ねこづらどき版「新選組!!土方歳三最期の一日」16
駆け込んでくる伝令。薩長軍が赤川台場に攻め込んだとの知らせに、立体地図の駒を動かす大鳥。目を合わせてうなずき合う榎本と土方。
新選組本陣。赤川台場が奪われたと島田に知らせる相馬。このま見ているだけで良いのかと問いかける相馬に、ここを守れというのが命令だ、敵が町に攻め込んでくるまで一歩も動くなと答える島田。
負傷を押して、足を引きずりながら入ってくる伝令。すでに四稜郭も権現台場も落ち、新政府軍は真っ直ぐ五稜郭に向かっていました。しかし、大鳥にとってはあらかじめ想定した作戦どおりであり、戻ってくる兵を集めて決戦に備えると言って部屋を出て行きます。これで心おきなく突っ込めるとほくそ笑む土方。
戻ってきた兵を出迎える大鳥。彼はこれからが本当の戦であると兵達を激励して回ります。
ついに崖の上にまで達した新政府軍。大砲の砲身もここまで引き上げられて来ました。
「四稜郭とは、函館の防衛を目的として、旧幕府軍によって築かれた堡塁です。場所は五稜郭の北東3kmの地点にあたり、旧幕府軍の敗色が濃くなった明治2年4月下旬に完成しました。五稜郭と同じく西洋式築城法に沿って築かれており、東西100m、南北70mの規模を持ち、幅5.4m、高さ3mの胸壁を備え、周囲には幅2.7mの空堀が掘られていました。四方に突角の付いた、蝶が羽根を広げた様な形をしている事から四稜郭と名付けられています。工事には、200人の兵士と付近の住民100人が従事し、昼夜兼行の作業でわずか数日の内に終了したとされます。しかし、5月11日の新政府軍の猛攻の前に、数時間で陥落してしまいました。現在は史跡として整備保存されています。」
会議室。新政府軍の動きは早く、五稜郭のすぐ近くにまで迫っていました。これで敵の本陣は本隊から切り離された、勝負だと言って笄を地図上の敵の本陣に突き立て、決然と部屋を出ていく土方。固唾を飲んでその後ろ姿を見送る榎本と大鳥。
いつの間にか夜が明けています。朝日の射す自室に戻った土方。刀を刀掛けに置き、ゆっくりと机の方に歩いていきます。机の上にあるのは、何やら文字の書かれた帳面と彼の写真。その下にある箱の蓋を開けると、中から新選組の羽織が出てきました。かつて、天寧寺の近藤の墓に供えた羽織の片割れです。その羽織を手に持ちながら、近藤に向かって、悪いが、側に行くのはもう少し先になると断る土方。そして、羽織を引き裂き鉢巻きとして頭に結びます。
「机の上にあった帳面は俳句帳の様ですね。俳句は土方の趣味として知られており、豊玉という雅号を持っていました。画面に映っていたのは次の四句です。
白牡丹 月夜月夜に 染めてほし
人の世の ものとは見えぬ 桜の花
しれば迷い しなければ迷わぬ恋の道
来た人に もらいあくびや 春の雨
これらの句の巧拙は判定出来ませんが、もしかしたら蝦夷地に来てからも、時間を見つけては俳句をひねっていたかも知れませんね。ただし、これらの句は浪士組に応募して京都に上る前に「豊玉句集」としてまとめられたものであり、蝦夷地に来てから詠まれたものではありません。
彼が実際に蝦夷地で詠んだものとして伝わるのは、俳句ではありませんが辞世とされる和歌があります。
よしや身は 蝦夷が島辺に朽ちぬとも 魂は東(あずま)の君やまもらん(両雄逸事)
これには別バージョンが存在します。
たとい身は 蝦夷の島根に朽ちるとも 魂は東の君やまもらん(両雄史伝捕遺)
わずかの違いですが、こちらの方が一般に伝わっていますね。
この辞世は、写真と共に市村鉄之助に託されたもので、彼の手によって日野の佐藤家に届けられました。なお、羽織の鉢巻きは、このドラマにおける創作です。」
五稜郭の玄関。兵を率いて出陣する土方。彼は、狙いは奸賊薩摩、黒田了介の首一つと叫び、全軍に狙いを徹底させます。
函館郊外。大きく横に広がって進軍して来る新政府軍。
間道をひた走る土方の一隊。
崖の上で据え付けられる大砲。
新選組本陣。敵はまだ遠いが、いつでも出陣出来る様に用意しておけと命ずる島田。その声に応じて、配置に着く者、弾薬を運ぶ者、刀の手入れをする者。
野を覆い尽くす様に進軍する新政府軍。そのすぐ側の間道を、新政府軍の進軍方向とは反対側に疾駆する土方軍。
大砲に装填される弾丸。銃を構えた兵士達。指揮官が蹴り落としたのは、昨夜土方が残していたランプ。新政府軍が登っていたのは函館山でした。砲口が睨んでいるのは函館の町。
背後に敵が迫っているとは知らずに、北の方角を睨んで待ちかまえる新選組。
函館山山頂。ゆっくりとかざされる指揮官の鞭。俯角に構えられる小銃の隊列。振り下ろされる鞭と同時に発砲される大砲と小銃。叫び声を上げて突進を始める新政府軍。さらに打ち続けられる大砲。
突然頭上から襲ってきた砲声と喊声に驚く島田達。山の上から敵襲と知らせる相馬。陣内に炸裂する大砲の弾。なだれ込んでくる新政府軍。不意打ちに遭いながらも、果敢に迎え撃つ新選組の隊士達。敵と渡り合う蟻通と山野。小銃が顔をかすめてもひるまず旗を掲げ続ける尾関。引くなと叫び続ける島田。屋根から飛び下り様、次々と敵を倒していく相馬。怪力ぶりを発揮して、敵をなぎ倒していく島田。その目が捕らえたのは、敵に包囲され苦戦する蟻通の姿。板壁が邪魔で救いに行けない島田。蟻の字と叫ぶ島田の目前で敵に討たれる蟻通。蟻の字と叫びながら、男泣きする島田。
間道を進み、敵の本陣を見通せる場所までやってきた土方の一隊。土方は隊列を止め、敵陣の様子を窺います。土方の予想どおり、この本陣は襲撃を全く予期しておらず、のんびりと行軍の訓練をしている無防備な状態です。土方がしてやったりとばかりに刀を抜き、突撃の下知を下そうとしたその時、思わぬ方向から砲声が聞こえてきました。その方向に目を向けた土方が見たものは、函館山から発せられた砲煙。その光景を呆然と見つめていた土方は、やがてそれが意味する処を悟ります。そして、函館山とつぶやく土方。轟く砲声と幾つも発せられる砲煙。それを凝然と見つめる土方。
五稜郭。敵は函館山の背後に上陸し、一晩掛けて越えてきたらしいと大鳥。まるで鵯越だと、呆然とつぶやく榎本。不意を突かれた新選組は弁天台場に退いた、函館の町を取られたら終わりだと肩を落とす大鳥。信じられないと動揺を隠せない榎本。彼はふと地図に突き立った笄を見て、土方はどこに居ると叫び声を上げます。
間道を単騎で駆け戻る土方。
五稜郭の城外に出て戦況を見る榎本。轟く砲声と、絶え間なく砲煙が上がる函館山。そこに帰って来た土方。土方は榎本に戦況を聞き、大鳥が函館に援兵を差し向けていると聞くとそれで良いと答え、自ら新選組の救援へと向かいます。その土方に縋り、行ってはならんと止める榎本。馬上から榎本に笑いかけ、計算が狂った時こそ俺の出番だと言い放つ土方。昔の仲間を助けたら、その足で黒田の首を取ってくると言う土方に、死んではならんぞと念を押す榎本。もちろんだと応える土方。彼は函館に向かい掛けた馬の脚を止め、榎本に死ぬなと語りかけます。生き残ってこの大地を開拓しろ、そして何万頭もの牛を飼いチーズを作れ、そんな事はあんたにしか出来ないと言って微笑みかける土方。呆然と土方を見つめる榎本。きびすを返して函館に向かう土方。
朝霧が漂う中、函館への道を疾駆する土方。途中で日の丸を掲げた函館への援軍に追いつき、彼等を追い越してさらに駆け続けて行きます。
一本木関門。敗走して来る旧幕府軍の兵士達。そこに到着した土方。土方を見て集まって来る兵士達。口々に函館山から奇襲された事を訴える彼等を、俺が来たからには負けはせんと励ます土方。新選組を見なかったかと問いかけますが、帰ってきたのは悲観的な返答です。しばし、黙然とする土方。
その時、海から聞こえてきた轟音。激しく爆発して、火柱を上げる一艘の船。轟音と共に沈んでいくのは長州の船でした。その光景を前に、あれは我が軍の勝利の印、今こそ敵の本陣に突っ込む時、土方歳三に付いてこい!と刀をかざして叫ぶ土方。その言葉で志気を取り戻し、鬨の声で応える兵士達。その先頭に立ち、土方が進撃を開始しようとしたまさにその時、一発の銃声が響き渡ります。土方の腹を貫いた一発の弾丸。苦痛に歪む顔。馬から崩れ落ちる土方。驚いて彼の回りに集まる兵士達。道の向こうに現れた新政府軍。一斉に放たれる銃弾。次々に倒される旧幕府軍の兵士達。新政府軍の突撃に、為す術もなく崩れ立つ旧幕府軍。負傷して動けず、取り残された二人の兵士。襲いかかる新政府軍。まさに斬られると覚悟したその時、突然倒れる新政府軍の兵士達。驚く二人が目にしたのは、刀を手にした土方の姿。早く逃げろと叫ぶ土方。さらに襲いかかる新政府軍を、次々に斬り倒していく土方。鬼神の様な強さを目の当たりにした新政府軍の指揮官は、震えながら何者だと問いかけます。
「新選組副長、土方歳三。」
その名を聞き、白昼に妖怪と出会った様に恐れおののく新政府軍の兵士達。さらに前に進もうとした土方でしたが、腹の傷は思いの外深く、もはや一歩も動けませんでした。「榎本さん、すまん」とつぶやき、仰向けに倒れる土方。薄れていく意識の中で土方が最後に見たものは、処刑された日の近藤の笑顔。「歳」と呼びかける近藤に、笑顔で「勝っちゃん」と応える土方。
五稜郭。悲痛な表情で、土方が倒れた事を榎本に伝える大鳥。終わったとつぶやき、目を瞑る榎本。叫びながら、立体地図の函館山を叩きつぶす大鳥。
放たれる艦砲射撃。遮蔽物も無いまま、砲撃に晒される旧幕府軍の兵士達。
喚きながら、地図上の駒を払いのける大鳥。
さらに炸裂する砲弾。逃げまどう兵士達。
机ごと地図をひっくり返す大鳥。流れ落ちる水。散らばった模型。泣き崩れる大鳥。その肩にそっと手を置き、無言のまま望楼に登る榎本。窓から蝦夷の大地を見つめる榎本。その表情は、溢れる悲しみを必死に堪えているかの様です。
「5月10日未明、新政府軍は飛龍と豊安丸の二隻の船に分乗し、函館山の西側にあたる寒川という地点に上陸を開始しました。その数、およそ一千。ドラマでは全くの予想外の事とされていましたが、実際にはあらかじめ想定されていた事であり、新選組の一部隊がここを守っていました。しかし、その数は10数人に過ぎず、なお悪い事に見張りを怠っていたために敵に気付いた時には上陸が終了した後で、大軍を前にしてあっという間に敗走してしまったのでした。新政府軍は、ドラマにあった様に急峻な斜面を登り切り、山麓を守っていた旧幕府軍の背後から襲いかかりました。これに対して、旧幕府軍側も山を上って迎撃に努めたのですが、衆寡敵せず、弁天台場への退却を余儀なくされています。蟻通が命を落としたのは、この函館山における戦いにおいてだとも、弁天台場においてだとも伝えられています。
土方による奇襲はこのドラマにおける創作ですが、その標的であった黒田了介は、実はこの函館山攻撃軍の中に居ました。実際に奇襲を仕掛けたのは土方ではなく、黒田の方だったのですね。数に勝る新政府軍でしたが、作戦面においても旧幕府軍を凌駕していました。
ただし、実際の土方もまた、富川ではありませんが、同じ方角にあたる七重浜方面に出撃しています。この日土方は、孤立した弁天台場を救うべく、額兵隊以下の部隊を率いて五稜郭から出撃しています。彼が一本木関門に至ったとき、沖合いで戦っていた長州の朝陽丸が、味方の砲撃によって爆発炎上し、轟音を上げて沈没する場面に出くわしました。兵士達は快哉を叫び、土方もまたこの機を逃すなと大喝して志気を鼓舞し、自分はこの門にあって引く者を斬ると言って部隊を前進させています。丁度この頃、回天を脱出した乗員が、ボートに分乗して海岸に上陸しようとしていました。土方は、この上陸を援護するために関門を離れて七重浜方面へと向かったものと考えられています。そして、彼等を収容し五稜郭へと送り出した後、もう一度一本木関門へと引き返したと思われるのですが、このあたりについては、立川主税戦争日記に「七重浜に敵後ろより攻め来たる故に、土方是を指図す」と記されています。おそらくドラマの土方の行動は、この記術を反映して創作されたものなのでしょうね。
土方の最期の様子については、諸説があってはっきりとはしません。明確な目撃者がおらず、残っている記録はすべて伝聞に依るもので、なおかつそれぞれの記述に差異があるため、研究者によって言うところはまちまちです。
まず、最期を迎えた場所に諸説があり、異国橋、鶴岡町、一本木の3カ所が伝えられています。
異国橋とするのは島田魁日記、中島登覚書などで、土方は一本木を過ぎて異国橋まで進撃した時に、銃弾に当たって死亡したと記されています。
次いで、鶴岡町としているのは日野の佐藤家に伝わる文書で、土方に従っていた沢忠助から聞き取ったものとされますが、原文には一本木鶴岡町とあります。忠助は土方の最期の様子も伝えており、銃弾に撃たれた土方は、やられたと言って馬から落ち、忠助が駆け寄った時には息絶えていたと記されています。
一本木とするのは、立川主税戦争日記、函館戦記、安富才助書簡などで、関門において指揮を執っている時に、銃弾に当たって死亡したとされています。
これらのうち、現在有力とされているのが一本木であり、ドラマでもこの説を採用していましたね。その最も大きな理由は、島田、中島らは当日は弁天台場にあって直接土方の消息を知る事が出来ず、後日聞いた話を元に記録を残したものと考えられる一方、安富や函館戦記の著者である大野右仲らは、少なくともこの日の土方の側に居た人物であり、その記術も具体性に富んでいるからです。他の資料と一致する所が多いのも信用に値する理由の一つですね。
土方を襲った銃弾については、流れ弾とする資料がある一方、狙撃されたとする資料もあって、必ずしも明確ではありません。穿った説として、降伏するにあたって、徹底抗戦を主張する土方の存在が邪魔と考えた榎本が、背後から狙撃させたのだとするものもあります。もしかしたら本当に後方の味方が放った銃弾が命中した可能性も無くはないですが、それが意図的なものであったとは考え難いですね。なぜなら、この時はまだ榎本には降伏の意思は無かったと思われるからです。
土方の最期を見たという人物は、佐藤家の聞き書きにある沢忠助以外には見あたらせないのですが、可能性としては、沢に書簡を託した安富才助がこの日土方の付添を勤めており、すぐ近くで目撃したかもしれないと考えられます。彼等が明瞭に書き残してくれていたらという気はしますね。資料の上での土方は、腰に銃弾を受けて死んだと記すものがほとんどで、おそらくは即死であったと考えられています。ですから、ドラマの様に最後にひと暴れをして死んだと言う事は無かったでしょうね。また、最後に新選組副長と名乗ったとは資料の中には見えず、おそらくは司馬遼太郎の「燃えよ剣」あたりにおける創作ではないかと思われます。ただ、ファンとしては痺れる一言ではありますよね。
ドラマにおける「榎本さん、すまん。」というセリフは創作ですが、最後に「すまん」と言い残して死んだとする説はあるそうですね。私は読んだ事が無く、また大本の出典は不明らしいのですが、「函館戦争」という資料にあるそうで、ネット上の情報に依れば次の様な内容です。一本木で銃弾に倒れた土方の下に相馬と島田が駆けつけて、彼の身体を抱き上げ近くの民家に運び入れました。土方はそこで「すまん」と一言残して息絶えたのだそうです。島田も相馬もこの頃は弁天台場に居たので一本木に駆けつけられる筈も無いのですが、仮にこの説が事実だとすると、この言葉は助けに行けなかった仲間に対して発せられたものなのでしょう。ドラマのセリフは、この説を踏まえて榎本に対する言葉として書き変えたものなのでしょうね。
最後のセリフ「勝ちゃん」は、言うまでもなく、本編における近藤の最後のセリフ「歳」に対応したものです。このあたりの脚本の巧みさは素晴らしいものがありますね。このセリフによって、続編と本編が見事に融和して完結しています。
さて、この時の土方の心境についてですが、資料に沿って彼の行動を追っていくと、決して自殺的な突撃を行った訳ではなく、危機に陥った味方を救うべく、最善の働きをしている事が判ります。彼は一本木関門にあって敗走してくる味方を押し止めるべく指揮していたのであり、そこには崩れ立つ味方を立て直して、反撃に移ろうという意思が見て取れます。この土方が死に場所を求めて戦っていたと解釈するのは、どうにも無理がある様に思えるのです。少なくとも死にたがっている男が取る行動では無いですよね。やはり彼は、将たる自分に課せられた使命を、最後まで貫こうとしていたのだと考えたいですね。
土方の死を聞いて呆然と蝦夷の大地を見つめていた榎本ですが、実際には土方が倒れたと聞いた後、今度は自分が砲台を救いに行くと言って出陣しようとしています。しかし、周囲から指揮官はここに居なくては行けないと説得され、代わって副総裁の松平太郎が一本木関門の奪還のために出陣して行きました。松平は一本木の周辺で果敢に戦ったのですが、ついに勝利を得る事が出来ずに兵を引いています。」
弁天台場。苦闘を続ける新選組。もうすぐ土方が助けに来る、それまで踏ん張れと声を枯らして叫ぶ島田。そこに現れた尾関と永井。彼等から土方が撃たれた事を聞いた島田ですが、彼は信じようとはしません。背後で聞いているのは、傷付いて横たわる山野とそれを介抱する相馬。土方は死にはしないと叫び、敵陣に向かって駆け出そうとする島田。必死に止める相馬。命を粗末にするなと一喝する永井。生きて、新選組を受け入れなかった世がどんなものになるのかを見届けよ、それが土方が託した仕事だと説く永井、その言葉に聞き入る島田、相馬、尾関、山野の面々。そこに、官軍の使者がやってきたという知らせが入ります。さてと、降伏して来るかと言って出ていく永井。悲痛な表情になる4人。最後の気合いを込めて、新選組の旗を掲げる尾関。
土方の命を受け、多摩に向かう市村鉄之助。間道を通っているのか、道無き道を進んでいます。そのとき、背後に轟く砲声。思わず振り向いた鉄之助ですが、懐に入れた土方の紙包みに触れて、土方そして仲間への思いを断ち切り、踵を返して先を急ぎます。
道もない、果てしのない荒野。彼方から駆けてくる鉄之助。躓いて転んだ鉄之助の懐から飛び出した紙包み。その中にあったのは土方の写真。その写真を拾って、再び紙包みの中に収めた鉄之助は、多摩を目指して一人荒野を駆けて行きます。
「弁天台場が降伏したのは、5月15日の事でした。これに先立ち、13日に降伏を勧める新政府軍の使者が台場を訪れています。台場の総督である永井は、五稜郭の榎本の意思を確認しない事には進退を決められないと回答し、その為の使者として相馬主計が選ばれました。翌14日、相馬は五稜郭に赴き、榎本の意思が徹底抗戦にあると確かめて台場へと引き上げています。しかし、台場の現状は函館山からの砲撃と、海からの艦砲射撃に晒され続け、また弾薬もほとんど底を尽いたという有り様で、これ以上持ち堪える事が出来ませんでした。永井は榎本の返答にも係わらず降伏と決し、15日に恭順を受け入れて武器弾薬を差し出しています。
五稜郭はなおも降伏を拒否して戦い続けましたが、18日に至って榎本は黒田了介による説得を受け入れ、ようやく開城と決しました。ここに、1ヶ月半に及んだ函館戦争は終結を迎えます。
降伏後、榎本は2年10ヶ月を牢獄で過ごした後罪を許され、函館で敵として戦った黒田が次官を務める北海道開拓使に出仕します。ここで彼の夢であった蝦夷地の開拓に従事する事が出来た訳ですね。その後、駐露公使として樺太・千島交換条約の締結に尽力した後、外務大輔、海軍卿、逓信大臣、外務大臣、文部大臣、農商務大臣を歴任しています。この経歴を見ると、如何に有能な人物であったかが窺い知れますね。ドラマで語っていた農業の振興に関しては、徳川育英会育英黌農業科(現在の東京農業大学)を創設し、人材の育成に寄与しています。土方が残したチーズを作れという言葉は、間接的に実現されたと言っても良いのかも知れませんね。
市川鉄之助が土方の命を受けて函館を後にしたのは4月15日の事でした。そして、日野にたどり着いたのは7月の初旬とされます。鉄之助は3ヶ月を掛けて、蝦夷から多摩までの逃避行を乗り切ったのでした。その鉄之助が土方の死の様子を知ったのは、翌年の事でした。安富才助の命を受けて函館を脱した沢忠助が、安富の書簡と土方の遺品を携えて日野を訪れたのです。沢は、ずっと近藤の馬丁をしていた人物とする説もありますが、恐らくはその忠助とは別人で、鉄之助と同時期に入隊した若い隊士だったと思われます。鉄之助と同じく両長附属となり、函館では土方の世話役をしていました。土方の最期を見届けた可能性のある数少ない人物である事は、先に記したとおりです。この時、忠助が日野に届けた遺品が、仙台侯から賜ったという刀の下げ緒でした。土方が榎本と共に仙台城に登城して恭順の不可を説いた際に、藩主自ら下げ渡したものと伝えられています。
さて、「新選組!!土方歳三最期の一日」のレビューもようやく終わりの時を迎えました。思っていたよりも随分と長くなってしまいましたが、最後までおつきあい頂いた方には厚くお礼申し上げます。
このレビューを書くにあたって何度もビデオを見直しましたが、見れば見るほど良く出来たドラマだという事が判ります。わずか1時間半の間に数多くの史実を取り入れ、それを踏まえつつ全く新たなドラマとして組み立てた三谷幸喜の力量には、ただただ感服するばかりです。新選組フリークを自称する私ですが、このドラマによって改めて新選組と土方歳三の魅力を教えられた様な気がしています。
至福の時間を過ごさせて頂き、本当にありがとうございました。」
この項は、木村幸古「新選組日記」、新人物往来社「新選組銘々伝」、「新選組資料集」(「隊士名簿に見る新選組の変遷」、「中島登覚書」、「函館戦記」、「立川主税戦争日記」)、歴史読本「1997年12月号」、別冊歴史読本「新選組の謎」、「新選組を歩く」、「新選組日誌 コンパクト版 下」、河出書房新社「新選組人物誌」、講談社「日本の合戦 榎本武揚と函館戦争」、光文社文庫「新選組読本」を参照しています。
| 固定リンク
「新選組」カテゴリの記事
- 今日は「新選組の日」だそうですが(2012.02.27)
- 京都・洛中 海鮮茶屋 池田屋はなの舞 居酒屋編(2011.08.22)
- 新選組血風録の風景~胡沙笛を吹く武士 その6~(2011.06.03)
- 新選組血風録の風景~胡沙笛を吹く武士 その5~(2011.06.02)
- 新選組血風録の風景~胡沙笛を吹く武士 その4~(2011.06.01)
この記事へのコメントは終了しました。
コメント
昨日からの録画の続きを見て、今、見終わりました。
それにしても、「なおくん」さんは詳しく描写されてますね。
机の上に俳句があったなんて、今初めて気がつきました。
そして、新選組の羽織を鉢巻にして最期まで戦ったという事にも気がつきました。
「なおくん」さんの記事を読まなかったらこのすばらしい演出を見落としていたという事ですね。気づかせてもらって、ありがとう。
投稿: merry | 2006.01.26 13:15
merryさん、こちらこそ丁寧なコメントを頂きありがとうございました。
私も俳句については一度目には気付いていませんでした。
普通見逃してしまう様なところにこだわっているのが、
このドラマの凄いところですね。
そういうところを見つけながらレビューを書くのは、
とっても楽しい作業でしたよ。
こういう作品に出会えるのは、なかなか無い事ですよね。
投稿: なおくん | 2006.01.26 21:54