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2006.07.30

京都・洛中 聚楽第跡 ~功名が辻~

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聚楽第とは、豊臣秀吉が京都に築いた城郭風の邸宅です。着工は1586年(天正14年)2月の事で、当時の秀吉は、その前年に関白に任ぜられて位人臣を極め、この年の1月には最大の懸案であった徳川家康との和睦を果たし、事実上の天下人となったという絶頂期にありました。その秀吉の鋭気を反映したこの邸は壮大な規模と華麗さを誇り、安土桃山期を代表する建造物であったと言われます。また、邸とは言っても周囲には堀を穿ち、平城と変わらない軍事的機能を持っていました。完成は翌年の9月の事で、九州征伐を終えた秀吉が大阪城からこの新邸に移っています。

聚楽第の正確な位置や規模は良く判っていません。漠然と言えば、東は大宮通、西は千本通、北は一条通、南は丸太町通で囲まれた範囲内にあったのではないかと考えられています。写真の石碑はその一角にあたる位置にあり、正親小学校の東北、中立売通と裏門通が交差する場所に建てられています。

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現在聚楽第の跡を訪ねてもほとんど何も残っていませんが、わずかにその痕跡を止めていると思われるのが松林寺です。石碑の場所から裏門通を真っ直ぐ南に下って突き当たった場所にある寺で、別名「やす(安)寺」と呼ばれ、安産祈願の寺として知られています。

聚楽第に繋がるのはこの寺そのものではなく、その境内の地形にあります。ここは写真の様に境内が通りから一段下がった場所にあり、聚楽第を囲んでいた外堀の跡ではないかと考えられています。周辺の地形からしてもここは局所的に低くなっており、堀の跡とする説には説得力を感じますね。

もう一つ、直接聚楽第に繋がるとされる遺跡として梅雨の井があるのですが、残念ながら今回はその場所を探し当てる事が出来ませんでした。(平成18年9月3日追記:「梅雨の井」に関する記事をこちらにアップしました。)

聚楽第は京都における豊臣政権の中心的役割を担い、その周囲には幕下大名の邸が甍を並べていました。1588年(天正16年)には時の後陽成天皇の行幸を仰ぎ、諸大名から天皇とその代理者である秀吉に対して忠誠を誓わせるというパフォーマンスの舞台となっています。1591年(天正19年)、秀吉は跡継ぎと定めた甥の秀次に、関白職と共に聚楽第を譲ります。以後、聚楽第は秀次の居館となったわけですが、その2年後に秀吉の実子秀頼が生まれると、秀吉と秀次との間に溝が生じ始めます。そして、1595年(文禄4年)7月、秀次は謀反の疑いを掛けられ、高野山にて自害して果てました。秀吉は、秀次が生きていた痕跡を全て消し去るがごとくに聚楽第の破却を命じ、稀代の豪邸もわずか9年で地上から姿を消すことになります。

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聚楽第の建物の多くは、当時建設中であった伏見城に移されました。また、伝承として聚楽第から移されたとされる建造物がいくつか残っており、大徳寺の唐門もその一つです。大徳寺唐門は極彩色の装飾で彩られた華麗な門で、別名日暮門と呼ばれています。その門の前に立つとあまりの見事さに見とれて、日が暮れてしまうまで気が付かないというところから来た別名で、日光の陽明門などと同じ由来ですね。その門と関係すると思われる通り名が今も残っています。それがこの日暮通。知恵光院通の一つ東の筋にあたり、かつてこの付近に建っていた日暮門の前から南に続いていた道だとされます。ご覧の通りごく普通の生活道路で、当時を偲ばせるものは何もないのですけどね。

このほか、地名として聚楽第に由来するではないかと考えられるものに、須浜池町、山里町、東堀町、金馬場町などがあります。ハローワークの敷地など数カ所で行われた部分的な発掘調査において、石垣の跡、金箔押しの瓦などが出土しており、このあたりに聚楽第があった事は確かな様です。家屋が連なる現状から見て、近い将来に大規模な発掘調査が行われる可能性は低いでしょうけど、何時の日かその全貌が明らかになる日が来るかも知れません。その日が来るまで、わずかな手掛かりからかつての豪邸の有り様を推理してみるのもきっと面白いと思いますよ。

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コメント

こんにちは、なおくん様

すっかり暑くなってしまいましたね。
京都は本日で、祇園祭は終了です。
やっと胡瓜も食べられます(笑)。

聚楽第のお取り上げとは!!
いつもながらなおくん様の視点の細やかさに脱帽です。
聚楽第の遺構は、確か、北野天満宮梅園奥にも残されていますよ。
ただ、梅の季節しか公開されていなかったような・・・。

実は、私、聚楽第にちょっと縁がございます。
自宅住所には“聚楽廻り”なる言葉が付いているのですよ。

投稿: いけこ | 2006.07.31 16:54

いけこさん、コメントありがとうございます。
北野天満宮の聚楽第の遺構というのは、同時期に出来た御土居の事でしょうか。
それとも、落成を祝って行われたという北野大茶会の石碑かな。
いずれにしても、近い内に行ってみようと思ってます。
聚楽廻は聚楽第の周辺だったという意味なのかな。
ここもまた聚楽第縁の地名と言えそうですね。


投稿: なおくん | 2006.07.31 20:52

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