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2006年7月

2006.07.31

せみしぐれ ~京都・洛東 真如堂~

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梅雨が明けたとたん、せみしぐれが始まりました。蝉たちも雨が上がるのをじっと待っていたのですね。遅れた夏を取り戻そうとするかのように連日懸命に鳴いています。

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ここ、真如堂でもせみしぐれが賑やかだそうです。先日、陽の傾く頃、ヒグラシの声が聞きたくて訪れたのですが、今年の長い梅雨が明ける前だったせいか、残念ながらまだ鳴いていませんでした。今年は花にしろ昆虫にしろ、例年より遅れる事が春からずっと続いていますね。今はちゃんと鳴いているそうなので、そのうちにまた訪れてみたいと思ってます。

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真如堂の本堂の前では、菩提樹の実が沢山落ちていました。この実は苞が羽根になっていて、落ちる時にヘリコプターの様にクルクル舞うのが面白いのですよね。その様子をカメラで見事にキャッチ!と言うのは嘘で、蜘蛛の巣に引っかかってブラブラしていたのを撮ってきました。でも、本当に飛んでいる様に見えなくもないでしょう?

この実を財布に入れておくとお金が貯まるという俗信があるのだそうですね。私もいくつか拾って、早速財布に入れてみました。ところが、よく調べてみると、今の時期に落ちている実は熟したものではなく、付きすぎた実を木が落としているのだそうです。秋に成熟した実を残すために、余分なものを整理しているのですね。その実を拾っても果たして御利益があるかどうかは、微妙な気がしてきました...。

秋には賑わう真如堂も、この時期にはほとんど訪れる人がありません。日暮れ時の静かな境内を散歩がてら歩いてみるのも、風情があってなかなか良いものですよ。

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2006.07.30

京都・洛中 聚楽第跡 ~功名が辻~

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聚楽第とは、豊臣秀吉が京都に築いた城郭風の邸宅です。着工は1586年(天正14年)2月の事で、当時の秀吉は、その前年に関白に任ぜられて位人臣を極め、この年の1月には最大の懸案であった徳川家康との和睦を果たし、事実上の天下人となったという絶頂期にありました。その秀吉の鋭気を反映したこの邸は壮大な規模と華麗さを誇り、安土桃山期を代表する建造物であったと言われます。また、邸とは言っても周囲には堀を穿ち、平城と変わらない軍事的機能を持っていました。完成は翌年の9月の事で、九州征伐を終えた秀吉が大阪城からこの新邸に移っています。

聚楽第の正確な位置や規模は良く判っていません。漠然と言えば、東は大宮通、西は千本通、北は一条通、南は丸太町通で囲まれた範囲内にあったのではないかと考えられています。写真の石碑はその一角にあたる位置にあり、正親小学校の東北、中立売通と裏門通が交差する場所に建てられています。

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現在聚楽第の跡を訪ねてもほとんど何も残っていませんが、わずかにその痕跡を止めていると思われるのが松林寺です。石碑の場所から裏門通を真っ直ぐ南に下って突き当たった場所にある寺で、別名「やす(安)寺」と呼ばれ、安産祈願の寺として知られています。

聚楽第に繋がるのはこの寺そのものではなく、その境内の地形にあります。ここは写真の様に境内が通りから一段下がった場所にあり、聚楽第を囲んでいた外堀の跡ではないかと考えられています。周辺の地形からしてもここは局所的に低くなっており、堀の跡とする説には説得力を感じますね。

もう一つ、直接聚楽第に繋がるとされる遺跡として梅雨の井があるのですが、残念ながら今回はその場所を探し当てる事が出来ませんでした。(平成18年9月3日追記:「梅雨の井」に関する記事をこちらにアップしました。)

聚楽第は京都における豊臣政権の中心的役割を担い、その周囲には幕下大名の邸が甍を並べていました。1588年(天正16年)には時の後陽成天皇の行幸を仰ぎ、諸大名から天皇とその代理者である秀吉に対して忠誠を誓わせるというパフォーマンスの舞台となっています。1591年(天正19年)、秀吉は跡継ぎと定めた甥の秀次に、関白職と共に聚楽第を譲ります。以後、聚楽第は秀次の居館となったわけですが、その2年後に秀吉の実子秀頼が生まれると、秀吉と秀次との間に溝が生じ始めます。そして、1595年(文禄4年)7月、秀次は謀反の疑いを掛けられ、高野山にて自害して果てました。秀吉は、秀次が生きていた痕跡を全て消し去るがごとくに聚楽第の破却を命じ、稀代の豪邸もわずか9年で地上から姿を消すことになります。

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聚楽第の建物の多くは、当時建設中であった伏見城に移されました。また、伝承として聚楽第から移されたとされる建造物がいくつか残っており、大徳寺の唐門もその一つです。大徳寺唐門は極彩色の装飾で彩られた華麗な門で、別名日暮門と呼ばれています。その門の前に立つとあまりの見事さに見とれて、日が暮れてしまうまで気が付かないというところから来た別名で、日光の陽明門などと同じ由来ですね。その門と関係すると思われる通り名が今も残っています。それがこの日暮通。知恵光院通の一つ東の筋にあたり、かつてこの付近に建っていた日暮門の前から南に続いていた道だとされます。ご覧の通りごく普通の生活道路で、当時を偲ばせるものは何もないのですけどね。

このほか、地名として聚楽第に由来するではないかと考えられるものに、須浜池町、山里町、東堀町、金馬場町などがあります。ハローワークの敷地など数カ所で行われた部分的な発掘調査において、石垣の跡、金箔押しの瓦などが出土しており、このあたりに聚楽第があった事は確かな様です。家屋が連なる現状から見て、近い将来に大規模な発掘調査が行われる可能性は低いでしょうけど、何時の日かその全貌が明らかになる日が来るかも知れません。その日が来るまで、わずかな手掛かりからかつての豪邸の有り様を推理してみるのもきっと面白いと思いますよ。

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2006.07.23

京都・洛東 方広寺鐘銘事件 ~功名が辻~

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方広寺の大鐘が鋳造されたのは1614年(慶長19年)4月の事でした。豊臣秀頼が徳川家康の勧めにより行っていた方広寺再建の最後の仕上げとなるもので、8月には大々的に落慶法要が営まれる事になっていました。この鐘は、高さ4.2m、外径2.8m、厚さ0.27m、重さ82.7トンという巨大な規模を持ち、東大寺、知恩院の鐘と合わせて日本三大名鐘の一つに数えられています。さすがに、東大寺大仏殿を凌いだという大寺に相応しい大鐘ではあります。

しかし、この鐘が世に知られているのは、その巨大さ故にではありません。豊臣家を滅ぼした大阪の陣を引き起こすきっかけとなった「方広寺鐘銘事件」の生き証人であるからです。

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「鐘銘」とは鐘に刻まれた銘文の事で、方広寺が如何に素晴らしい出来映えの寺であるかを称え、またこれからは国家鎮護のために役立つであろうと称える漢文が綴られています。この文字を撰したのが東福寺第227世文英清韓長老でした。清韓は、当時都きっての文筆家として知られた人で、学僧として秀吉に重用され、朝鮮の役では加藤清正に従ってかの地を踏んだという経歴を持っています。秀吉の死後、天下の覇権が家康に移った後も秀頼の学僧として豊臣家との関係を保っており、その縁から方広寺の銘文を撰する様に依頼されたのでした。清韓の作った銘文はさすがに素晴らしい出来映えで、きちんと韻を踏んだ名文でした。しかし、そのせっかくの名文が、豊臣家を滅ぼしたいと考えていた徳川家によって、足下を掬うための道具に使われてしまったのです。

事は徳川家の謀臣であった、金地院崇伝、林羅山の手によって進められました。彼等が目を付けたのが、銘文中の「国家安康」と「君臣豊楽」という8文字です。すなわち、「国家安康」とは家康の名を二分して祟りをなそうとする呪いであり、「君臣豊楽」とは豊臣家が主君となり世を楽しむという願いを込めたものだと言い出したのです。驚いた豊臣方は八方陳弁に努めますが、最初から豊臣家を嵌める積もりでいた徳川方が聞き入れる筈もありません。落慶法要が中止となったばかりか、大阪城の明け渡し、秀頼と淀殿の江戸移住といった更なる難題を投げかけられ、遂には開戦する以外に途が無くなりました。そして、大阪冬の陣、夏の陣の二度の戦いを経て豊臣家は滅亡するに至ります。


この事件の余波として、清韓はその地位を追われ、彼が住んでいた天得院は取り壊しとなりました。しかし、問題とされた鐘は鋳つぶされる事無くそのまま残され、現在にまで伝わっています。この事は、鐘銘事件は実は全くの言い掛かりに過ぎなかったという何よりの証拠でしょうね。清韓は豊臣方の高名な人物であり、世間への影響力を考えるとどうしても処分しなければならなかったのに対し、鐘そのものの存在は徳川氏にとってはどうでも良かったという事なのでしょう。本当に呪詛されたと思っていれば、残しておくはずがありませんからね。

方広寺を拝観すれば、この鐘楼の中にも入る事が出来ます。そして、一番上の写真にある問題の8文字も間近に見ることが出来ます。事件の主役であった豊臣秀頼や片桐且元の名も銘文の最後に刻まれているのが判りますよ。

(以下、淀殿の亡霊が出てきます。不気味と思う人はクリックしないで下さい。)

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2006.07.18

京都・祇園祭 ~雨中巡行~

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(菊水鉾)

祇園祭山鉾巡行の日は、梅雨が明けて夏晴れになる。かつてはそう言い慣わされていたものですが、何年か前に雨で順延になって以来、この伝統も怪しくなった様です。

2006年7月17日も朝から雨。降水確率は70%となっており、まず止みそうにはありません。この雨の中、巡行が決行されるのかどうか心配になったため、京都市観光協会に確認の電話を入れてみました。すると返事は順延はないとの事。今年を逃すと休日と巡行が重なるのは数年待たなければならないので、思い切って出かける事に決めました。

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(放下鉾。稚児人形に礼をさせていますが、どういう意味があるのでしょう?)

行き先は河原町三条の北東角。ここは少々遅く行っても場所が取りやすいのが取り柄です。到着は午前9時30分頃の事で、その頃には雨も弱くなっていました。少し端の方になってしまったものの、無事に最前列が確保できて一安心です。警備のアナウンスでは、先頭の長刀鉾が四条河原町で辻回しを行っているところとの事でした。

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ところが暫くすると雨脚が強くなり始め、長刀鉾が到着する頃には、まさに土砂降りの雨となってしまいました。アーケードの下に居た私たちも、傘を差さないとずぶ濡れになってしまうほどの降り方です。そんな中で、健気に歩いていた占出山のお稚児さん。これだけ降ると傘もまるで役に立たないですね。

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この日の楽しみの一つが、蟷螂山のカマキリを見る事でした。この人形はカラクリ仕掛けになっていて、羽根を広げたり、鎌を振り上げたりと、ユーモラスな動きを見せてくれるのです。ところが、この日は雨除けの為にビニールが被されており、動きを見るどころか、その姿もはっきりと見えない状況でした。仕方が無いとはいえ、ちょっと残念でした。

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河原町三条に陣取るもう一つのメリットが、この綾傘鉾の棒振り囃子を見られる事です。綾傘鉾は、元治の大火で失われて以来長く途絶えていたのですが、昭和48年に棒振り囃子として復活し、同54年から綾傘を伴って巡行に復帰しました。緩急のリズムに乗ったダイナミックな踊りで、山鉾巡行に華を添えてくれています。

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さしもの雨も、掉尾を飾る南観音山が過ぎていく頃には小降りになっていました。傘を差しながらその後ろ姿を見送る人達です。今年の人出は過去最高を記録した昨年よりも大幅に減ったとの事ですが、この雨ではむしろ良く集まった方だと言えるでしょう。雨の祇園祭は、得難い貴重な体験だったとも言えそうです。

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2006.07.17

京都・祇園祭 2006山鉾巡行@夏っちゃんぶろぐ

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(放下鉾)

祇園祭の最大の山場である山鉾巡行に行ってきました。朝からの雨でどうなる事かと心配していたのですが、順延されることなく、予定通り実施されました。

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(船鉾)

我が家が陣取ったのは、一昨年と同じ河原町三条の交差点東北角。ここは辻回しを見ることは出来ませんが、比較的場所が取りやすいのが取り柄です。

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(鶏鉾)

今日の雨はかなり激しく、一時はアーケードの下に居ても濡れる程でした。その降りしきる雨の中、傘も差さずにずぶ濡れになって頑張った鉾町の方々、本当にご苦労さまでした。

見物客は、やはり雨のせいでしょう、一昨年よりは少なめでした。でも、気温は23度とこの季節にしては異例の涼しさで、過ごしやすかったのは嬉しかったですね。あちこちに用意されていた団扇には、今日はさすがに誰も手を出していなかったのが印象的です。

とりあえずは速報まで。詳細については明日以降アップします。


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2006.07.15

京都・祇園祭 宵々々山@夏っちゃんぶろぐ

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(放下鉾の駒形提灯)

京都に夏の訪れを告げる祇園祭。その夜の祭りである宵山が始まりました。今年は7月14日から16日までの間、各山鉾で祇園囃子が奏でられ、鉾町では秘蔵の屏風を飾る屏風祭が行われます。我が家では、その初日にあたる14日、いわゆる「宵々々山」に出かけてきました。

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普通は京阪にしろ地下鉄にしろ、四条通から行く事が多いのですが、今回は混雑を避ける為に三条通から鉾町へと向かいました。その甲斐あって、普段あまり見ることの無い山と出会う事が出来ました。その一つが黒主山。六歌仙の一人大伴黒主が桜の花を眺める姿を現す人形が飾られている山です。四条通から入ると、あまりの混雑の為に、ここまで北上する前に引き返してしまう事が多いのですよね。

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多くの場合、宵山では山の人形は各鉾町の会所に飾られており、路上で見ることが出来るのは台車だけです。その会所で飾られていた橋弁慶山の人形。右が牛若丸、左が弁慶ですね。五条大橋で二人が出会った場面を表しているのですが、去年の大河ドラマを思い浮かべた人も多かったのではないでしょうか。巡行中には遠過ぎてよく判らない人形も、こうして飾られてあるとその精巧さが窺えてなかなか興味深いです。

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宵山の醍醐味は、何と言っても祇園囃子の生演奏です。この時期、京都を歩けばそこかしこから聞こえてきますが、やはりテープと生とでは大違い。宵山という舞台装置も大切ですね。この音色を聞いただけでもここに来て良かったなと思えます。(写真は北観音山。)

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宵山ならではの光景の一つが、少女達の粽売りです。声を揃えて、「粽どうどすか~。」と呼び込みをする姿は、宵山の風情の一つですね。ここ霰天神山では、路地の奥の会所内に設けた売り場から、スピーカーを通して少女達の声を表通りに流していました。私も可愛い歌声に釣られて入ってみたのですが、お母さん方が背後で見守る中、彼女たちが一生懸命に粽売りに励んでいました。

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ここで買った粽は、一束600円。大体どこで買っても同じ値段の様ですね。ちなみに、この粽は家の入り口に飾って魔除けとするためのもので、中には何も入ってはいません。ところが今年から黒主山で、中身の入った粽を売るようになったそうです。何でも、何も知らずに買って帰った人から「中身が入っていない」と苦情が来る事が多く、その対策らしいですね。粽と言っても普通の「ういろう」ではなく生麩を主体としたものらしいですが、残念ながら今回は買っていません。1本千円と少し高めですが、これから行かれる方、話の種にどうですか。

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そして、こちら南観音山では、粽と共に縁起物のロウソクの呼び込みをしていました。宵山にロウソクの灯火はよく似合いますね。

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写真は、放下鉾周辺の様子です。大通りから一歩入った鉾町の辻は、どこも人波で溢れていました。14日は比較的空いている事が多いのですが、やはり週末に重なった事が大きかったのでしょうね。鉾町の人達が、14日からこんなに混んでいるのは初めてだと囁き合っていたのが印象的でした。

ところで、三条から入った事で困ったのは、南北の室町通と新町通が、共に北行き一方通行になっていた事です。(四条通から北側。南側は今回行っていないので判りません。)一筋違いに南行きにしておいてくれればと思うのですが、実際に南へ向かおうと思えば、烏丸通か西洞院通へ出るしかありません。このため、全ての山と鉾を見て回ろうと思うと、何度となく烏丸通か西洞院通へ出ては南に下るという事を強いられます。このため、これから行こうと思っている人は、あらかじめ地図をよく見て、効率の良いルートを考えて置く事をお勧めします。ちなみに、行き当たりばったりの我が家は、同じ場所を3回も通る羽目に陥りました...。

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宵々々山とあってか、烏丸通はまだ余裕がありました。ほとんどの人が背中を向けていのは、一度鉾町から抜けて、南を目指している人が多いからです。これが今夜、明日ともなれば、人人人で埋まって身動きが取れなくなる事でしょうね。

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こちらは四条通です。さすがに人は多いですが、ここもまだ余裕があります。それでも16日の夜には、きっと人波で埋まってしまう事でしょうね。

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昨年は昼間見た蟷螂山。細工物の人形は見えにくいですが、やはり夜の風情には格別なものがあります。

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屋台のお面を見ると、子供がまだ小さかった頃に買ってやった事を思い出します。当時は一枚800円だったけど、今は幾らになっているのでしょうね。あんまり高くて買う人が少なかったのでしょう、お面を付けて歩いている長男に向かって、そこの「オーグリーン、もう一枚買ってくれ!」と店の人から声を掛けられたのが昨日の事の様です。

人波に押され、汗だくとなった宵山でしたが、やはりその熱気と風情は格別なものがありました。何度行ってもワクワクする、京都を代表するお祭だけの事はありますね。


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2006.07.09

京都・洛東 方広寺 ~功名が辻~

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豊臣秀吉が威信を賭けて京都に建築した大仏殿、それが方広寺です。創建は1586年(天正14年)の事で、現在の京都国立博物館の北側に築かれた大仏殿は、奈良の東大寺をもしのぐという巨大な規模を誇りました。豊臣政権は、後白河法皇ゆかりの三十三間堂を「千手堂」という方広寺の山内寺院にしてしまうという程の権勢を示し、東山七条一帯をその寺域としていた様です。その寺域の南限を示すものがこの三十三間堂の南大門。現在は三十三間堂の施設として管理されていますが、元は方広寺の南大門として築かれたものです。
現地に行くと、三十三間堂に隣接はしていますが、境内とはまるで関係のない取って付けたような位置にあり、予備知識が無ければ何のための門なのか理解に苦しむ事でしょうね。この門の西側にはやはり方広寺の遺跡である太閤塀が続いており、今では三十三間堂の南側の土塀としての役割を担っています。

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方広寺南大門は巨大ではあるけれど、その割に質素な感じがするのは、大仏殿が西向きに建っていた事に起因します。すなわち、西こそが正面にあたり、それを示す様に方広寺の西には正面通と呼ばれる通りが残っています。南大門は正門ではなく、脇門だったのですね。では、その西側にあった正門がどうなったかと言うと、今は東寺の南大門になっています。

東寺の元の南大門は1868年(明治元年)に火災にあって焼失してしまい、1895(明治28年)に方広寺の西門を譲り受けて現在の南大門としたのでした。当時の方広寺西門は半ば崩れかけており、崩れ門と呼ばれていたと言いますから、相当な荒れ方をしていたのでしょうね。

方広寺の西門はその南大門と比べると、全体の造りは似ていますが、一回り以上大きく、また意匠も施されていて、正門らしい風格を備えてたと言えそうです。

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方広寺の巨大さを物語る遺跡に、巨石を並べたこの石垣があります。秀吉が配下の大名に命じて運ばせたもので、かつての豊臣家の栄華が偲ばれる遺跡でもありますね。この石垣にも様々な伝説が残っており、その一つとして、「泣き石」があります。

石垣の北の外れにある石は一際巨大で、白い筋があって涙を流している様に見える事から「泣き石」の別名があります。この石は前田利長が運んだのですが、「泣き石」の言われとしてその外見とは別に、負担の重さに利長が泣いたからだとも、あまりの重さに人扶達が泣きながら牽いたからだとも言われています。あるいは、夜中に泣くという伝説もあるそうですね。

今は見る影もなく衰えてしまった方広寺ですが、かつての繁栄を物語る遺跡を尋ねてみるのも面白いですよ。次週は、大仏殿の遺跡と鐘銘事件についてお伝えします。

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2006.07.02

京都・洛東 養源院 ~功名が辻・伏見城遺構~

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京都東山七条に、今年3月にオープンしたばかりのホテルハイアットリージェンシー京都があります。そのきらびやかなホテルの南隣に佇む古寺が養源院。今は知る人ぞと知るという存在になっていますが、江戸期には徳川家の菩提寺として隆盛を誇った寺でした。

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養源院は、元はと言えば、豊臣秀吉の側室淀殿が、その父浅井長政の追善の為に建立したのが始まりです。長政の21回忌にあたる1594年(文禄3年)5月の事で、寺名は長政の院号から採られています。豊臣氏が建てた寺が徳川家の菩提寺になったというのは奇妙な気がしますが、これには淀殿の妹、お江(崇源院)の存在が関係しています。

養源院は1619年(元和5年)に火災によって焼失してしまうのですが、これを再建したのが徳川秀忠の妻であった崇源院でした。1621年(元和7年)の事で、既に豊臣氏が滅んだ後の事だったのですが、崇源院にとっても長政は父にあたり、豊臣氏縁の寺と言えども秀忠が拒む理由は無かったのですね。これ以後、養源院は徳川家の菩提寺となり、歴代将軍の位牌を祀る様になりました。

再建にあたっては、伏見城の中御殿を移設して本堂としました。そしてその際、関ヶ原の戦いの折りに伏見城を守備し、落城にあたって自刃して果てた鳥居元忠以下の将兵達が、最期の時を迎えた廊下の床板も運び込み、ここで供養する事になりました。しかし、彼等の血が染みこんだ床板を足で踏みつける事は憚られたため、天井材として用いる事とし、この事から養源院は血天井の寺としても知られる様になります。

いま養源院を訪れると、案内人が竹竿を持って天井の染みの跡を指し示し、これが鳥居元忠の血痕、これが別の武将の手の跡といった具合に説明してくれます。どこまで本当なのかは判りませんが、聞いているとだんだんそんな風に見えてくるのが不思議ですね。

なお、伏見城縁の血天井の寺は京都に5カ所あって、以前に紹介した正伝寺もその一つです。

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養源院には、元忠達の霊を慰めるために描かれた、俵屋宗達筆と伝わる十二面の襖絵と八面の杉戸絵があります。中でも面白いのが杉戸の象や麒麟、獅子の絵で、本物を見たことが無い宗達が聞き伝えの知識を元に想像で描いたものですから、実物とはかけ離れた何ともユーモラスな姿をしています。でもそこは宗達ですから、デフォルメされた中にも計算され尽くした美しさがあり、この絵を見ているだけでいつまでも飽きが来る事がありません。

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江戸期を通して、徳川家の菩提寺としての格式を誇った養源院でしたが、明治以後は急速に衰えます。徳川家の庇護を失った上、寺域の東側は東大路通の建設で削られ、北側もまた賀陽宮邸の建設の為に大きく後退しました。このため、かつてあった大書院、小書院、茶室等が失われ、現在の縮小した姿となっています。

往時の壮大な寺観こそ失いましたが、境内には町中とは思えない程に楓樹や桜が植わっており、春の花や秋の紅葉はなかなか見事です。「功名が辻」で伏見落城が描かれるのは多分秋も深まった頃の事でしょうから、紅葉を見がてら、悲運の武将達を偲びに訪れてみてはいかがでしょうか。

養源院の南は法住寺、西は三十三間堂に隣接しており、さらに東には通りを隔てて智積院もあって、このあたりだけで一日過ごす事も可能ですよ。

(養源院は屋内撮影禁止のため、内部の写真はありません。)

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