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2006.10.14

前の土佐太守 長曽我部盛親の足跡 ~功名が辻~

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(京都市上京区柳図子。相国寺の西、烏丸通を西に渡り、上立売通の一筋北にあたります。)

巧妙が辻を駆け抜け、遂には土佐24万石の太守となった山内一豊。その一豊と明暗を分けたのが前の土佐の太守長曽我部盛親でした。

盛親は1575年(天正3年)に、一代で四国を切り従えた英雄、元親の4男として生まれました。元親には4人の男子があり、嫡男の信親が跡取りと定められていたのですが、島津氏と戦った戸次川の戦いで信親が戦死してしまいます。元親は新たな跡継ぎに、次男親和と三男親忠を差し置いて、末の息子である盛親を指名しました。四男を跡継ぎにすることについては家中においても反対が多かったのですが、元親は反対派の処罰を断行し、強引に盛親を跡継ぎに据えてしまいます。

1599年(慶長4年)に豊臣秀吉が亡くなってから間もなく、元親もまたこの世を去りました。秀吉亡き後の混沌とした世相の中、俄に長曽我部氏の当主となった盛親は、たちどころに困難な局面に直面します。大阪方と徳川方に別れた双方の陣営にとって、土佐24万石はどうしても味方に引き入れたい勢力であり、盛親の元には様々な誘いの手が伸びて来ました。そんな中で盛親が下した決断は、徳川方に味方するというものでした。土佐24万石は長曽我部氏が独力で切り従えた領地であり、豊臣氏の軍門に下ったとはいえその恩顧を受けた訳ではなく、大阪方に与する積極的な理由は何も無かったのですね。対する徳川家は、かつて小牧・長久手の戦いの際に一度は同盟を結んだ相手であり、また、戦になれば徳川氏の方に分があると盛親なりに見極めたのでしょう。

徳川氏に味方すると決めた盛親は、出陣に先立ち、家康の下へ使者を派遣します。このまま行けば土佐24万石は安泰のはずでした。ところが、この使者が近江路に設けられた大阪方の関所で怪しまれ、行く手を阻まれてしまったのです。家康との連絡手段を失った盛親は、やむなく大阪方に荷担する事になります。千代から一豊に向けて放った使者が無事にこの関所をくぐり抜け、千代のもたらした大阪方決起の知らせが一豊第一の戦功の元となり、さらには土佐の太守たらしめた事に比べると、何とも歴史の皮肉としか言い様がありません。

盛親は土佐6300の軍勢を引き連れ、大阪方の一将として伏見城、安濃津城攻めの主力として働きます。しかし、肝心の関ヶ原においては、同じ南宮山に陣取った毛利勢に行く手を阻まれ、戦況を傍観している間に敗軍の将になってしまいました。命からがら土佐に逃げ帰った盛親は、井伊直政を通して謝罪を申し入れます。直政は、謝罪するなら盛親自らが大阪に出てこなければ駄目だと告げ、盛親はこれに従いました。

ところが、盛親が土佐を発つ直前に、兄の親忠が自害してしまいます。これは、藤堂家とつながりのあった親忠が、徳川家の威光を背景に盛親に取って代わろうとするのではないかと疑われ、盛親自らが手を下したとも、盛親の預かり知らぬところで家臣が手を回したのだとも言われますが、定かではありません。しかし、このことが盛親にとっては命取りとなってしまいます。

大阪において八方陳弁に努めた盛親でしたが、家康はその兄殺しを限りなく不快に思い、土佐の国主にあるまじき振る舞いであるとして、盛親を追放してしまったのです。その実、家康は組下大名に対する恩賞を必要としており、どのみち盛親を許すはずも無かったのでしょうけどね。しかし、土佐を取り上げるための格好の口実を与えてしまった事は事実でした。

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(柳図子から東を望む。正面に見える緑は相国寺の森。左の壁は室町小学校。図子(ずし)とは辻子とも書き、京の町の再開発の中で生まれた道で、平安京に由来する東西、あるいは南北の通りを結ぶ連絡道として付けられた細道を指します。多くの場合はその道沿いにも町が成立し、町名ともなっています。)

土佐を追放された盛親は、名を大岩祐夢と改め、京都の柳図子に住まう事になりました。彼は天下の罪人であり、その身辺には常に京都所司代の監視の目が光っていたといいます。彼には元より収入は無く、わずかに旧臣からの仕送りで息を繋いでいました。しかし、その仕送りも途絶え勝ちで、やむなく彼はこの地で寺子屋を開く事にします。土佐24万石の大名だった盛親が、子供相手の寺子屋の師匠として露命を繋いだのでした。落ちぶれ果てたその姿は、しかし、徳川方の監視の目を誤魔化すには都合が良かったと思われます。

盛親が柳図子に住んで10余年の月日が流れました。天下は徳川家のものになったとは言え、まだ大阪城には豊臣氏が健在であり、争乱の種が消えた訳ではありませんでした。さらには大名の改易が相次ぎ、世間には主家を失った浪人が溢れ、世情は混迷の度合いを深めていました。かつて秀吉の死によって天下が乱れた様に、今度は家康の死と同時に天下が動くと予測されていたのです。この事を誰よりも知っていたのは家康自身でした。彼は自らの命が果てる前に徳川家の未来を盤石のものとするため、豊臣家を滅ぼしに掛かったのです。

家康は、豊臣家の莫大な財産を消費させる為に、秀頼に対して、長く続いた戦国の間に荒れ果てた神社仏閣を、その私費でもって修復する様に持ちかけていました。豊臣氏の名を高めるためという名目でしたが、今でも秀頼が修復したとされる社寺が各地に残っているのはこの為です。そしてその一つに、秀吉が開いた方広寺がありました。地震で崩れたまま放置されていた大仏殿の再建が成り、後は開眼法要を待つばかりになっていました。家康はその開眼法要に合わせて鋳造された鐘に刻まれた鐘銘に因縁を付け、豊臣氏に対して大阪城からの退去を迫まったのです。(方広寺鐘銘事件。)豊臣氏がこの要求を受け入れる筈もなく、東西の手切れが確実のものとなりました。

天下の権は徳川氏にあるものの、豊臣氏には秀吉が築いた大阪城と莫大な財産が残されており、天下に充満する浪人を集めれば、十分に対抗しうるだけの戦力にはなります。京都にあった盛親の下にも、豊臣方から誘いの手が伸びました。前の土佐太守という存在は大きく、彼が立てば長曽我部の遺臣が馳せ参じるであろうと期待されたからです。盛親は遂に決意し、豊臣氏に与する事に同意します。

彼は京都所司代の目を誤魔化すために、東西手切れにあたっては徳川方の陣を借り、功名手柄を立てたいと言って戦支度を始めました。そして、柳が図子を発って南に下り、そのまま大阪城に入ってしまったのでした。途中、彼の旗の下に長曽我部の遺臣が次々に集まり、大阪に着いた頃には数千もの軍勢に膨れあがっていたと言われます。

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1614年(慶長19年)11月に行われた大阪冬の陣は主として籠城戦であり、盛親の持ち場ではほとんど戦らしい戦はありませんでした。そのまま講和となり、一旦は戦は収まります。しかし、徳川方は約定を違えて大阪城の堀を全て埋めてしまった上で、豊臣氏に対して、浪人の追放か、あるいは国替えかの選択を迫りました。豊臣方は勝ち目が無くなったと知りつつ、再度の戦いを選びます。

翌1615年(元和元年)4月に始まった大阪夏の陣においては、盛親は5300の軍勢を率いて八尾方面の戦線を受け持ちました。そして、藤堂家の軍勢を相手に奮戦し、9分どおりまでこれを破ったのですが、あろう事か同じ戦線に居た木村重成の軍勢が井伊勢に敗れてしまいます。背腹に敵を受ける事となった長曽我部勢は戦線を支える事が出来ず、一敗地にまみれてしまったのでした。かろうじて大阪城に逃げ帰った盛親でしたが、手勢のほとんどを失っており、もはや戦う事はできませんでした。

盛親は大阪落城の際にも自害せず、脱出を試みています。いつか再起の日が来る事を信じて、落ち延びようとしたのですね。しかし、八幡にまで来た時に蜂須賀勢に捕らえられ、彼の身柄は二条城へと移されます。そして、見せしめの為に城外に晒された後、六条河原において斬首されたのでした。最後まで罪人扱いで、武士らしい切腹は認められなかったのですね。

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彼の身体は河原に放置され、首は三条河原に晒されました。この首を引き取って供養したのが当時の蓮光寺の住職であった蓮光和尚です。彼は寺子屋時代の盛親と親交があり、その縁で供養を申し出たのですね。写真はその蓮光寺に残る盛親の墓です。波乱の人生を送った盛親でしたが、今では境内の隅でひっそりと静かに眠っていました。

一豊とは対照的な運命を辿った盛親ですが、土佐においては今でも彼を慕う人が多いと聞きます。土佐人にとっては、長曽我部氏こそ誇るべき郷土の英雄なのですね。ドラマにおいては描かれる事は無いでしょうけれども、一豊の陰に回った盛親の足跡を辿ってみるのもまた一興ではないかと思います。


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