。」

「これらの証言からすれば、御陵衛士は薩摩藩にも、そして土佐藩にも全く繋がりを持っていなかった事が判ります。やはり彼等は新選組との関係を疑われ、勤王の志士とは認めて貰ってはいなかったのですね。そして皮肉な事に、伊東が新選組に暗殺された事によって、やっとその疑いを晴らす事が出来たのでした。」

「上の写真は、相国寺の東にある「甲子の役 戊申の役 薩摩藩戦死者墓」です。江戸期における薩摩藩京都藩邸は四条高倉にあったのですが、幕末の動乱でそこが手狭となったため、相国寺の境内を借りて第二の藩邸としていました。加納達が駆け込んだのは、この今出川にあった藩邸の方ですね。」

「その跡地は今は同志社大学の敷地となっており、一基の石碑の他には藩邸があった事を示す物は何も残っていません。一方、この戦没者の墓は、薩摩藩が相国寺の敷地を借りていた縁で、蛤御門の変、あるいは鳥羽伏見の戦いで亡くなった藩士達を葬ったとされる場所です。藩邸があった位置とは異なりますが、この周辺で当時を偲ばせる唯一の史跡と言って良いと思います。」


「ところで、御陵衛士達の証言を読んでいると、実は彼等には新選組に対する警戒心が全く無かったのではないかという気がして来ます。」

「まず、一人で出かけるという伊東に対して、篠原の日記などでは、もしかしたらこれは新選組の罠かも知れないと忠告したとあるのですが、結局は伊東一人で行かせており、誰も護衛には付いていません。それどころか、阿部と内海に至っては、小椋池まで鳥打ちに出かけてしまっています。」

「本当に罠だと思っていたのなら、表だって護衛には付かないまでも近藤宅の近くで警戒にあたるでしょうし、少なくとも全員が屯所に残って厳戒態勢を敷いていたはずです。ところが彼等は、伊東は今夜は宮川町にあったという妾宅に泊まってくると考え、知らせがあった時には全員が寝ていたと言います。」

「そして、伊東の遭難を知らせに来た町役人の話では、伊東は5、6人の土佐人と口論の上斬られたとあったのですが、これを直ちに新選組の仕業と見破ったのは服部ただ一人でした。三木三郎は、新選組は旧知の者だから我らに害を及ぼすはずはないと言っていますし、武装しようとする服部に反対したという篠原は、実は現場に伏兵が居るとは思っていなかったと証言しています。加納にしても新選組の罠に落ちて油小路の現場に行ったと証言しており、実際に襲われるまでは半信半疑だった様子です。」

「こうして見ると、彼等は新選組が敵対行為に及ぶとは思って居なかった様子が浮かび上がって来ます。やはり彼等と新選組は友好関係にあったからなのか、あるいは、前の天皇の御親兵とも言うべき御陵衛士に対して手出しをする筈がないという自信があったからなのでしょうか。何にしても御陵衛士達は、あまりにも無防備に過ぎたという気がしています。裏を返せば、新選組に依る伊東の暗殺は、誰にも思いも寄らないほどの暴挙であり、以前にも書いた様に、新選組にとっても犯すべからざる失策だっという事ではないでしょうか。」

「伊東が生きていたからとして、彼の言う大開国論が政局にどの程度の影響力を発揮したかは判りません。薩長土肥の力の前には、御陵衛士の存在などは微々たるものであったでしょうからね。しかし、海援隊の坂本龍馬と共に、もし維新後にも生きていれば、その後の日本のあり方を違った方向に進め得た人物の一人である事には変わりはないと思います。そういう意味でも油小路事件は、やはりとても残念な出来事だったという気がしますね。」

参考文献
新人物往来社「新選組銘々伝」「新選組資料集、光文社文庫「新選組文庫」、子母澤寛「新選組始末記」、PHP新書「新選組証言録」


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2007.01.24

新選組血風録の風景 ~油小路の決闘その10~

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(京都東山・霊山)

「服部武雄は播州赤穂の出身で、伊東とは新選組入隊以前からの同士でした。隊においては諸士調役兼監察を勤め、三条制札事件に出動し、大石らと共に金千疋を賜わっています。在隊時から新選組最強の剣士と目されており、隊士が10人掛かりで掛かっても勝てるかどうかと言われていました。そして、はからずも油小路事件において、それが実証される事になります。」

「服部武雄の奮戦ぶりについては、西村兼文が著した「新撰組始末記」に詳しく記されています。彼は御陵衛士の中でただ一人鎖を着込んで現場に臨みました。そして、東側の民家を後ろ盾に取り、また一方を門扉をもって盾となし、敵を二方に限って闘っています。そして腰に提灯を差して敵を照らし出し、三尺五寸の長剣を振り回して、飛鳥のごとく暴れ回ったと記されています。新選組は人数を頼みに包み込んで討ち取ろうとしたのですが、服部の鋭い刃の前に怪我人が続出するばかりでした。そこで、長槍を持ち出して離れた場所から狙いを定め、ようやく仕留める事が出来たのです。」

「服部の戦いぶりについての記述は、実は新選組血風録にある描写とほぼ同じです。と言うより、小説の方が新撰組始末記を参考にして書かれたという事なのでしょうね。このあたり、血風録は虚実を巧みに織り交ぜて組み立てられている事が判り、この作品がただの娯楽小説に終わらず、現実味を帯びた歴史小説になっている秘訣の一端を見るような思いがします。」

「次に、毛内有之助は津軽の人で、事件当時は34歳でした。毛内家は300石取りの家柄であり、代々勤王家として知られた一族でした。有之助は次男として生まれたのですが、父、継母、叔父に文武に優れた人物に恵まれ、幼時から身内の薫陶を受けて育った彼は、諸芸に秀でた藩内有数の秀才として成長して行きます。そして文久元年になると風雲を求めて脱藩し、江戸へと赴きます。」

「江戸においては、旗本の子弟の文武の教授を務める傍ら、伊東甲子太郎と出会って交流を深めました。そして、伊東の後を追って上洛し、慶応元年に新選組に加入しています。」

「津軽においては諸芸に優れると評価された毛内でしたが、諸国から猛者が集まった新選組においては、特に武芸に関しては水準以下だった様です。ただ、馬術、槍術、弓道と何でもこなすところから、「毛内の百人芸」という異名で呼ばれました。この百人芸と言う呼び名には、百人並=平凡という意味も含まれていた様ですね。一方、文に関しては一定の評価がされた様で、伊東と共に「文学師範」の一人となっています。ちなみに、御陵衛士の同士であった阿部は、毛内の事を「儒者」と呼び、「剣術は出来ない人物」という評価まで下しています。」

「毛内は諸士調役兼監察に就いていますが、新選組在籍中は特段の事績を残していません。彼が本領を発揮するのは御陵衛士となってからの事でした。彼が最も力を注いだのが建白書を綴る事で、三条実美、岩倉具視ら有力公卿に対して、実に数十回に渡って建白書を上提したとされます。その一方で、中国、四国地方に遊説に出かけ、さらには上洛してきた津軽藩主に拝謁して、勤王論を建言したと言われています。まさに、水を得た魚の様な活躍ぶりですね。」

「油小路事件における毛内は、服部と共に民家を背にして闘っていました。しかし、藤堂が倒れたの見ると反射的に飛び出してしまい、永倉に背後から斬られてしまいます。さらに襲いかかってきた西岡に反撃してその顎を斬りつけたのですが、西岡の刀で胴を斬られ、その場で即死してしまいました。倒れた毛内には新選組隊士が殺到し、その身体をずたずたになるまで斬りつけたと言われます。」

「余談となりますが、毛内は江戸に居た頃、後に「稗田利八」と名乗る池田七三郎と出会っています。池田はその数年後に毛内を慕って新選組に入ったのですが、その時には頼りとするはずの毛内は御陵衛士として隊を抜けた後でした。そして、池田が入隊してから一月足らずの内に、油小路事件が起きています。新入りであった池田は、その日の夜に何人もの隊士が出動して行く様子を目撃しているのですが、何があるのかまでは知らされていませんでした。そして、後になってからその晩に毛内が斬られた事を知り、大変驚いたと語っています。」

「服部と毛内の墓は、戒光寺の墓地に伊東・藤堂の墓と共に並んで建っています。そして彼等の霊は、死後83年を経て京都護国神社の祭神として祀られました。生前は元新選組隊士という肩書きが災いして容易に勤王の志士とは認められなかった彼等でしたが、その死をもってようやく本懐を遂げたとも言えるのかもしれません。」

以下、明日に続きます。

参考文献
新人物往来社「新選組銘々伝」「新選組資料集」「新選組の謎」、光文社文庫「新選組文庫」、子母澤寛「新選組始末記」、PHP新書「新選組証言録」、木村幸比古「新選組日記」、永倉新八「新撰組顛末記」


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2007.01.23

新選組血風録の風景 ~油小路の決闘その9~

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(孝明天皇 後月輪東山陵)

「油小路事件で最初に倒れたのは藤堂平助でした。この事件の時、7人の御陵衛士とは別に、彼等の賄い方を勤めていた岡本武兵衛という人物が現場に同行しています。彼は伊東の死体を運ぶための人足として連れて行かれたのですが、無事に事件の現場から逃走し、貴重な目撃談を残しています。その証言に依れば、藤堂が伊東の死体を乗せた駕籠の垂れを引き下ろしていたところ、その背中を無造作に斬りつける者が居ました。その直後砲声が鳴り響き、一斉に四方から新選組隊士が襲いかかって来たのです。背中を切られた藤堂は、振り向き様に顔面を真っ向から切り下げられ、その場で即死してしまったのでした。」

「藤堂は新選組結成時からの同士で、八番組長を勤めていた事で知られます。上洛時には若干20歳で、若いと言われる沖田総司よりもさらに年下でした。藤堂和泉守の落胤という伝説を持ち、小柄ながら非常に美男子であったという記録も残っています。新選組!では、剣の腕は今ひとつという具合に描かれていましたが、実際には近藤の四天王の一人と言われ、沖田、永倉、原田と並び称される実力の持ち主でした。」

「剣は北辰一刀流の千葉周作の道場に学び、目録にまで進んでいます。近藤との繋がりについては、浪士文久報国記事に上洛前の試衛館での日常の風景として、日々の稽古が終わる都度に稽古人が一同に集まっては国事についての議論をしたとあるのですが、その仲間の一人として藤堂の名が挙げられています。彼は永倉や山南と同じく、他流派の出身ながら、近藤の道場に早くから食客の一人として出入りしていたのですね。」

「新選組結成後は直ちに副長助勤に登用され、最高幹部の一人として新選組を支えて行く事になれます。彼は誰よりも忠実に隊務をこなし、常に真っ先に敵中に飛び込んで行くという勇敢さを見せた事から、「魁(さきがけ)先生」の異名を取るにまで至っています。近藤はそんな藤堂を愛し、また信頼していたようですね。池田屋事件の際に屋内突入メンバーとして近藤が選んだのは、彼の四天王と呼ばれた沖田、永倉それに藤堂の三人でした。(原田はこの時、土方隊に配属されていました。)」

「そんな彼が、伊東甲子太郎の加入後は、次第に近藤から離れて行く事になります。江戸に居た頃、藤堂は試衛館の食客であると同時に、同流の伊東の寄り弟子でもありました。寄り弟子とは具体的にはどういう関係になるのか判らないのですが、伊東の道場に出入りして剣の手ほどきを受けていた事は確かだと思われます。」

「最初に伊東を新選組に誘ったのは他ならぬ藤堂でした。「新撰組顛末記」に依れば、尊皇を忘れて佐幕に走る近藤に見切りを付けた藤堂が、自分が近藤を暗殺するので伊東はその後を受けて新選組隊長になり、新選組を勤王化して行って欲しいと持ちかけたとあります。これは顛末記にだけある記述で直ちには信用できませんが、結果として藤堂は近藤に別れを告げ、伊東に従って御陵衛士となる道を選ぶ事になります。」

「模範的な新選組隊士であった藤堂が、なぜ近藤を捨てて伊東を選んだのかは良く判っていません。素直に考えれば、近藤よりも伊東の思想に共鳴するところがより大きかったという事なのでしょう。あるいは、流派の繋がりが最後にものを言ったのかも知れません。」

「藤堂に去られた近藤ですが、まだ彼に対する愛情は残っていました。油小路事件の際に、もし藤堂が現れた場合は、これを助ける様にと永倉と原田に命じていたのです。永倉と原田もその事は承知の上で現場に臨んだのですが、合図よりも早く斬りかかった隊士が居り、その相手が事もあろうに藤堂だったのです。永倉達が藤堂を助け様にも、その暇は全くなかったのですね。」

「藤堂を斬ったのは三浦常次郎でした。三浦は入隊後間もない仮同士の身分であり、年配でありながら技量は未熟であったと言われます。合図よりも先に斬りかかったのは、初めて経験する実戦であり、まだ場慣れしていなかったせいなのか、あるいは功を焦るあまりの抜け駆けだったのでしょうか。」

「浪士文久報国記事では、三浦は藤堂の反撃によって膝を切られ、その傷が元で事件後に死亡したとあります。また新撰組顛末記では、三浦はかねて藤堂に世話になっており、恩人を斬ってしまった事を苦にして、衰弱死してしまったと伝えられています。しかし、他の記録に依れば三浦は鳥羽伏見の戦いにおいて死亡したとされており、どの記述を信用すべきかは難しいところですね。」

「確かな事は、新選組!でも描かれていた様に、藤堂は新選組と御陵衛士の双方から愛され、その死を惜しまれた人物だったという事です。彼の遺体は一度壬生の光縁寺に埋葬されたのですが、維新後御陵衛士の仲間の手によって泉涌寺の塔頭・戒光寺に改葬されています。彼は今でも孝明天皇の陵を守る衛士として、泉涌寺の地で眠り続けているのですね。」

以下、明日に続きます。

新人物往来社「新選組銘々伝」「新選組資料集」「新選組の謎」、光文社文庫「新選組文庫」、子母澤寛「新選組始末記」、PHP新書「新選組証言録」、木村幸比古「新選組日記」、永倉新八「新撰組顛末記」

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2007.01.22

新選組血風録の風景 ~油小路の決闘その8~

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(戒光寺・御陵衛士墓所 左から毛内・伊東・藤堂・服部の墓)

(新選組血風録概略)
七条油小路の辻にやってきた篠原達は、路上に捨てられている伊東の死体を見つけます。
「駕籠に入れろ。」
と篠原が命じた時、四方から夥しい人数があふれ出してきました。
「死体を捨てて、斬り込め!」
と命じて、正面の敵を袈裟斬りに斬って捨てる篠原泰之進。

7人を四方に向かって部署した篠原でしたが、すぐに乱戦になり、御陵衛士達は個々に闘うはめになります。

まず最初に倒れたのが藤堂平助。彼は溝に足を取られて倒れたところを、ずたずたに切り裂かれてしまいます。

次いで倒れたのが服部武雄。彼は幕末において最も見事と言われる奮戦ぶりで新選組を悩ませましたが、最期は原田の槍に仕留められてしまいます。

最後は毛内有之助。様々な武芸に通じていた彼でしたが、脇差しを抜こうとした時に小手もろともに切り落とされ、素手で立ち向かおうとしたところを、切り刻まれて倒されました。

篠原、加納、富山、三木の4人はそれぞれに血路を開いて逃走し、薩摩屋敷に逃げ込んでいます。

その後4人は官軍の東征軍に従軍し、加納は板橋において近藤の正体を見破る事で、この夜の敵討ちを果たしました。

篠原と加納は共に長命し、明治41、2年頃に亡くなりました。篠原の死因は中耳炎、おけいが案じたとおり耳を水で洗う癖が命取りになりましたが、少なくとも畳の上で死ねた事は確かです。

「この事件の時に新選組隊士を率いていたのは、浪士文久報国記事の記載により、永倉と原田であった事が判ります。」

「この日出動した新選組隊士は篠原の日記などから40人程と言われますが、新選組の金銀出納帳の慶応3年11月19日(事件の翌日)の支出の欄に、七条一件として17人の隊士に対して17両を支給したという記録が残っています。これからすると、当夜出動した隊士は17人という事になりますね。また話は本筋から逸れますが、この記載からは、隊士が作戦行動に出動した場合の特別手当は一人1両だった事も判かり、なかなか興味深いでところです。」

「一方、この事件は、いやしくも天皇の御陵を守る御陵衛士が殺されたという事で朝廷において問題とされ、新選組隊士23名に対して切腹させようという案が出されています。この案は間もなく鳥羽伏見の戦いが勃発した為にうやむやになっていますが、一歩間違えれば新選組は朝敵と名指しされていた事になり、いかに伊東暗殺が無謀な行為であったかが判ります。」

「朝廷の処分案と金銀出納帳の記載とでは人数が食い違いますが、どちらにしても40人という人数は過大であり、当夜御陵衛士を襲ったのは20名前後の隊士であっただろうと考えられています。」

「ただ、浪士文久報国記事には、永倉・原田の隊士とは別に隊長附を現場に潜ませたともある事から、局長付の見習い隊士(新入隊士は最初は局長付に回されるのが慣例でした)20名程が出動していたとする説もあります。その場合は、手当が支給されたのは当夜の戦闘員であった正規の17名の隊士に対してであり、見習い隊士は度胸試しの為に狩り出されて周囲を固めていただけであった事から、手当の対象外だったという事になりますね。」

「戦闘は、原田が放った鉄砲の合図によって開始されました。小説では、篠原が最初の敵を袈裟斬りにして下知を下したとなっていますが、維新後の証言によれば、最初の敵を見つけて叫び声を上げ、手元に掛かってきた敵に袈裟斬りに斬り付けたのは加納道之助でした。ただし、斬って捨てた訳ではなく殴り倒して逃げたとあり、その後は前後の判らない乱戦の中を無我夢中の内に逃げ切った様です。」

「浪士文久報国記事に依れば、当夜の新選組の死亡者は三浦常次郎一人であり、他に原田、大石、岸島、芝岡といった隊士が傷を負っています。やはり、新選組側は鎖を着込んでの完全武装であり、小説の様には簡単に斬り倒す事は出来なかった様ですね。」

以下、明日に続きます。

新人物往来社「新選組銘々伝」「新選組資料集」「新選組の謎」、光文社文庫「新選組文庫」、子母澤寛「新選組始末記」、PHP新書「新選組証言録」、木村幸比古「新選組日記」


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2007.01.21

新選組血風録の風景 ~油小路の決闘その7~

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(七条油小路)

(新選組血風録概略)
伊東を倒した大石等は、死体を七条油小路の辻にまで運び、そこに捨てました。やがて、辻々の影から新選組隊士が現れ、その数は40人に上ったと言います。彼等は鎖を着込んだ上に鉢金を被り、完全な戦闘態勢でした。そして各組長の指揮の下に四方に散り、あたりの軒かげ、家の土間などに潜みます。やがて伊東の死体を収容来るであろう御陵衛士達を待ち伏せまるためでした。

半刻ほど経った頃、町役人が伊東の死体を見つけ、それが御陵衛士の頭取であることを知ると、月真院の本営に通報しましす。

「上の写真は現在の七条油小路の様子です。当時とは七条通の道幅が大きく変わっており、ここが事件のあった四つ辻だと言われててもピンと来ません。当時の道幅は油小路通と大差はなく、おそらくは今の道路の1車線分ほどではなかったかと思われます。

本光寺からこの四つ辻まではおよそ100mの距離なのですが、その間を、小説にある様に、死体の襟髪を掴んで引きずっていったとすれば、なんともおぞましい光景だった事でしょうね。」

「月真院に知らせたのは、油小路の町役人だったとされています。彼等は巡邏中に偶然伊東の死体を見つけ、菊桐の定紋が入った提灯を見て倒れているのが御陵衛士の伊東だと判断したと従来は説明されてきました。しかし、新選組が罠を仕掛けたにしては、町役人が見つけるまで待つというのは悠長に過ぎます。

この事について、浪士文久報国記事には、通りにある馬屋の別当を町役人に仕立てて高台寺に知らせたとあります。ここでいう別当とは馬丁の事で、馬を世話する店の従業員に対して、町役人になりすまして高台寺に知らせに行く様にと命じたと記されているのです。これについての裏付けとして、新選組の金銀出納帳の慶応3年11月19日(事件の翌日)の支出の欄に、「七条一件に付き、下男ども遣わし」として一両を使った事が記されています。つまり、新選組は場丁を一両で雇って、月真院へと使いに送ったという訳ですね。これならば、わざわざ伊東の死体を運んで囮にした事とも辻褄が合いそうです。」

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(高台寺月真院)

(新選組血風録概略)
知らせを受けた月真院では、当夜は7人が居合わせていました。今後の善後策として、
「知らぬ仲では無いので、礼を尽くして(伊東の死体を)受け取ってくればどうか。」
と言ったのは三木三郎。それを遮って、
「無駄だ。我々7人の死体が並んだところで戦が終わる。」
と言ったのは服部武雄。
その服部が具足櫃を持ってきたのを見て、
「路上で具足を着て死んでは、後日臆病者のそしりを受ける。どうせ死ぬなら、素肌が良い。」
と止めたのは篠原。
一同は篠原の声に賛同し、羽織の下にたすき掛けをしただけの支度で、油小路へと出かけていきます。

月が煌々と道を照らす中、緊張と寒さで震える御陵衛士達。
「たった7人で40人に向かって斬り込むなど、かつてなかった事だ。」
と言ったのは藤堂平助。


「当夜、月真院に居たのは、三木三郎、篠原泰之進、加納道之助、藤堂平助、服部武雄、毛内有之助、富山弥兵衛の7人でした。

他の御陵衛士達のうち、

阿部十郎と内海次郎の二人は小椋池に鳥打ちに出かけていた
新井忠雄は同士募集に行った江戸からの帰り道
清原清は伊勢に出張中

のため、それぞれ不在でした。

残る中西登についてはよく判っていません。阿部十郎は彼を同士を殺した裏切り者とまで言っているのですが、詳細は不明です。また、資料によっては橋本皆助が当夜居合わせたとするものもありますが、彼はこの時期には既に陸援隊に移籍しており、月真院には居なかったものと思われます。」

「篠原が服部が武装しようとするのを止めて素肌(平服)で行こうと言ったのは、彼の日記に記されているところです。実際には服部一人だけが鎖を着込んで行った様ですが、他の6人は篠原の言に従って平服のまま現場に向かっています。

私が篠原をどうにも好きになれないのはこの下りがあるからで、どうせ死ぬのだから武装などは無用だと格好を付けた割に、彼は現場に踏みとどまることなく逃走しています。結果として御陵衛士からは3人の犠牲者が出る訳ですが、篠原が余計な事を言わなければまた違った経過を辿ったろうにと思うと残念でなりません。

篠原のためにあえて穿った見方をしてやれば、彼は武士の意地に賭けてもここは一戦はしなければならない、しかし、多勢に無勢である事から抵抗するだけ無駄とも判っていました。そのため、包囲を破って脱出するには、なまじ重い武装をするよりも、軽装の方が逃げやすいと、そこまで考えての発言だったというのなら判らなくもないのですけどねえ...。」

以下、明日に続きます。

新人物往来社「新選組銘々伝」「新選組資料集」「新選組の謎」、光文社文庫「新選組文庫」、子母澤寛「新選組始末記」、PHP新書「新選組証言録」、木村幸比古「新選組日記」

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2007.01.20

新選組血風録の風景 ~油小路の決闘その6~

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「伊東甲子太郎が襲われたのは慶応3年11月18日の事で、近藤の妾宅からほど近い木津屋橋通の路上においてでした。木津屋橋通は京都駅前を東西に走る塩小路通の一つ北の筋にあたり、その名は堀川に掛かっていた木津屋橋に由来するとも、材木を運ぶ船着き場があったからとも言われています。

新選組血風録では伊東がその木津屋橋を東に渡ったとあるのですが、当時の地図を見ると堀川が流れていたのは近藤の妾宅の西側であり、東山に帰る伊東がこの橋を渡るはずはありません。伊東殺害の場面に詳しい「新撰組始末記」には木津屋橋通を東に入ったとだけ記されており、司馬氏がわざわざ橋を渡ったと書いたのは小説技法上の演出という事なのでしょう。」

「伊東が襲われた場所は現在の堀川通から少し東に入ったところとされ、概ね上の写真のあたりになります。ご覧の通り今は静かな住宅街になっており、とても惨劇があったところとは思えないですね。この右手から槍が突き出されたのでしょうけど、現地に立ってその情景を想像すると、ちょっと怖い気がして来ますよ。

写真の中央に「止まれ」の路上標示があるところが、木津屋橋通と油小路通との交差点になります。伊東は重傷を負いながらもこの道を歩き、交差点を左に曲がって少しの所にある本光寺にまでたどり着いたとされています。距離にすればおおよそ50mほどでしょうか。」

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「伊東は、本光寺の門前にあったこの石塔に倒れ込み、「奸賊ばら!」と叫んで息を引き取ったと伝えられます。現在の本光寺の門前には伊東甲子太郎他数名殉難之跡と記した石碑が建っており、この南無妙法蓮華経と記された石塔は門内に移されています。しかし、門の脇にあるチャイムを押せば寺の人が応対に出て下さり、中に入って見る事が出来る様になっています。話には聞いていましたが見るのは始めてで、実際に目の前にすると何かぐっと来るものがありましたよ。

本光寺には、「新選組!」が放映されていた頃はかなりの人数が押し寄せて、大いに賑わったそうです。そして、少なくなったとはいえ、今でも訪ねてくる人はやはり後を絶たないという事でしたので、新選組の人気はまだまだ廃れてはいない様ですね。」

「本光寺で聞いた話に依れば、大河ドラマの撮影に先立ち、伊東甲子太郎を演じた谷原章介と、藤堂平助を演じた中村勘太郎が、二人で連れ立ってお参りに訪れたそうです。その時の写真も見せてもらいましたが、「功名が辻」の川上隆也と仲間由紀恵と同じく、役者はこういうお参りは欠かさないものの様ですね。谷原章介は後でもう一度訪ねて来たそうで、伊東役に対する入れ込み方は相当なものがあった様です。」

「もう一つのエピソードとして、「新選組!」で本光寺が紹介された際に門前を通る通行人が写っていたのですが、その役を演じたのがこの寺の奥さんだったそうです。ただ門前を通り過ぎるだけの事だったのですが、何度も撮り直しを指示されて、結構大変な目に遭ったのだそうですよ。間もなくBSハイビジョンで「新選組!」の再放送が行われますが、興味のある人は第43回「決戦!油小路」の回に注目しておいて下さい。」

以下、明日に続きます。

参考文献
新人物往来社「新選組銘々伝」「新選組資料集」、光文社文庫「新選組文庫」、子母澤寛「新選組始末記」

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2007.01.19

新選組血風録の風景 ~油小路の決闘その5~

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(新選組血風録概略)
会津屋敷での惨劇は極秘裏に進められたため、御陵衛士達に知られる事はありませんでした。その数日後、伊東の下に近藤から伊東の高説を聞きたいという誘いが届きます。罠ではないかと危ぶむ篠原ですが、近藤が自分の学識に惚れているという自信があった伊東は、護衛も付けずに出かけていきます。

近藤が招いたのは、七条醒ヶ井にあった彼の妾宅でした。そこで伊東は近藤の妾である孝子の巧みな周旋によって、したたかに酒を飲まされてしまいます。

伊東が近藤宅を出たのは午後10時頃でした。伊東が出た後、近藤は土方を呼んで用意は良いかと確かめます。その声に無言でうなずく土方。

左手に菊桐の紋の入った提灯を提げて、一人で歩く伊東。折から中天に十六夜の月が掛かり、東山の稜線をくっきりと照らし出していました。

伊東は竹生島を吟じながら木津屋橋を東に渡り、草原へと差し掛かります。右手は火事後の家が普請中であり、板囲いがしてありました。伊東がその板囲いに足をとられ、思わずよろめいた時に、突然板塀の隙間から長槍が突き出されます。槍は狙いも外さず、伊東の右肩から喉にかけて突き刺しました。槍に貫かれながらも、伊東は声も立てずに刀の柄に手を掛け、目だけを動かして人数を数えます。そこに現れたのは大石と、かつて伊東の馬丁を勤めていた勝蔵でした。勝蔵は最近隊士になったばかりで、手柄が欲しいと思っていました。彼は大石を遮って、旧主の肩に切りつけます。その時、伊東の刀が一閃されました。顔を真っ二つに割られて倒れる勝蔵。しかし、同時に伊東もその場に倒れてしまいます。意味不明の言葉を残して、息を引き取る伊東。

大石の背後から現れた土方は、伊東の死体を囮にすると命じます。大石は念のために伊東の足に切りつけましたが、伊東の身体は二度と動く事はありませんでした。

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「近藤の妾宅があったのは、屯所跡の石碑のあるリーガロイヤルホテルの北、旧安寧小学校のあたりではないかと推測されています。このあたりは当時は京都の町はずれで、作品中に草原とあるように、家並みもまばらな場所でした。しかし、現在は堀川通に終日車が行き交う交通の要衝になっており、また付近一帯はすっかり市街化しています。特に当時と比べて堀川が暗渠化されている事、太平洋戦争中の強制疎開によって堀川通が拡幅されている事から、現地を訪れたとしても、幕末の頃の状態を推定する事はまず無理と言って良いでしょう。」

「近藤が伊東の呼び出しに使った名目は、血風録にある様に国事の相談がしたいと誘った(伯父 伊東甲子太郎武明、新撰組始末記)とも、伊東から申し入れのあった金子借用の件だった(文久浪士報国記事)とも言われています。いずれにしても、不用心にも伊東は一人で出かけた訳ですが、通常は伊東は近藤を甘く見ており、また自分の腕にも自信を持ちすぎていたからだと説明されています。

ところが子細に見ていくと、伊東は御陵衛士として分離した後も、近藤との接触を保っていた形跡があります。慶応3年10月9日に、近藤が土佐の陸援隊が挙兵するらしいという情報を会津藩にもたらした事があるのですが、その場に居合わせた伊東がこれを追認したという記録があるそうです。これなど、御陵衛士が新選組から分離する時に交わした約定どおり、局外にあって新選組の活動に資するという行動を取っていた事例と言えそうですね。

こうした事例から見ると、伊東は勤王派としての活動を展開する一方で、近藤や会津藩との接触も保っていた事になり、いわば両属の形を取っていた様にも受け取れます。また、浪士文久報国記事の記述を信じるとすれば、伊東は御陵衛士の活動資金の一部を新選組に用立てて貰っていた事にもなり、このあたりの不透明さが、伊東が他の勤王派から信用されなかった一因なのかも知れません。こう考えてくると、伊東が易々と近藤の誘いに乗ったのは、普段から近藤との間には行き来があり、近藤から呼び出される事は特別な事では無かったからなのかも知れないという気がします。」

「ではなぜ近藤が伊東を暗殺したのかと言えば、やはり伊東に裏切られたと感じたからでしょう。このあたりは、松浦玲氏の「新選組」に詳しいのですが、伊東が暗殺される直前に、朝廷の議奏である柳原光愛に対して差し出した建白書が関係していると思われます。この建白書には、伊東の持論である「大開国論」が記されていました。大開国論とは、一言で言えば朝廷主導による王政復古の実現を目指したもので、幕府の存在は完全に否定した内容になっています。

伊東が建白書を提出したのが慶応3年11月9日の事で、その翌日に斉藤一が伊東の下から脱出しています。近藤は斉藤から建白書の事を聞いたのかも知れず、少なくとも大開国論の趣旨は聞いたものと思われます。幕府の存在が絶対である近藤にすれば、伊東の構想は受け入れがたいものでした。それまでは曲がりなりにも友好関係にあっただけに、大開国論を展開する伊東の行動は、近藤にとっては裏切り行為以外の何ものでもなかったではないでしょうか。」

「ただ、別の角度から見ると、伊東の暗殺はやはり不可解と言わざるを得ません。すなわち、御陵衛士とは、幕府の一機関である山稜奉行の下部に属する組織でした。その一方で、天皇の御陵を衛る組織である事から、朝廷も経費の一部を負担しており、そういう意味では朝臣でもありました。法制上は新選組とは全くの別の組織であり、その長たる伊東を大義名分もないままに暗殺する事は無法と言うより無く、新選組が関与したどの事件と比べても無茶な行為です。

新選組は幕府から警察権を委任された組織であり、著名な池田屋事件や三条制札事件は、社会の治安を守るために行った公権力の行使でした。また、数多く行ってきた内部粛正にしても、公の組織である新選組を危うくする不穏分子の処罰であり、これもまた広い意味での公権力の行使と言えるでしょう。ところが、伊東甲子太郎の暗殺に関しては何の法的根拠もなく、全くのテロとしか言い様がありません。

なぜ近藤がこんな無法行為をしたのかずっと不思議に思っていたのですが、伊東と近藤の関係を見ていくと、近藤は当初の約定通り、御陵衛士を新選組の外局として捉えていたのではないかという気がします。伊東もまた新選組の外郭組織であるかのような振る舞いをしていたこともあって、近藤にとって伊東は組織内の裏切り者であり、その暗殺は法度違反に依る内部粛正の延長だったのかも知れません。

しかし、世間はやはりそうは受け取りませんでした。事件直後には朝廷が新選組の処罰を主張していますし、後に囚われの身となった大石鍬次郎や相馬主計に対する処罰の理由は、新選組隊員としての活動そのものを問うものでは無く、伊東甲子太郎の暗殺への関与があったからというものでした。こうしてみると、伊東の暗殺は近藤にとっても、また新選組にとっても、大いなる失策であったという気がしています。」

以下、明日に続きます。

参考文献
新人物往来社「新選組銘々伝」「新選組資料集」「新選組の謎」、光文社文庫「新選組文庫」、子母澤寛「新選組始末記」、河出書房新社「新選組人物誌」、松井玲「新選組」、PHP新書「新選組証言録」、木村幸比古「新選組日記」

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2007.01.18

新選組血風録の風景 ~油小路の決闘その4~

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(会津藩本陣跡・黒谷 金戒光明寺)

(新選組血風録概略)
高台寺月真院に御陵衛士として分離独立した伊東甲子太郎達でしたが、新選組に腹心の佐野七五三介ら4人を残していました。彼等を通して新選組隊内の情報を内報させるためでしたが、この事は近藤、土方も承知しており、御陵衛士覆滅の第一歩として4人の排除に掛かります。

土方は佐野以下4人を呼び、黒谷の会津屋敷への使いを命じます。用向きは軍資金の受領で、土方自らが率いて行くと告げて佐野達を油断させます。会津屋敷では酒肴が用意されており、土方も含めた5人で接待を受けました。そして夜も更けた頃、土方が会津藩士に別室へと呼び出されます。それを合図に、槍を持った10人の新選組隊士が佐野達に襲いかかり、あっと言う間に串刺しにしてしまったのでした。

この襲撃した隊士の中に人斬りと怖れられた大石鍬次郎が居ました。彼は倒れた佐野の死体に何度も槍を突き刺すという残忍な行為をくり返すのですが、見かねた土方に制止され、最期に佐野の顔を蹴り上げてやっとその手を止めました。ところが、その時不思議な事が起こります。大石に蹴られた拍子に佐野が息を吹き返し、ふらふらと立ち上がったのです。そして脇差しを抜くや大石の頭から足先までを浅く斬り下げ、再び元のごとく倒れたのでした。

大石にはこの事件に関連した後日談があります。御陵衛士の一人加納道之助が官軍として板橋に駐留して居た時、鍬吉と名乗る百姓姿の男が彼を訪ねて来ました。加納が会ってみると、鍬吉とは変装した大石鍬次郎その人でした。大石は加納に対し、昔のよしみで官軍に入れてくれないかと頼み込みます。しかし、加納は会津屋敷において大石が佐野に対して行った所業を忘れておらず、その恨みを晴らすべく、拷問に掛けた上で斬首に処してしまったのでした。


「御陵衛士が新選組から分離する際、双方の間で今後についての取り決めが行われていました。それは、御陵衛士から新選組へ、あるいは新選組から御陵衛士への移籍は今後一切認めないというものでした。この約定が後に佐野達4人の悲劇を招く事になります。

伊東一派とみなされながら新選組に残留したのは、佐野七五三之助、茨木司、富川十郎、中村五郎の四人でした。彼等は伊東の意向を受けて間者として新選組に止まった作品中にはあるのですが、果たしてどうだったでしょうか。

彼等の内、佐野については篠原らとは神奈川奉行所以来の同士であり、根っからの伊東派でした。彼の経歴から考えると、あえて伊東と袂を分かってまで新選組に残留したとは考えられず、彼については伊東と気脈を通じて間者として残留したと考えて良いのかも知れません。

茨木司については、彼は非常に有能な隊士で幹部の覚えもめでたく、諸士調役兼監察に就いていました。入隊時には伊東とは関わりが無かった様ですが、次第に伊東の人柄に惹かれる様になり、御陵衛士の分離の際には伊東に従おうとしています。しかし、近藤もまた有能な茨木を惜しんで手放そうとしなかったため、やむなく新選組に残留する事となりました。阿部十郎が維新後残した証言に依ると、茨木には、新選組が幕臣に取り立てられる日が来れば、他の者をまとめて公然論を立てて離脱して来る様にと言い含めてあったとあります。茨木は思い詰める質であったらしく、分離後もしばしばと密会しては早まった事をするなと言い聞かせたとありますから、間者という雰囲気では無い様ですね。情報を探るスパイと言うより、分離工作を任された工作員と言った方が相応しいのかも知れません。

富川十郎と中村五郎については、阿部も篠原も御陵衛士の同士と認めていますが、事情があって新選組に残留させざるを得なかったとあります。しかし、その事情が何だったかは語られておらず、間者としての密命を受けていたかどうかまでは判りません。ただ、茨木と一緒に離脱して来るようにという指示を受けていたとしても、あながち不自然では無いと思われます。

一方、西村兼文の「新撰組始末記」では、佐野達は伊東に付いて行くつもりだったのですが、御陵衛士が分離独立した日に外出していて隊に居なかったために仲間に入いる事が叶わず、両派の行き来を禁じた約定に従ってやむなく残留したのだと記されています。一見筋が通っていそうですが、これについては、「慶応雑記」という資料に、御陵衛士の新選組からの分離は慶応3年3月20日と21日の両日に渡って行われたのですが、藤堂平助、富山弥平衛ら4人は美濃に出張して不在であったため、後日帰京してからの離脱となったとあるそうです。これからすると、分離の日に隊に居なかったから残留したとする「新撰組始末記」の記述は怪しいと言えそうですね。

新選組の幕臣への登用は慶応3年6月10日の事でした。その3日後、佐野達4人は、彼等に同調する軽格の6人を伴って、京都守護職宛てに新選組離脱の嘆願書を提出しています。その理由は、「脱藩まで犯した自分たちの志は尊皇攘夷の実現にあって栄達する事ではなく、このまま幕臣の地位を受けてしまっては初志を貫徹する事が出来ない。また二君に仕える事は武士の道ではなく、元の主君にも申し訳が立たずとうてい受け入れる訳には行かない」というものでした。これは、新選組との間に定めた約定がある以上、直ちに佐野達を御陵衛士に受け入れる事が出来ないため、伊東が考えて佐野達に授けた策でした。公然と新選組を離脱した後なら、御陵衛士に受け入れても差し支えは無いという理屈ですね。

しかし、守護職側からの回答は、新選組と協議した上で決めるので、一旦は帰隊する様にというものでした。

「新撰組始末記」に依れば、守護職からの通報を受けた近藤は、決して彼等の願いを聞き入れない様にとの回答を寄越したとあります。この回答を得た会津藩公用人は、佐野達に翌日に出直すようにと促しました。やむなく引き上げた佐野達は新選組に帰る事も出来ないまま、西本願寺の西村兼文の下に身を寄せます。西村は佐野達の身を案じ、伊東の下へと一報を入れると共に、彼等のために一夜の宿を世話してやりました。翌日、佐野達は伊東の下を訪れ、事の顛末を語ります。伊東は再度守護職邸を訪れる事を危ぶみ、一時身を隠して時期を待ってはどうかと彼等に勧めました。しかし、佐野達はまさか守護職邸で乱暴を働く事は出来ないだろうと言って、再び出頭して行きます。そんな彼等を待ち受けていたのは新選組の罠でした。守護職邸では佐野達と軽格の6人を別々の部屋に招じ入れた後、佐野達の部屋に新選組の隊員が襲いかかったのです。不意を突かれながらも彼等は果敢に闘い、大石に一太刀浴びせたのは作品中にあるとおりです。しかし、衆寡敵せず、佐野達は凶刃の下に倒れてしまいました。軽格の6人は付和雷同しただけという事で放逐となり、佐野達については表向きは切腹して果てた事として、立派な葬式が出されたとあります。

一方、「浪士文久報国記事」に依れば、守護職から通報を受けた新選組からは、近藤以下、井上、大石等の隊士が守護職邸に駆けつけます。そして、佐野達に面会して、ひとまず帰隊する様にと説得を試みました。一度は説得に応じた佐野達でしたが、いざ局に帰ろうとした時、一室に籠もっていた4人が切腹してしまったのです。その様子を見届けに部屋に入ったのは大石でしたが、倒れていた佐野が脇差しで大石に斬りかかり、その膝を傷つけたとあります。

この事件に関しては、以前から殺害説と自害説の二通りの説があって、どちらとも決着は付いていません。阿部十郎の証言にしても、一度は彼等は切腹して果てたたと言い、2度目には新選組によって惨殺されたと前言を撤回しています。なんとも悩ましいところではありますが、私的には、京都守護職邸で暗殺を行うというのはいくら何でも無法に過ぎ、彼等は自発的に切腹したのだろうと考えています。事実は果たしてどうだったのでしょうね。」

「作品中に記された加納に依る大石捕縛のエピソードについては、新選組始末記にあるとおりなのですが、史実とは違っています。詳しくは以前に紹介していますが、簡略に記せば大石は維新後変名して潜伏していたところを、阿部達におびき出されて捕縛されたのでした。彼は伊東甲子太郎殺害の容疑で斬首となり、妻子を残したまま32歳の生涯を閉じています。」

以下、明日に続きます。

参考文献
新人物往来社「新選組銘々伝」「新選組資料集」「新選組の謎」、光文社文庫「新選組文庫」、子母澤寛「新選組始末記」、河出書房新社「新選組人物誌」、松井玲「新選組」、PHP新書「新選組証言録」、木村幸比古「新選組日記」


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2007.01.17

新選組血風録の風景 ~油小路の決闘その3~

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(高台寺月真院)

(新選組血風録概略)
おけいの計略に乗ってしこたま酒を飲んだ篠原は、背中の傷の痛みと出血もあって、やがて昏倒してしまいます。そして、翌日の夕方目覚めた篠原は昨夜の気負いはすっかりと消え失せており、切腹することは止めにして、背中に傷を受けた事は隊には隠し通そうと決めます。

隊に隠し事を持った篠原は心理的に負い目を感じ、その反動として、これまで反発を覚えていた新選組に批判的な伊東甲子太郎に同調する様になります。そして、伊東から新選組からの分離を打診された篠原は、伊東の案に同意し、むしろ分離独立を公然と宣言すべきだと助言をしてやります。篠原の同意を得た伊東はやっと決心を固め、近藤と談判の上、孝明天皇陵を警護する御陵衛士として新選組を離脱しました。一見すると伊東の思想に同調したかの様な篠原でしたが、実は背中の傷が隊に発覚する事を怖れるあまり、伊東の案に乗ったというのが真相でした。


「そもそも伊東が新選組に加入した理由は、藩という背景を持たない徒手空拳の彼が、幕末の時勢も煮詰まりつつあった元治という時期に、尊皇攘夷の理想を掲げて世に打って出ようとすれば、新選組に加入する以外に手段が無かったからでした。名も無き草蒙の志士達が活躍出来た安政以前ならともかく、元治元年の頃には幕府や会津、あるいは薩長土といった雄藩が時勢の中心にあり、個人の力で動かせる時勢ではなくなっていたのです。

この時期に個人で参加できる有力な勢力としては、新選組の他に水戸天狗党がありました。実際に伊東は一時期水戸天狗党と手を結ぼうとしたのですが、その前途が危ういと見抜いた彼は天狗党への参加を見合わせています。そのため、彼に残された選択支は新選組加入以外には無かったのです。

伊東の下に新選組加入の誘いが届いたのは、丁度水戸天狗党への参加を見合わせた直後、元治元年の秋の事でした。溢れる様な才幹と尊皇攘夷の志を持ちながら時勢への参加が遅れ、一介の道場主として忸怩たる思いを抱いていた伊東にとっては、まさに渡りに船の様な誘いだった事でしょう。既に池田屋事件を経て幕府の爪牙としての姿を現しはじめていた新選組ではありましたが、伊東にとっては時勢に打って出る足掛りとしての魅力の方が大きかったものと思われます。」

「新選組に入ってからの伊東は、新選組の中の穏健派として隊内での勢力を扶植する事に腐心しています。隊内の秩序を重んじ二言目には失策を犯した隊士を斬れと言う近藤に対し、その横からまあまあと割って入って処分を軽くしてやるといった具合にして恩を売り、次第に勢力を大きくして行きました。その一方で、その見識の高さによって近藤からも厚い信頼を受ける事に成功しています。例えば、新選組の前途を賭けた2度の広島行きの随行員として近藤が選んだのは他ならぬ伊東でした。」

「こうして、新選組の中での重鎮としての地位を固めた伊東でしたが、世の尊皇攘夷派は次第に倒幕派へと衣を変えつつありました。それまでの尊皇攘夷運動は、弱腰の幕府に迫って幕政を改革する事で攘夷を実現させる、あるいは朝廷を動かして攘夷せざるを得ない状況に幕府を追い込むといった事を目的としていました。ところが、薩英戦争、下関戦争などを経て日本と外国の力の差が明らかになり、攘夷の実現のためには旧態依然たる幕藩体制ではどうにもならない事が判ってくると、尊皇攘夷運動は倒幕運動へと姿を変えて行きます。伊東もやはりこの流れを敏感に感じ取り、新選組として出来る事の限界を悟りました。そこで、伊東はもはや足かせにしかならない新選組からの離脱を決意するに至るのです。しかし、彼の前には局を脱する事を許さないという、鉄の掟が立ち塞がっていました。」

「伊東が最初に新選組からの離脱の意思を明らかにしたのは、慶応2年9月26日の事とされます。篠原の手記によれば、この日篠原と共に近藤の妾宅を訪れた伊東は、まず昨今の時勢を説き、自分たちは孝明天皇の御陵衛士として新選組から離れて自由な姿となる、その上で薩長に接近して彼等の動静を探り出し、隊の外から新選組に協力する事にしたいと切り出しました。これに対して近藤は疑念を抱いて極力反対したのですが、翌日もまた二人して強腰で談判に及んだところ、ついに近藤も離脱に同意したとあります。ただし、これには重大な疑義があって、9月26日の時点では孝明天皇はまだ在世中であり、その陵墓の御陵衛士になるという構想が出てくるはずもないのでした。恐らくは、この時点ではまだ分離の意思は明示しておらず、時勢論を闘わせただけではなかったかと考えられています。」

「慶応2年も押し詰まった12月25日、孝明天皇が崩御されます。それまでの天皇の葬儀は火葬と決まっており、泉涌寺にある天皇家墓所に九輪塔を建てて山稜の代わりとされて来ました。ところが、尊皇思想の高まりを受けての事でしょう、孝明帝については山稜奉行の戸田忠至の建言によって土葬の古制に戻す事が決められ、独立の山稜が築かれる事になります。伊東はこの陵墓に目を付け、その陵墓を守る衛士となる事を考えつきます。陵墓が築かれる事が明らかになったのは慶応3年1月3日の事で、伊東は1月18日に九州へ遊説の旅に出ています。恐らくは、この間に御陵衛士となる事で新選組からの離脱が実現出来ると目星が付き、西国の志士達から分離独立についての理解を得るための旅に出たものと思われます。そして、御陵衛士となるための実際の交渉は篠原に任せられました。篠原は、泉涌寺塔頭戒光寺の湛然長老に働きかけ、その結果3月10日に伝奏から御陵衛士としての拝命を受ける事に成功しています。」

「なお、作品中の日付には明らかな誤謬があります。伊東が篠原に新選組からの離脱を打診したのは慶応2年2月25日の事とあるのですが、これは史実は別としても作品の中においても矛盾していますね。なぜなら冒頭の三条大橋の事件があったのが慶応2年3月30日の事と書かれていますから、伊東が本心を打ち明けたのは篠原が傷を受ける前の出来事となってしまうからです。これでは作品のコンセプトが台無しですよね。おそらくは慶応3年2月25日としたかったのか、もしくは慶応2年9月25日の誤りでしょう。前者なら分離独立の直前、後者なら篠原の手記にある近藤との談判の直前となりますからね。」

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(五条大橋東詰 善立寺跡)

(新選組血風録概略)
篠原の同意を得た伊東は、新選組の幕臣への取り立てが決まった事をきっかけとし、近藤に御陵衛士になる事を打ち明けます。そして、自分たちは幕臣となって身分を拘束されるのは好まない、より自由な立場で薩長と交わり、その機密を探り出す事によって新選組の活動に資するつもりだと説いて、新選組からの分離について同意を得ます。新選組から離脱した御陵衛士は15人で、彼等は一度五条大橋東詰の長円寺に入り、その後6月8日に高台寺の月真院へと移りました。

彼等は門前に禁裏御陵衛士屯所という表札を掲げ、朝廷から特に菊と桐の紋章を染め抜いた幔幕を張り巡らしました。伊東が奔走して集めた資金は潤沢で、食費だけでも1日八百文(東海道の宿賃が一泊二百文)という贅沢さでした。

「伊東が九州から帰ったのは3月12日の事でした。その時には御陵衛士への任命は通達されており、伊東はそのすぐ翌日に近藤に会って新選組からの独立を説いています。近藤は既に知っていたからなのか、あるいは別に存念があったためなのか、意外にもあっさりと了承した様です。

ところが、あまりに事態の進展が早かったため、御陵衛士の屯所をどこにするかが決まっていませんでした。伊東は八方奔走し、3月20日に一度三条の城安寺に入り、すぐその翌日に五条の善立寺に移っています。作品中では五条橋東詰めの長円寺となっていますが、これは「新選組始末記」にそう記されているからで、さらに元を質せば西村兼文の「新撰組始末記」に行き当たります。小野圭次郎の「伯父 伊東甲子太郎武明」には善立寺とあり、現在のほとんどの資料は善立寺を採用しているのですが、長円寺が全くの間違いというだけの根拠もありません。

当時の善立寺は、五条通に面した東山郵便局の前のグリーンベルトの辺りにあったのですが、太平洋戦争中の強制疎開により現在の東大路通松原西入の地に移りました。御陵衛士がここに居たのは2ヶ月と少しの間で、6月8日には月真院へ入っています。

御陵衛士のメンバーについては諸説があり、10名説、13名説などがあるのですが、作品中の15人説を採れば、

伊東甲子太郎
三木三郎
篠原泰之進
新井忠雄
毛内有之助
服部武雄
斉藤一
藤堂平助
加納道之助
富山弥兵衛
阿部十郎
内海次郎
中西登
橋本皆助
清原清

となります。」

以下、明日に続きます。

参考文献
新人物往来社「新選組銘々伝」「新選組資料集」「新選組の謎」、光文社文庫「新選組文庫」、子母澤寛「新選組始末記」、河出書房新社「新選組人物誌」、松井玲「新選組」


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2007.01.15

新選組血風録の風景 ~油小路の決闘その2~

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(伊東甲子太郎絶命の地・本光寺)


篠原が背中に傷を負った事を悔やんだのには理由がありました。それは新選組には秋霜のごとく厳しいとされる局中法度があったからです。

一、士道ニ背キ間敷事
一、局ヲ脱スルヲ不許
一、勝手ニ金策致不可
一、勝手ニ訴訟取扱不可
一、私ノ闘争ヲ不許
右条々相背候者切腹申付ベク候也

この五箇条の他に内規があり、例えば私事で斬り合いに及び、相手を倒さず自分だけが傷を負った場合、未練なく切腹すべしと定められていました。もっとも、事情によっては切腹を免れる場合もありましたが、篠原の場合は敵を逃がしたばかりか後ろ傷であった事が致命傷でした。後ろ傷とは背中から斬られて負った傷の事であり、敵に背中を見せるという卑怯な振る舞いをしたとみなされるからです。もはや逃れられぬと覚悟した篠原は、九条村の休息所に戻って腹を切ろうとします。

「この局中法度については、「新選組始末記」以外には書かれたものが無く、恐らくは子母澤寛氏による創作だろうというのが最近の定説になってまいす。ただし、全くの作り事ではなく、永倉新八の遺談をまとめた「新選組顛末記」に4箇条からなる禁令が記されており、同様の隊規はあったとも推測されています。永倉が語った禁令とは次のとおりです。

第一 士道をそむくこと
第二 局を脱すること
第三 かってに金策をいたすこと
第四 かってに訴訟をとりあつかうこと

内容的には局中法度とほぼ同じですが、「私ノ闘争ヲ不許」という条文がありません。これは禁令とは別に長州征伐への従軍を前提として定められた「軍中法度」に同様の条文があり、子母澤氏はそこから一条を抜き出して全五条の局中法度という体裁を整えたのではないかと考えられています。また、恐るべき内容を記した内規も新選組始末記以外に記したものはなく、実在したのかどうかは定かではありません。恐らくはこれも創作なのでしょうね。

ところで、「軍中法度」とは新選組が戦争に従軍した場合に適用される軍規の事であり、平時にまで及ぶものではありません。この小説では、
「組頭がもし討ち死にした場合は、組衆はその場で討死にすべし」
「はげしき虎口にておいて死傷続出すとも組頭の死体のほかは引き退くことまかりならず」
という隊規が局中法度と同列で記されていますが、これらも軍中法度の中に定められた条文です。こういう巧みなすり替えが血風録では散見されますが、小説の緊張感を高める効果を狙ってのものと思われます。」


篠原が腹を切ろうとしている事を知ったおけいは、言葉巧みに篠原の気を逸らし時間を稼ぎます。おけいは、篠原の死後、その事を家族に知らせなければならないと言って、篠原の身の上を聞き出します。篠原は妻を持った事は無いと答え、自分が久留米藩の江戸定府の家柄である事、家は兄が継いでおり、自分は風雲を求めて脱藩している事、脱藩後に知り合った伊東甲子太郎に従って上洛し、新選組に入った事などを語ります。

「篠原が江戸定府の武家の子であるというのは全くの創作で、実際には久留米の石工の子として生まれています。作品中では江戸において北辰一刀流の玄武館で修行したとされていますが、実際には久留米の道場において「要心流剣法」と「良移心倒流柔術」を修めています。後に久留米藩家老の中間として奉公し、主人に従って江戸に出府したのですが、33歳の時に伊大老が暗殺された桜田門外の変に刺激されて脱藩し、水戸へと向かったのでした。

その後、一時期神奈川奉行所に奉公した事があり、その時加納鷲雄、服部武雄らと知り合いになります。そして、伊東甲子太郎と出会ったのは加納鷲雄の紹介に依るものでした。伊東が新選組に加入を決めたのは1864年(元治元年)9月の事で、この時伊東は30歳、篠原はそれよりも7つ年上の37歳でした。作品中では、伊東は新選組加盟にあたって篠原に相談し、その同意を得て始めて決意したとありますが、そういう事実を記した資料は見あたりません。ただ、伊東の甥にあたる小野圭次郎氏が著した「伯父 伊東甲子太郎武明」には、伊東が最も頼りにしていたのは篠原で、大事を行うにあたっては常に行動を共にしていたと記されており、司馬氏はこのあたりの記述からこの物語を創作したのかも知れません。」

「作品中では篠原は妻帯した事が無いと言い切っていますが、実際には萩野という妻と庄太郎という息子が居ました。京都に来た当初は妻子は江戸に置いて来た様ですが、後に京都へと呼び寄せています。萩野は後に起こった油小路の変の際に、新選組の追求をかいくぐって伏見の薩摩藩邸へと逃れ、庄太郎は下僕に伴われて大阪へと逃れたと篠原の手記に記されています。

この萩野は、維新後に篠原が赤報隊の事件に連座して投獄された際に、我が身に代えて夫を救い出したいと訴え出た事で世の賞賛を浴びたのですが、篠原はその直後に何故かこの妻と離婚しています。そしてその翌年に27歳年下のチマと再婚したのでした。現在残っている篠原晩年の写真の中に写っているのはこのチマで、萩野と庄太郎がその後どうなったかは定かではありません。幕末の苦難を共にした妻子を見捨てるとはどういう了見かという気がしますが、あるいはそこには他人には窺い知れない事情があったのかも知れません。」

なお、明日16日15時から17日15時にかけてココログのメンテナンスが予定されているため、次回の更新は17日になる予定です。メンテナンス中は、コメント及びトラックバックの受付が出来ませんので、あらかじめご了承下さい。

参考文献
新人物往来社「新選組銘々伝」「新選組資料集」「新選組の謎」、光文社文庫「新選組文庫」、子母澤寛「新選組始末記」、歴史読本平成16年12月号「特集新選組をめぐる女たち」、河出書房新社「新選組人物誌」

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2007.01.14

新選組血風録の風景 ~油小路の決闘~

数ある新選組の小説の中でも、最も人気の高い作品の一つが司馬遼太郎氏の「新選組血風録」でしょう。現在の新選組ファンは大河ドラマ「新選組!」から入った方も多いと思いますが、それ以前の新選組のイメージを決定付けたのはこの作品と「燃えよ剣」の2作品だったと言っても過言ではありません。私の最も好きな愛読書の一つであり、これまで何度となく読み返してはその世界に浸っています。

実は以前からこの小説の世界を写真で再現してみようと、その舞台となった場所を撮り貯めていました。そして、どうにか記事としてまとめられるところまで来ましたので、これから順次アップして行こうと思います。ただし、定期的にアップしていくかどうかまでは未定でして、出来るものなら15ある作品を1年かけて紹介出来れば良いなと思ってますが、果たしてどうなるでしょうか。

記事としてまとめるにあたっては、著作権の関係がありますので小説からは舞台設定を紹介する程度に止め、本文の引用はいたしません。ですから、出来れば「新選組血風録」を手元に置いて見て頂ければ判りやすいかと思います。また、作品中に描かれている隊士の紹介や事件の背景などもアップして行こうと思いますが、記述の誤りや新しい情報についてなど、お気づきの点についてご指摘頂ければ幸いです。

「新選組血風録」は言うまでもなく小説であり、史実を記録した史書ではありません。従って舞台の設定や登場人物には架空のものが多く登場しますが、かと言って全てが空想に基づくものではなく、ベースとなる資料が存在しています。それが子母澤寛氏が著した「新選組始末記」であり、この小説が書かれた昭和37年当時においては、新選組の全てを網羅したバイブルの様に思われていました。それゆえ、作品中に描かれた人物像あるいは事件の展開などについては、「新選組始末記」の記述に沿ったものが多く見受けられます。ところが、その後の研究により「新選組始末記」もまた子母澤氏が取材した事実に基づいて創作した一種の小説であり、その内容には虚構も多く含まれている事が知られる様になっています。いわば、「新選組血風録」は虚構の上に虚構を重ねた様なもので、その作品について史実云々を言っても仕方が無い様にも思いますが、ここでは出来るだけ小説の趣意に沿いつつ、手持ち地の資料を基に事件の背景などを紹介したいと考えています。また合わせて、舞台となる京都の街の紹介も出来ればとも思っています。

それでは小説の順番に従って、「油小路の決闘」から始めます。

Touji0701132

「油小路の決闘」は、篠原泰之進の休息所から始まります。場所は東寺の塔を見上げる九条村の百姓家で、篠原は妾のおけいと一緒に暮らしていました。

篠原には耳をたらいで洗うという妙な癖があり、中耳炎になる事を心配したおけいがこれを止めようとしますが、篠原は子供の様な仕草で拒絶し、どうしても言う事を聞来ません。

慶応2年3月30日朝、篠原は明日の夜に伊東甲子太郎が来るので、豚鍋の用意をしておく様にとおけいに言い捨てて出かけていきます。


「写真は現在の東寺界隈の様子です。南大門の前に国道1号(九条通)が通るという交通の要衝で、周辺はほとんど市街化しています。幕末の頃には通り名の数え歌に「九条大路で止め差す」とある様にまさしく京の果てであり、東寺より南には田畑が広がっていました。

九条村で有名なのは九条ネギですね。太さはや大きさは根深ネギに似ていますが、全体のほとんどが緑で白い部分が少なく、葉の部分を食べる葉ネギと呼ばれる種類に属します。京野菜の一種でもありますが、この九条村周辺が主産地とされています。実は現在でもこの付近で栽培されており、東寺の周辺を歩くと住宅街の中に残った畑で栽培されている九条ネギを見る事が出来ます。」


「篠原に耳を水で洗うという癖があったというのはどの資料にも記述が無く、司馬氏に依る創作ですね。後に篠原は中耳炎が元で死んだともありますが、実際には84歳という年齢から来る自然死だった様です。どうやら篠原が性格の中に子供っぽい部分を残している人物である事を表現するための仕掛けの様ですが、こうした癖を描く事で人物像を作り上げていく手法は、司馬氏の小説の中では数多く見受けられますね。
(と書いてしまいましたが、中耳炎で亡くなった事は新選組始末記に記述がありました。とすると、この記述を元に司馬氏が水で耳を洗うという癖を創作したと言うのが正しいのかも知れません。平成19年1月15日追記。)

豚鍋については、新選組始末記に、西本願寺の屯所において、隊士達が猪鍋を好んで食べたという記述があります。寺において獣肉を食べるのは最も禁忌とされる事で、西本願寺では何よりも迷惑に思ったとあり、この小説においても京女であるおけいが豚を好む篠原に閉口するという描写がされています。」

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この日篠原が出かけた先は清水寺祇園でした。祇園はまたおけいと出会った場所でもあり、おけいは祇園のお茶屋でお膳を運ぶお運びをしていたところを篠原に身受けされたとあります。

「血風録には祇園が多く登場します。幕末の頃の祇園町のほとんどは四条通の北側にあり、現在最も祇園らしいと言われる南側は大半が建仁寺の境内でした。そしてこの一力亭の様に、わずかに四条通に面した部分にだけお茶屋街が並んでいた様です。

現在の一力亭の玄関は花見小路に面していますが、江戸時代には四条通に面していました。そもそも、花見小路が出来たのは明治になってからの事であり、祇園町の発展のために建仁寺の境内が公収され、利便の為に南北に貫く道が付けられたのです。そしてさらに四条通に電車が走るに際して通が拡幅され、一力亭もまた敷地が削られたために玄関の位置を花見小路側に変えたという次第です。」

Sanjyouoohasi0701131

篠原は祇園で鈴木三樹三郎と昼酒を飲み、輝く様な夕陽に照らされた三条大橋へとやって来ます。三樹三郎はほとんど泥酔しており、橋上で三人の脱藩浪士達にいきなり喧嘩をふっかけ、斬り合いになってしまいました。ところが、三樹三郎は新選組の伍長にも係わらず剣技は未熟であり、たちまちの内に危機に陥ってしまいます。そこで少し遅れて歩いていた篠原が助太刀に入り、一人の腕を切り落とし、残る二人も蹴散らしてしまいました。しかし、悪い事にその時背中に刀傷を負ってしまったのです。

「鈴木三樹三郎とは伊東甲子太郎の弟で、新選組に居た当時は三木三郎と名乗っていました。作品中では伍長とあるのですが、実際には入隊の翌年に九番組長に任命されています。その後すぐに諸士取調役兼監察に降格されたとも言われていますが、実態ははっきりとしていません。

作品中では酒にだらしのない人物として描かれていますが、実際にも大酒家で、新選組入隊以前に酒癖の悪さから養家先から離縁されたという履歴を持っています。また剣技についてはよく判っておらず、兄とは違う神道無念流を学んだ事だけは確かですが、どれたけの腕の持ち主だったかは記録にありません。作品中の三木三郎は、こうした事実に基づいて設定されたものなのかも知れないですね。

新選組における事績はほとんど伝わっておらず、わずかに大阪に出張して天満宮の宮司達と祭りの挙行について話し合ったという記録だけが残されています。その際の三木三郎の応対について、非常に丁寧で親切だったと記されており、彼の人柄を偲ばせるものとされています。やはり武の人というイメージとは程遠い人ではある様ですね。

なお、鈴木三樹三郎と改名したのは慶応四年になってからの事です。」

以下、明日に続きます。


参考文献
新人物往来社「新選組銘々伝」「新選組資料集」「新選組の謎」、光文社文庫「新選組文庫」、子母澤寛「新選組始末記」、歴史読本平成9年12月号「幕末最強新選組10人の組長」、河出書房新社「新選組人物誌」

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