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2006.09.03

伝・聚楽第遺構 梅雨の井 ~功名が辻~

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以前に紹介した聚楽第について、唯一現存する遺構とされる「梅雨の井」を訪れてきました。前回訪れた時には見つけられなかったのですが、それもそのはず、大宮通から入り組んだ路地の奥にあったのです。

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梅雨の井とは、聚楽第図屏風に描かれているという井戸の事で、この水で豊臣秀吉がお茶を点てたという伝承を持っています。その名の由来は、梅雨時分になるとこの井戸の水があふれ出し、あたりを水浸しにしたというところから来ており、近くにある出水通の名もこの井戸にちなむものだとか。

「梅雨の井」は長く地元の水源として親しまれ、昭和25年に井戸の枠組みが崩壊してしまった後も、ボーリングが施されて地下水の使用は継続されていました。現在は地下から伸びる鉄パイプが錆び付き、水は全く出なくなっている模様です。

ところで、「梅雨の井」が本当に聚楽第の遺構にあたるのかと言うと、必ずしもはっきりとはしない様です。例えば現地に貼ってあったこの推定復元図に依れば、「梅雨の井」の周辺は東の堀の中央部にあたり、これが事実だとすると、「梅雨の井」は聚楽第が破却された後に改めてその跡地に穿たれたものと推測出来る事になります。(ちなみに、ここの地名も東堀町となっており、この説を補強しています。)ただし、この聚楽第の縄張りについては複数の説があって確定したものは無く、一つの復元図を元に「梅雨の井」が聚楽第と直接の繋がりは無いと言い切れるものではありません。真相は、このあたりを発掘調査しない限り明確には出来ないのでしょうね。

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「梅雨の井」を訪れて驚いたのは、周辺があまりにも荒れ果てていた事でした。周囲は板囲いで囲われており、井戸に近づく事は出来ません。井戸の前の土地も雑草で覆われており、とても史跡と呼べる状況ではありませんね。

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これには背景があって、かつてここには八雲神社という社がありました。バブル経済が盛んな頃この地にも地上げの手が伸び、神社とその周辺の土地は買収され、社と共に「梅雨の井」も撤去される事になっていました。このことに危機感を抱いた地元の有志が井戸の保存運動を展開し、かろうじて破壊を免れたのです。その後、保存に向けての運動は継続され、「梅雨の井」の保存に関する誓願が京都市議会にて採択されるにまで至りましたが、現状を見ると必ずしも進展を見ていない様ですね。

正確な経緯が判らないためこれ以上のコメントは差し控えますが、現状はあまりにも悲しく、関係者の努力によっていつか円満な解決を見て欲しいものだと思います。そして、「梅雨の井」の歴史的位置づけが明確になれば、なお嬉しいですね。

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コメント

 こんにちは!聚楽第跡の「梅雨の井」遺構、ずいぶんと寂れてしまっているのですね。
 実は私の幕末、明治頃の先祖に吉田至永(吉田榮次、のち新造)という金工がいて、後藤一乗の弟子でしたが、同じく一乗の弟子の橋本一至とともに、宮内庁御用達の名工だったそうです。明治になってからは、貨幣の彫刻などもしていました。

 その吉田至永が生まれたところが、ちょうどこのあたりだったと記録にあります。私はうちに伝わっている話から、神官の家の出身だったのではないかと推察しています。

 ここのあたりに「八雲神社」があったということは伺っていましたが、どのような神社であったかご存知ではないでしょうか?また、神主の家の名前は分からないでしょうか?

 突然妙なことをお尋ねして、申し訳ありません。ひょっとしたら聚楽第あとの御神木をお祭りしていたのは私どもの先祖にあたる人だったのかもしれないと思うと、感慨深いものがあります。

 

投稿: 吉田 | 2008.10.05 13:05

吉田さん、

なかなか凄いご先祖様をお持ちなのですね。
私は金工の世界には疎いのですが、
吉田至永の名で検索するといくつかヒットしました。
明治の代表的な名工の一人であられた様ですね。

さて、八雲神社の件ですが、
残念ながら私は何も詳しい情報を持っていません。
この地にあったという事、その後地上げにあって破却された事など、
本文に書いた内容以外は調べても出てこないのです。

お力になれず申し訳ありませんが、
もしかしたら現地に行かれたら何か判るかも知れません。
まだ神社があった当時の事を知る人が住んでおられるでしょうからね。

あと、ご存知かも知れませんが、次のサイトは地元の人が運営されている様です。

http://www.d3.dion.ne.jp/~jurakdai/

メールも送れる様になっていますので、一度問い合わされてはいかがでしょうか。

何か情報が掴めると良いですね。

投稿: なおくん | 2008.10.05 21:18

大変貴重な情報、有難うございました。
さっそくお尋ねしてみます。

 それにしても、西陣といい、聚楽第といい、やはり伝統が凝縮された場所ですね。

投稿: 吉田 | 2008.10.05 21:34

吉田さん、

梅雨の井も西陣の一角にありますが、
そこかしこで織機の音が響く職人の町であり、
今でも昔ながらの京都が息づいている様に思います。

地下には聚楽第が眠り、地名にはその名残が残る。
他には代え難い、なかなか貴重な町ですね。

投稿: なおくん | 2008.10.05 21:59

なおくんさん初めまして、羽柴 辰之介といいます。
さっそく質問なのですが、二番目の画像の聚楽第復元図はどの書籍もしくは論文の引用なのか教えて頂けないでしょうか?よろしくお願いします。

投稿: 羽柴 辰之介(はしば たつのすけ) | 2010.04.10 20:18

羽柴 辰之介さん、はじめまして。コメントありがとうございます。

さて、この図面ですが、本文中にも書いたとおり現地に張ってあったものです。
どこの文献からの引用かは書いてなかったと思います。

ただ、この記事を書いてから2年半を経過しており、
今でもあるかは判りません。

投稿: なおくん | 2010.04.10 22:29

なおくんさん、ご返事ありがとうございます。
本文にちゃんと書かれてることを聞いて本当に申し訳ありません。本当にに恥ずかしいです。

実は復元図作成者について思い当たる人が1人います。西ヶ谷 恭弘 氏です。1992年に出版された同氏の『戦国の城 西国編』の聚楽第鳥瞰図のイラストとこの復元図が似ているんです。
後、この復元図の作図は西陣職安の発掘報告書が書かれた1993年以降だと思います。

投稿: 羽柴 辰之介 | 2010.04.10 23:22

羽柴 辰之介さん、

聚楽第の復元図は、この記事を書いた当時にいくつか調べたのですが、
幾通りもあるという事が判っただけでした。

現地に張り紙をしたのは地元の保存会の様ですが、
そのホームページにある復元図もこの写真のものとは違っています。

http://www.d3.dion.ne.jp/~jurakdai/

西陣職安の発掘によって、東堀の位置が推定出来たとの事ですので、
おっしゃるとおり写真の図面にはその成果が反映されているのでしょうね。

何時の日か聚楽第の全貌が明らかになる時が来て欲しいものですね。

投稿: なおくん | 2010.04.11 08:18

梅雨の井がある場所は、今は東堀町となっていますが以前は清水町といいました。明治2年に東隣の東堀町と合併したのです。
「ちなみに、ここの地名も東堀町となっており、この説を補強しています。」との一文は誤解に基づくものですので、訂正もしくはご説明の追加をお願いします。

投稿: 河内 | 2015.03.08 03:48

河内さん、はじめまして。
なるほどそういう経緯があるのですね。
本文の方は見え消しで修正しておく事とします。
情報の提供、ありがとうございました。

投稿: なおくん | 2015.03.08 17:20

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