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2006.08.05

京都・洛南 伏見城跡 ~功名が辻~

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豊臣秀吉が聚楽第に続き、自らの隠居所として築いた城、それが伏見城です。

伏見城は当初、宇治川沿いの丘陵地である指月山に築かれました。現在ではかつての面影はまったくありませんが、位置としてはJR桃山駅の南、大光明寺陵の付近であったと思われます。築城されたのは1592年(文禄元年)の事で、全国の大名に命じて25万人を動員し、わずか5ヶ月で完成したと言います。当時の豊臣家の威勢を窺わせるエピソードですね。ところが、この城は1596年(慶長元年)の大地震により倒壊してしまい、秀吉は改めて木幡山への築城を命じました。これが現在に残る伏見城の跡地へと繋がる事になります。

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伏見城の跡地は、主要な部分が現在の桃山御陵とほぼ重なっています。この明治天皇陵がある場所がかつての本丸跡と推定されており、陵墓の奥の山上に天守閣が聳えていたものと思われます。なお、桃山御陵は参道とこの参拝所以外は立ち入り禁止になっており、伏見城の跡地を探索する事は出来ません。

この明治天皇陵は、当時の日本が威信を賭けて築いた陵墓だけに、さすがに立派なものですね。この東隣には昭憲皇太后陵があり、二つを併せて桃山御陵と呼ばれています。塵一つ落ちていないと言うほどに手入れが行き届いており、とても荘厳な雰囲気があたり一帯を覆っています。

また、ここには御香宮神社方面から続く広々とした参道と、明治天皇陵の南に続く230段の石段があり、付近の人達のジョギングやウォーキング、さらには学生達のトレーニングのコースとして利用されている様ですね。この日も、何人ものトレーニング姿の人達とすれ違いました。

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正直なところ、かつての伏見城を偲ばせるものはとても少ないのですが、その中の一つがこの治部池です。桃山御陵から桓武天皇陵へと抜ける道の中程にあり、鬱蒼と茂る山林の中に静まるこの池を、フェンス越しながら見る事が出来ます。

この池は、その名から推測出来る様に石田三成に縁があります。伏見城内において三成の屋敷があった場所は、その官名「治部少輔」から取って治部少丸と呼ばれていました。治部池はこの治部少丸と御花畠山荘の間にあった内堀の跡と推定されている、貴重な伏見城の遺構の一つなのですね。

見るからにいわくのありそうな池ですが、武者の亡霊が出るという伝説もあるそうですね。関ヶ原の戦いで敗れた三成か、あるいは伏見城落城の際に命を落とした武者の霊が未だにこの辺りをさまよって居るのでしょうか。

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ここは、柏原陵と呼ばれる桓武天皇陵です。桓武天皇は言うまでもなく平安京を開いた事で知られ、歴代の天皇の中でも特に強大な権力を有していたと考えられています。その陵墓も11町四方(約1.2km)四方という巨大なもので、鎌倉期までは皇室の尊崇も厚く、広く世に知られた存在でした。しかし、その後の戦乱により次第に荒廃し、江戸期にはどこにあったのか判らないという状況になっていました。現在のこの陵墓は幕末に柏原陵として推定されたもので、確かな根拠に基づくものではありません。おおよそこのあたりにあった事は確かで、江戸期からいくつかの候補地が上げられていますが、確証と言えるほどのものは出ていない様ですね。

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桓武天皇陵の東に聳えているのが、伏見桃山城模擬天守です。この天守は、1964年(昭和39年)に開業した伏見桃山キャッスルランドという遊園地のランドマークとして建てられたコンクリート造のものです。この場所は伏見城の御花畠山荘と呼ばれていた場所にあたり、ここに天守があったという訳ではありません。また、その姿も姫路城になどを参考としており、実際の伏見城を写したものでは無く、建設当時は誤解を与える元だとして不評を買っていました。

キャッスルランドは経営不振から2003年(平成15年)に閉園になり、その際にこの天守も取り壊される事になっていました。まあ歴史的価値が無いものですから仕方が無かったのでしょうけど、長年シンボルとして親しんできた地元から反対の声が上がり、現在は京都市の施設として存続される事に決まっています。

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そのキャッスルランド跡地は京都市の運動公園として再整備され、平成19年度から開園する予定になっています。この天守は今度は公園のランドマークとして、末永く市民に親しまれて行く事でしょうね。

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伏見城は、1600年に起こった関ヶ原の戦いの際に、上方に残った東軍の拠点として、戦乱の渦に巻き込まれました。城を守ったのは鳥居元忠以下800の将兵達。西軍の率いる大軍に包囲された伏見城は衆寡敵せず、落城、炎上してしまいました。その際に将兵達が切腹して果てた廊下の板が、供養の為に正伝寺養源院などに移され、血天井として今に残されています。

戦いに勝った徳川氏は伏見城を再建し、大阪城に依る豊臣氏に対する西の拠点としました。そして、豊臣氏の滅亡と共にその役割を終え、1623年(元和9年)に廃城となっています。その際に城の建物は各地に移され、江戸城伏見櫓、福山城伏見櫓などが現在にまで伝わっています。そして、地元伏見に残っているのが、この御香宮神社の表門です。かつての伏見城の大手門と伝えられており、確かに神社と言うより城にある方がふさわしい、がっちりした構えの無骨な門ではありますね。

伏見城の跡地は江戸期に桃畑として開墾され、花所として有名になり「桃山」と呼ばれる様になりました。安土桃山時代の桃山とはここから来ているのですね。伏見城の遺構は桃山御陵の建設とその後の宅地開発などによって多くが失われており、当時を推測する事は困難です。しかし、ここに掲げたように歴史を楽しむ手掛かりは幾つもあり、また地名にも福島大夫町、毛利長門町、羽柴秀長町など、功名が辻にも出てきそうな大名達縁のものが多く残されています。地図を片手に、当時を偲びながら散策を楽しんでみるのも一興ではないでしょうか。

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