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2006年9月

2006.09.23

織田信長公本廟 阿弥陀寺 ~巧妙が辻~

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織田信長が明智光秀に襲われて命を落としたのは本能寺での事でした。その信長の墓所として伝わるのは、本能寺総見院などいくつかあり、この阿弥陀寺(あみだじ)もその中の一つです。

阿弥陀寺は天文年間(1532~1554)清玉(せいぎょく)上人によって開創された浄土宗の寺院です。当初は今の地ではなく、西の京蓮台野芝薬師寺西町(現在の今出川大宮東)にあり、八町四方の境内と11の塔頭を構える大寺でした。そして、1587年(天正15年)に豊臣秀吉の命によって現在の地(寺町今出川上がる)に移転し、現在に至っています。

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この清玉上人が織田家と親交があった事が縁で、本能寺の変の折りには上人とその弟子達が本能寺に駆けつけ、焼け跡から信長とその家臣達の遺骸を運び出し、当寺に埋葬したと伝えられています。上の写真が信長とその嫡男である信忠のものと伝えられる墓で、一緒に戦って死んだ家臣達もまたここに葬られていると言われます。これが事実だとすると、清玉上人は、二条御所にも回って信忠の遺骸をも運び出した事になりますね。

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そして、この3基の墓石は、信長に殉じた森坊丸、力丸、欄丸の3兄弟の墓です。彼等は信長の小姓であり、特に欄丸は寵愛を受けていた事で知られていますよね。本能寺の変でも信長の側にあり、本能寺に火を放ったのは彼だったとされます。信長に愛された彼等3兄弟は、その死後も信長の側にあって小姓として仕え続けているという訳ですね。

阿弥陀寺には、このほか信長親子の木像が安置されているとの事ですが、普段は公開されていないようです。

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阿弥陀寺の境内では、一群の萩が咲いていました。訪れたのは台風の余波があった日で、前日の雨と折からの強風によって散らされた花が、紫色の川を形作っていました。

阿弥陀寺は寺町通に連なる数多い寺院の一つで、気を付けていないと見過ごしてしまうような控えめな佇まいです。訪れる人も少なく、この日も墓参りと思われる人達が何人か居ただけで、とても静かな境内でした。信長とその一族について思索するには、とても良い環境だと言えそうです。

阿弥陀寺は寺町今出川の交差点から北へ歩いて10分ほど、門前にある「織田信長公本廟」の石碑が目印になります。

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2006.09.15

京都・洛南 深草少将邸跡 ~欣浄寺~

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伏見大仏の寺として紹介した欣浄寺はまた、小野小町とのロマンスで知られる深草少将の邸宅跡と伝えられます。

稀代の美女小野小町に懸想した深草少将は、小町の愛を求めて執拗に迫りました。小町の答えは、百夜自分の下に通えば願いを叶えようというもの。少将は毎夜深草の地から小野里までの山越えの道を通い続け、遂に九十九夜を数えました。やっと念願の百夜目という日、折からの大雪に閉ざされた道の途中、少将は寒さのあまり凍え死んでしまったのでした。亡くなったのは813年(弘仁三年)3月16日の事とされ、彼の遺骸はこの地に埋葬されたと伝えられます。

悲恋の人深草少将は、実は伝説上の人物に近く、その本名も人となりもすべて謎のままです。しかし、ここ欣浄寺には少将ゆかりの遺構が幾つも残っており、彼の実在を訴えて止みません。その最たるものの一つがこの「深草少将張文像」。少将が小町から貰った恋文を焼いた灰を固めて作ったとされるもので、いかにも平安貴族らしい下ぶくれの容貌が生き生きと表現されていますね。

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少将の邸は桓武天皇から授かったとされ、往時は八町四方の広さがあったと言われます。今では数分の1までに狭くなってしまいましたが、境内には当時から続くとされる小さな池があります。この池にはその昔、小町が少将の邸に来遊した折りに、自らの美しい容姿を水面に映して、

「おもかげの変らで年のつもれかし よしや命にかぎりありとも」

と詠んだとという伝説があり、その事から姿見の池と呼ばれています。きっと当時はもっと大きな池だった事なのでしょうね。

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この井戸は少将遺愛と伝えられる「墨染の井戸」です。別名「少将姿見の井戸」、さらには「涙の水」と言われ、少将の流す涙の故か今でも枯れる事無く水が湧き出ているそうです。

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そして、境内に仲良く並んだ小町と少将の塚。小町の墓と伝えられる塚は他にも多数あり、この塚にどこまで信憑性があるかは判りません。恐らくは少将の悲恋を哀れみ、せめて塚だけでも寄り添わせてやろうという後世の人の思いやりなのでしょうね。

遠い昔の伝説の中の人物に過ぎなかった深草少将も、この寺の境内に佇んでいると確かに彼はここに実在したのだという気にさせられます。

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2006.09.14

京都・洛南 伏見大仏 ~欣浄寺~

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京都の大仏と言えば、今は失われてしまった方広寺くらいしか思い浮かびませんよね。しかし、洛南・伏見の地に大仏が今でも現存しているのをご存じでしょうか。それがこの欣浄寺の御本尊「昆盧舎那仏」です。

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欣浄寺は9世紀の半ば頃、仁明天皇の寵臣であった僧正遍昭が、帝の崩御を悲しみ、その菩提を弔う為に念仏堂を建てた事が始まりとされています。最初は真言宗、後に禅宗から浄土宗に転じ、そして江戸時代末期に再び禅宗(曹洞宗)に転じて現在に至るという、めまぐるしい変遷を経てきた寺の様ですね。鎌倉時代に道元禅師が一時ここで閑居していたという由緒から、「道元禅師深草閑居の旧跡」とも称されているそうです。

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御本尊が作成されたのは寛政3年から5年(1791年~1793年)にかけての事でした。一丈六尺(約5.3m)の高さを持つ木製の仏像で、実際に目にすると思っていた以上の迫力があります。まさに大仏と呼ぶに相応しい巨大さですよ。すぐ近くにまで寄ることも出来、真下から見上げると丁度仏様の目と合い、じっと見つめられているような感覚に陥ります。

本堂は昭和49年の再建で、方広寺の火災の教訓からコンクリート造にされたのだそうです。中は広々としており、仏様が一段下がった場所に安置されているという、ちょっと変わった配置になっています。あまりに巨大ですから、これで丁度仏様の御顔が正面に来るのですが、他では見た事がない位置関係ではあります。

欣浄寺を拝観するには、予め電話に依る予約が必要です。この日はあいにく住職が出かけられていた為に、拝観だけでお話を伺う事が出来ませんでしたが、普段は詳しい解説をして頂ける様です。拝観料は定められていませんが、志納金として任意のお金を納める事になります。

場所は京阪墨染駅を降りて西に向かい、師団街道を南へ少し下った所にあります。

電話番号 075-642-2147

次回は、欣浄寺と深草少将の関わりについてアップします。


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2006.09.10

伏見城遺構 豊国神社唐門 ~功名が辻~

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京都の東山、京都国立博物館の北隣に豊国神社があります。その名から連想されるごとく豊臣秀吉を祀った神社で、一般に「ホウコクさん」と呼ばれていますが、神社の名称としては「とよくに」と読むのが正しい呼称です。ちなみに、大阪城にある豊國神社は「ほうこく」と読むので、ちょっと混乱しそうですね。

秀吉は1598年(慶長3年)に63歳で亡くなった後、後陽成天皇より正一位の神階と豊国大明神の神号を賜ります。そして遺骸は遺命により阿弥陀ヶ峰の中腹に葬られ、その麓には壮麗な廟社が造営されました。この廟社が豊国神社の前身となる訳ですが、残念ながらこれは豊臣氏の滅亡後、徳川幕府の手によって破壊される事になってしまいます。徳川幕府にとっては前政権を連想させるものを残すのは都合が悪かったのでしょう、秀吉を葬った廟は跡地が平になるほどに破壊され、さらに秀吉の御霊は神号を奪った上で新日吉神社に移されてしまいました。その徹底した破壊ぶりから考えると、政治的配慮のみならず、家康は自分の上に君臨していた秀吉に対して激しい憎悪を抱いていたのかもしれないとも思えてきます。

時が遷り明治に至ると、秀吉は天下を統一しながらも幕府を開かなかった功臣として再評価され、豊国神社の再興が布告される事になります。そして、1880年(明治13年)に方広寺の跡地に社殿が再建され、別格官幣社として復興されました。また、廟についても阿弥陀ヶ峰の頂上に再建されています。このあたり、人の世の毀誉褒貶の移り変わりの激しさには、考えさせられるものがありますね。

現在の社殿の正面に聳える唐門は伏見城の遺構と伝えられているもので、二条城から南禅寺の金地院を経てここに移築されるという数奇な運命を辿ったとされています。安土桃山期を代表する建造物とされるだけあって、その大きさにも係わらず見るからに軽快な印象を受け、また随所に華麗な装飾が施された見事な門です。大徳寺、西本願寺の唐門と合わせて京都の三唐門とされており、この門を見るだけでもここを訪れる価値はあると言えるでしょう。

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現在では秀吉にあやかって出世開運の神様として慕われており、唐門には豊臣家の旗印であった瓢箪を象った絵馬が奉納されています。江戸期にはとても考えられなかった現象でしょうね。ちなみにこの絵馬は、一枚500円で奉納する事が出来ます。

すぐ隣には鐘銘事件で知られる方広寺もあり、豊臣家の栄枯盛衰を偲びに、合わせて訪れてみられてはいかがでしょうか。


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2006.09.03

伝・聚楽第遺構 梅雨の井 ~功名が辻~

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以前に紹介した聚楽第について、唯一現存する遺構とされる「梅雨の井」を訪れてきました。前回訪れた時には見つけられなかったのですが、それもそのはず、大宮通から入り組んだ路地の奥にあったのです。

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梅雨の井とは、聚楽第図屏風に描かれているという井戸の事で、この水で豊臣秀吉がお茶を点てたという伝承を持っています。その名の由来は、梅雨時分になるとこの井戸の水があふれ出し、あたりを水浸しにしたというところから来ており、近くにある出水通の名もこの井戸にちなむものだとか。

「梅雨の井」は長く地元の水源として親しまれ、昭和25年に井戸の枠組みが崩壊してしまった後も、ボーリングが施されて地下水の使用は継続されていました。現在は地下から伸びる鉄パイプが錆び付き、水は全く出なくなっている模様です。

ところで、「梅雨の井」が本当に聚楽第の遺構にあたるのかと言うと、必ずしもはっきりとはしない様です。例えば現地に貼ってあったこの推定復元図に依れば、「梅雨の井」の周辺は東の堀の中央部にあたり、これが事実だとすると、「梅雨の井」は聚楽第が破却された後に改めてその跡地に穿たれたものと推測出来る事になります。(ちなみに、ここの地名も東堀町となっており、この説を補強しています。)ただし、この聚楽第の縄張りについては複数の説があって確定したものは無く、一つの復元図を元に「梅雨の井」が聚楽第と直接の繋がりは無いと言い切れるものではありません。真相は、このあたりを発掘調査しない限り明確には出来ないのでしょうね。

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「梅雨の井」を訪れて驚いたのは、周辺があまりにも荒れ果てていた事でした。周囲は板囲いで囲われており、井戸に近づく事は出来ません。井戸の前の土地も雑草で覆われており、とても史跡と呼べる状況ではありませんね。

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これには背景があって、かつてここには八雲神社という社がありました。バブル経済が盛んな頃この地にも地上げの手が伸び、神社とその周辺の土地は買収され、社と共に「梅雨の井」も撤去される事になっていました。このことに危機感を抱いた地元の有志が井戸の保存運動を展開し、かろうじて破壊を免れたのです。その後、保存に向けての運動は継続され、「梅雨の井」の保存に関する誓願が京都市議会にて採択されるにまで至りましたが、現状を見ると必ずしも進展を見ていない様ですね。

正確な経緯が判らないためこれ以上のコメントは差し控えますが、現状はあまりにも悲しく、関係者の努力によっていつか円満な解決を見て欲しいものだと思います。そして、「梅雨の井」の歴史的位置づけが明確になれば、なお嬉しいですね。

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