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2006.07.09

京都・洛東 方広寺 ~功名が辻~

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豊臣秀吉が威信を賭けて京都に建築した大仏殿、それが方広寺です。創建は1586年(天正14年)の事で、現在の京都国立博物館の北側に築かれた大仏殿は、奈良の東大寺をもしのぐという巨大な規模を誇りました。豊臣政権は、後白河法皇ゆかりの三十三間堂を「千手堂」という方広寺の山内寺院にしてしまうという程の権勢を示し、東山七条一帯をその寺域としていた様です。その寺域の南限を示すものがこの三十三間堂の南大門。現在は三十三間堂の施設として管理されていますが、元は方広寺の南大門として築かれたものです。
現地に行くと、三十三間堂に隣接はしていますが、境内とはまるで関係のない取って付けたような位置にあり、予備知識が無ければ何のための門なのか理解に苦しむ事でしょうね。この門の西側にはやはり方広寺の遺跡である太閤塀が続いており、今では三十三間堂の南側の土塀としての役割を担っています。

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方広寺南大門は巨大ではあるけれど、その割に質素な感じがするのは、大仏殿が西向きに建っていた事に起因します。すなわち、西こそが正面にあたり、それを示す様に方広寺の西には正面通と呼ばれる通りが残っています。南大門は正門ではなく、脇門だったのですね。では、その西側にあった正門がどうなったかと言うと、今は東寺の南大門になっています。

東寺の元の南大門は1868年(明治元年)に火災にあって焼失してしまい、1895(明治28年)に方広寺の西門を譲り受けて現在の南大門としたのでした。当時の方広寺西門は半ば崩れかけており、崩れ門と呼ばれていたと言いますから、相当な荒れ方をしていたのでしょうね。

方広寺の西門はその南大門と比べると、全体の造りは似ていますが、一回り以上大きく、また意匠も施されていて、正門らしい風格を備えてたと言えそうです。

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方広寺の巨大さを物語る遺跡に、巨石を並べたこの石垣があります。秀吉が配下の大名に命じて運ばせたもので、かつての豊臣家の栄華が偲ばれる遺跡でもありますね。この石垣にも様々な伝説が残っており、その一つとして、「泣き石」があります。

石垣の北の外れにある石は一際巨大で、白い筋があって涙を流している様に見える事から「泣き石」の別名があります。この石は前田利長が運んだのですが、「泣き石」の言われとしてその外見とは別に、負担の重さに利長が泣いたからだとも、あまりの重さに人扶達が泣きながら牽いたからだとも言われています。あるいは、夜中に泣くという伝説もあるそうですね。

今は見る影もなく衰えてしまった方広寺ですが、かつての繁栄を物語る遺跡を尋ねてみるのも面白いですよ。次週は、大仏殿の遺跡と鐘銘事件についてお伝えします。

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コメント

こんにちは、なおくん様

智積院・方広寺・三十三間堂・豊国神社あたり、本当に懐かしいです。
学生時代はもう、毎日のように通学しておりましたからね~。
あの辺りの寺院を抜けて、校舎へショートカットするのが日課でございました(笑)。
「泣き石」ですが、今でも街の不思議として、息づいているようです。
出身大学には、附属の小学校他があるのですが、その友人が、生徒達の怖い話として、代々先輩から後輩へ伝えられると言っておりました。
部活が遅くなった時、「泣き石」の前を通ってはいけないと。
石が「ひいぃぃぃぃぃ~!!」と泣くのだそうです。
それを聞いたら、3年彼氏が出来ないとか。
何故そうなるのか、分かりませんが、確かに怖いですよね(笑)。

投稿: いけこ | 2006.07.10 11:43

いけこさん、コメントありがとうございます。
そう言えば、いけこさんの母校はすぐ近くでしたね。
この日もいけこさんの後輩達で道が溢れていました。
それにしてもこんな伝説もあるのですね。
女性にとっては何より怖い伝説かも?

投稿: なおくん | 2006.07.10 20:15

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