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2006年6月

2006.06.24

京都・洛北 大徳寺塔頭 総見院 ~功名が辻~

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本能寺の変から100日後にあたる1852年(天正10年)10月11日、京都・大徳寺において信長の葬儀が行われました。主催したのは、山崎の合戦で見事主君の敵を討った羽柴秀吉です。

葬儀は11日から15日にかけて行われ、大徳寺のみならず各派の僧侶5千人が参加し、警備の兵力だけでも3万人を動員するという空前の規模のものでした。この大々的な葬儀は彼が信長の後継者たる事を天下に示し、北陸に拠る柴田勝家を牽制するためのものであったと言います。

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信長の遺体は遂に発見される事なく終わっていたのですが、この葬儀にあたって秀吉は香木を刻んで仏像を造らせ、棺に収めました。そして、その棺を「金紗金襴で包み、それを金銀で装飾した御殿に収め、御殿を輿に乗せて」蓮台野にまで運びました。輿を担いだのは信長の4男で秀吉の養子にとなっていた於次丸、それに父が信長と乳兄弟であった池田輝政など縁の人々でした。秀吉は太刀と位牌を持って後に従っています。蓮台野でこの棺が荼毘に伏された時、炎が吹き上がる事に香薫があたりに漂ったと言いますから、心憎いまでに計算され尽くした演出だったのですね。

ただ、秀吉の推挙により織田家を相続し、本来は喪主たるべき地位にある三法師君は叔父の信孝の養育下にあり、その信孝は勝家に擁立されて秀吉と対立関係にあったため、この場には臨席していません。信長の葬儀とは言っても肝心の織田家とは縁の薄いものであり、秀吉の政治的演出のためのものであったと言われる所以ですね。

(この項は司馬遼太郎著「新史 太閤記」を参照しています。)

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総見院は、信長の一周忌に合わせて、秀吉によって建立されました。開祖は千利休の師匠として知られる古渓宗陳であり、当時高僧とされていた一人です。秀吉は信長の木造を刻ませてこの寺に収め、供養料として銭一万貫、米千石、維持費として銀千枚と録50石を寄贈しています。

総見院は大徳寺の中でも壮大な規模を誇った塔頭だったのですが、明治の廃仏毀釈の波を受けて破壊され、一時は廃寺同然となっていました。現在の建物は大正年間に再建されたものですが、正門と土塀、それにこの鐘楼だけは破壊を免れ、創建当時のままの姿で残されているのだそうです。

現在の総見院には、信長の木像のほか織田家の人々の供養塔が現存しているとの事ですが、普段は非公開の寺であるため、私はまだ見た事がありません。毎年春と秋に特別公開が行われているので、機会を見つけて拝観して来ようと思っています。

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秀吉に依る信長の葬儀と総見院の建立の後、大徳寺に塔頭を持つ事が戦国大名達にとってのステータスとみなされる様になり、彼等に依る寄進が相次ぐ様になります。三好氏の聚光院、細川氏の高桐院、小早川氏の黄梅院、黒田氏の龍光院、前田氏の芳春院などがそうで、この三玄院も、浅野幸長、石田三成、森忠政の三大名の寄進によって創建されました。大徳寺は信長の葬儀のおかげで、その後の隆盛がもたらされたのだとも言えそうですね。

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この大徳寺にも日々大勢の参拝客が訪れていますが、修行を重んじる非公開寺院が多い事もあってか俗化を免れ、広い境内は静謐さが保たれています。大徳寺は、公開塔頭の名園を巡りつつ、かつ落ち着いた境内を静かに散歩する事もできる、京都の中でも指折りの素敵な場所の一つです。

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2006.06.17

京都・洛東白川 光秀首塚 ~功名が辻~

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1582年(天正10年)、天正天王山の戦いで羽柴秀吉に敗れた明智光秀は、坂本城を目指して落ちていく途中、小栗栖の藪の中で土民に襲われて命を落とします。光秀の首は秀吉の手に渡り、本能寺に晒されたとも、粟田口の刑場に晒されたとも伝わります。

その光秀を供養するために建てられたのが、三条白川橋を下がったところにある光秀祠です。いつ誰の手で建てられたのかは定かではありませんが、ここには本尊として光秀の木像が祀られており、併せて遺骨も納められていると言います。

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その祠の前にあるこの石塔が光秀の首塚とされるものです。この石塔の言われについては諸説があり、三条粟田口に晒された後、供養の為にこの石碑が建てらていたのを、この地に住んでいた明田氏(明智氏の縁者?)がもらい受け、自宅に移して菩提を弔ったという説、敵の手に渡さぬ為に小栗栖から腹臣が運んで逃げたものの、夜が明けたためにこの地に埋めたとする説などがあります。さらに、当初は今よりもう少し東よりにあったのですが、後に現在の場所に移されたのだとも言います。

光秀の首が晒された場所にも冒頭に記した様に二通りの説があり、また首は偽物という説からさらには生存説まであって、どれが正しいのかはまさしく藪の中です。

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「長存寺殿明窓玄智大禅定門」(光秀の戒名)と記されたこの石碑は、明治36年に歌舞伎役者の市川団蔵によって建てられました。かつてこのあたりに寄席があり、団蔵はそこで光秀の役を演じていた縁から、この碑を建てたのだと言います。役者が実在の人物を演ずるにあたって、あらかじめその人の墓参りをするという話は良く聞きますが、わざわざ墓碑を建てるというのは尋常ではないという気がします。それほど光秀の役に入れ込んでいたのか、余程の大当たりを取ったのかしたのでしょうか。それにしても、こんな場所に寄席があったというのも驚きではありますね。

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この祠を管理されているのが、白川沿いにある餅寅という和菓子屋さんです。祠への道の入り口にあり、横に長い「一」の字を看板にされています。光秀の家臣がこの地に首を埋めたとする伝承は、この店に伝わる資料に記されているものなのだそうですね。

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ここで売っているのが、「徒然なるままに」でも紹介されている「光秀饅頭」。黒糖を使った粒餡を薄皮でくるんだ饅頭で、桔梗の紋所が刻印されています。あっさりとした甘さで、なかなかの美味でした。

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そして、去年に訪れた時から気になっていたのが「みな月」です。6月限定、なのかどうかは判りませんが、白、黒糖入り、抹茶入りの3種類が売られていました。今回食べてみたのがこの黒糖と抹茶。どちらも甘さ控えめなのは光秀饅頭と同じで、もちもちとした食感も良く、今まで食べたみな月の中でもかなり美味しい部類に入ると思います。

光秀祠の場所は判りにくいのですが、この餅寅を目標にすると判りやすいかも知れません。地図はこちらのページを参照して下さい。

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2006.06.15

京都・洛中 天使突抜通 ~五條天神宮~

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京都の洛中、西洞院松原下がるにある五條天神宮。以前にも義経と弁慶が出会った場所として紹介した事がある神社です。

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その神社の西にある道が、この天使突抜通。「てんしつきぬけどおり」と読むのですが、京都ならではの変わった通り名の一つです。何やら怪しげな気配の漂うこの奇妙な名の由来は、五條天神宮にありました。

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普通、天神社といえば菅原道真公を思い浮かべますが、この神社は平安京遷都の時に弘法大師によって大和国宇陀郡から勧請されたもので、道真公とは関わりがありません。この神社の祭神は少彦名神(スクナヒコナノミコト)であり、少彦名神は別名、手間天神とも天子様とも呼ばれます。そのことから、この神社は創建当初は天使の宮(天使社)と呼ばれ、後に五条天神宮と改められています。往時は東西4町、南北5町という広大な神域を有する大社でした。

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天使突抜通は、豊臣秀吉の京都改造の時に、五條天神宮=天使社の境内を貫通して作られた道です。すなわち、天使社の境内を突き抜ける道だった事からこの名が付けられたのでした。何とも直接的な名付け方で、由来を知ってしまうと味気ない気もしますね、...。

今は天使突抜通と言うより東中筋通と呼ばれる事が多くなっているそうですが、地名として天使突抜1丁目から4丁目までが現存しており、初めて目にする人はやはり驚く事でしょうね。ただし、ロマンを求めて現地を訪れたとしても、民家が密集しているごくありふれた生活道路でしかありませんので、過度の期待は抱かれぬ様にして下さい。

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2006.06.13

京都・寺町二条 八百卯~檸檬の店~

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四条通から三条通にかけてはアーケードに覆われ、寺町京極と呼ばれる賑やかな寺町通も、御池通を越えると急激に細くなり、北行き一方通行の道になっています。その寺町通が東から来た二条通と出会う角に4階建ての小さなビルが建っています。そのビルの一階にある店が八百卯。梶井基次郎の檸檬で有名になった果物屋さんです。

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檸檬の中で八百卯は、「決して立派な店ではなかったが、果物屋固有の美しさが最も固有に感じられた」と紹介されています。しかし、現在はガラスの向こうに果物が並べられているものの、外見からはあまり果物屋らしさは感じられず、うっかりするとそれと気付かずに通り過ぎてしまうかも知れません。2階はフルーツパーラーYAOUになっていて、ここの果物を楽しむ事が出来る様になっています。

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二条通に面したショウウインドウには、檸檬に関連した記事と共に沢山のレモンが飾られており、ここが檸檬の店である事を誇示しています。

梶井基次郎は、1901年(明治31年)に大阪で生まれています。長じて後、京都の三高で5年間を過ごした事があり、その時の経験からでしょう、「檸檬」や「ある心の風景」といった京都が舞台となった作品を残しています。彼は1932年(昭和7年)に31歳の若さで亡くなるまで20編あまりの小編を著しましたが、生前は文壇から大きく認められるには至りませんでした。彼の作品が評価される様になったのはその死後の事で、現在では昭和の古典とまで評され、根強い愛読者を持っています。

「檸檬」が発表されたのは1924年(大正13年)の事でした。当時梶井は東京大学に学ぶ学生で、掲載されたのは「青空」という同人雑誌です。現在では彼の代表作となっているこの作品ですが、残念ながら当時はまるで注目される事はなかった様です。透徹した判りやすい文章でありながら、どこか重苦しい雰囲気が押し包む彼の作品群の中にあって、「檸檬」は比較的軽快に読め、ラストはレモンを爆弾に見立てるというユーモアで締めくくられています。そのあたりの親しみ易さが、今も多くの人から愛されている所以なのかも知れませんね。

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「果物はかなり勾配の急な台の上に並べてあって、その台というのも古びた黒い漆塗りの板だった様に思える。何か華やかな美しい音楽の快速調の流れが、見る人を石に変えたというゴルゴンの鬼面-的なものを押しつけられて、あんな色彩やあんなヴォリウムに凝り固まったという風に果物は並んでいる。」

作品の中でこう描写された果物の陳列は今は見ることが出来ません。その代わりと言う訳でも無いのでしょうけど、こんな華やかなディスプレイがありました。これは本物の果物ではなく、全部作り物のミニチュアなのですけどね。もしかしたら、この一文を意識したコーナーなのかも知れないという気もします。

作品の中で、主人公はレモンを一個だけ買って店を出ます。それを真似する人が多いのでしょうね、店の中には一個づつ丁寧にラップで刳るんだレモンが沢山置いてありました。私もやっぱり買って帰ったレモンが一番上の写真で、1個280円と少し高かったのですが、とても良い香りがする上質なレモンでした。

この後丸善に行けば完璧だったのでしょうけど、残念ながら丸善は昨年で店を閉じてしまっています。書棚にレモンを置く悪戯をしてみたかったのですが、それも永遠に叶わない事となってしまいました。名作の舞台が無くなってしまったのは、やはり寂しい事だと思わずには居られません。

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2006.06.12

京都・寺町御池 本能寺 ~功名が辻~

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1582年(天正10年)6月2日に起きた本能寺の変で灰燼に帰した本能寺は、その10年後にようやく再建の緒に就きました。しかし、その直後に秀吉から現在の場所への移転を命じられます。これはなにも本能寺だけをねらい打ちにした訳ではなく、秀吉による京都改造の一環として寺町を形成する為だったのですが、棟上式の直前まで漕ぎ着けていた本能寺にとっては大迷惑な話だった様です。

1592年に再建された本能寺でしたが、その後京都を襲った天明の大火、蛤御門の変による大火に遭遇し、二度に渡って炎上してしまいます。現在の本堂が再建されたのは1928年の事で、その最後の再建の際に、能の字の右側に火に通じるヒの字が二つ重なっている事は縁起が悪いとして、「去」に変えて使う事が倣わしとされました。以来、本能寺は火災とは無縁のまま現在に至っているとの事です。

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その本能寺の境内にある信長公廟は、信長の三男である信孝の依頼によって建てられた信長の墓です。信長の遺体は見つからなかった訳ですが、この墓には本能寺の焼け跡から集めた骨が収められていると言われます。

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信長の墓とされているものは、この他にも大徳寺総見院、蓮台阿弥陀寺、大雲院など、数多くの場所に存在しています。それぞれの場所に言われがあり、遺体が見つからなかった以上どれが本物という事は言えないのでしょうけど、一人の人間にこれほど多くの墓があるという事は、やはり織田信長という人物の大きさを物語っているのでしょうね。

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信長は京都に自分の館を持たずに、上洛の都度に市内の大寺を宿としていました。本能寺が宿とされたのは少なくとも4回あったとされ、その為に寺域が広げられたとも言います。信長の一行が来ると本能寺の僧は追い出されたそうで、家財道具一式を持って近在の寺へと身を寄せていました。寺の幹部はともかくとして、一般の僧にとってはかなり迷惑な事態だった様ですね。

本能寺の変が何故起きたのかについては、ドラマの様に光秀の単独犯とする説、信長に危機感を抱いた朝廷が黒幕だったとする説、秀吉との共謀があったとする説、足利義昭の謀略とする説など、古来唱えられてきた説は枚挙に暇がありません。徳川家康との共謀とする説もあり、天王山の戦いの後も生き延びた光秀は家康の元に身を寄せ、南光坊天海と名を改めて謀臣としての辣腕を振るい、「黒衣の宰相」と呼ばれたとも言われます。光秀贔屓の私としては魅力のある説ではありますね。

本能寺の変は日本史上に残る最大の謎の一つとして、真相は解明される事なく、永遠に語り継がれて行くのかも知れません。

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2006.06.11

京都・洛中 本能寺跡 ~功名が辻~

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大河ドラマ「功名が辻」も、いよいよ前半のクライマックスである「本能寺の変」が放映されます。それに合わせて、かつて明智光秀が織田信長を襲撃した「本能寺」の跡を訪れてきました。

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本能寺は開創以来、幾度も移転を繰り返しているのですが、本能寺の変があった当時は、概ね四条堀川の近くにありました。写真の碑が建っているのは蛸薬師通油小路を少し下がったところで、かつての本能小学校の跡地にあたります。

石碑の位置

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(写真は石碑の近くから北向きに見た油小路通)


この当時の本能寺の位置には諸説あったのですが、本能小学校の廃校に伴う発掘調査により、南は蛸薬師通、東は西洞院通、西は油小路、北は六角通に挟まれた、約120m四方の寺域を持っていた事が確定しました。現在の碑がある場所は、本能寺を含めたこの付近の町を取り囲む惣構えの南の堀の跡だった様です。当時の町は自治体制を取っており、横行する野盗の襲撃や戦の被害から自らの生命と財産を守るために、町の周囲を塀や堀で取り囲んでいたのですね。本能寺の堀や塀と町の惣構えは、事実上一体化していたと見られています。

明智光秀の有名なセリフに、「本能寺の堀の深さは」というつぶやきがありますが、発掘の結果によれば1.5mの深さを持っていた様です。ちなみに、幅は4m以上あったそうで、野盗程度の襲撃を防ぐには十分な規模だった事でしょうね。しかし、1万5千もの本格的な軍勢を相手に防ぐに為には、残念ながら役には立たなかった様です。

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本能小学校の跡地は、現在堀川高校の本能学舎と、京都市の本能特養老人ホームになっています。かつての本能寺は、この北側に広がっていた訳ですが、今では住宅や染色工場、マンションなどが建ち並んでいるだけで、当時を偲べるものは元本能寺町という地名以外には何もありません。

事変があった当時には、このあたりは町はずれで、周囲には田畑が広がっていたと言います。老ノ坂を越えてきた光秀の軍勢は、今よりずっと目標を見つけやすかった事でしょうね。水色桔梗の旗が本能寺を取り囲んだ光景を思い浮かべるには卓越した想像力が必要ですが、ドラマの放映を機に、稀代の魔王・信長が最期を迎えた地を歩いてみるのも面白いかも知れませんよ。

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