ねこづらどき版「新選組!!土方歳三最期の一日」6
五稜郭について
鷲の木沖に集結した旧幕府軍は、1868年(明治元年)10月21日に蝦夷地への上陸を開始します。彼等の最初の目標は五稜郭。この城は北辺の守りとして幕府が築いた西洋式の城郭で、1864年(元治元年)に新造されたばかりでした。銃火器を中心とした近代戦を想定して設計されており、その独特の5角形の平面形は、城内から敵に向けての射撃を行うにあたって死角を作らないための配慮から来ています。ただし、当初の設計はなかなかの出来だったのですが、資金難からあちこちで設計変更が行われ、実際には防御力に難のある城になっていた様ですね。そして何より、海から近いという事が最大の欠陥でした。築城当時は想像もしていなかった事なのですが、その後の武器の進歩の早さはすさまじく、海からの艦砲射撃が城内に届いてしまう様になっていたのです。しかもなお悪い事に、海上からこの城の矢倉が遠望出来て、丁度良い射撃の目標になった様ですね。出現するのが遅すぎた城と言えるのかも知れません。
陸軍副隊長の土方と総督守衛新選組
旧幕府軍は、五稜郭攻略のために軍を二つに分け、大鳥圭介が率いる伝習士官隊、伝習歩兵隊、遊撃隊、それに新選組が内陸の本道を進み、土方歳三が率いる額兵隊、衝鋒隊、陸軍隊が海沿いの間道を進みました。ここに見る土方のポジションは旧幕府軍における一方の将であり、新選組という枠には収まりきらない存在になっていた事が判ります。実際に土方は陸軍副隊長と名乗っていたという記録もあり、陸軍では既に大鳥に次ぐ序列が与えられていた様ですね。
一方、島田魁日記にはこの時土方に同行した部隊として、「総督守衛新選組数人」と言う記述があり、自らが隊長を務めていたと記されています。どうやらこの時期には、新選組隊士から成る土方の親衛隊の様なグループが存在していた様ですね。その正確な人数や隊士の名、与えられた任務の詳細は判っていませんが、土方と新選組の縁は全く切れたという訳ではなかった様です。全くの私見ですが、もしかしたら島田達の方から志願したのかも知れないという気もしますね。
この頃、五稜郭には新政府が任命した函館府知事清水谷公考が入っていましたが、榎本軍の上陸を聞くと青森へと撤退したため、旧幕府軍は10月26日に無血入城を果たしています。その翌々日の10月28日、土方は休む間もなく、松前藩の攻略のために、額兵隊、彰義隊、陸軍隊、それに守衛新選組の合わせて500人の兵を率いて五稜郭を出立しました。そして11月5日に松前城を攻略し、さらに逃亡した松前兵を追って江差へと進撃します。11月16日、江差において、函館から回航して来た開陽の艦砲射撃によって松前兵は潰走し、翌日土方の軍がさらに松前兵を追いつめて降伏へと導いています。
開陽の沈没
ここまでは快進撃と言って良かった旧幕府軍ですが、ここで予期せぬアクシデントに見舞われます。松前兵に対して艦砲射撃を行った11月16日、江差沖に停泊していた開陽が暴風雨に巻き込まれ、座礁した挙げ句に沈没してしまったのです。さらに、開陽を救おうとした神速もまた巻き込まれて沈没し、榎本艦隊は貴重な2艦を一瞬にして失ってしまいました。特に開陽はこの時期最強の軍艦と謳われていた船で、一艦だけで日本の制海権を握れるとまで言われたほどの存在でした。榎本艦隊の核であり、蝦夷に新政権を築き上げようという榎本の自信の根拠ともなっていた戦力を失った事は、その後の旧幕府軍に対して暗い影を投げかけて行く事になります。
函館政権の樹立
11月25日、松前藩を攻略した土方が五稜郭に凱旋します。そして翌12月15日、旧幕府軍は蝦夷の平定と新政権の樹立を宣言し、百発の祝砲を放って門出を祝いました。函館市中の家々には神灯が飾られたとも言います。
この時榎本達は入札(選挙)によって閣僚を選出しており、その結果は次のとおりでした。
総裁 榎本武揚
副総裁 松平太郎
海軍奉行 新井郁之助
陸軍奉行 大鳥圭介
函館奉行 永井玄蕃
陸軍奉行並函館市中取締裁判局頭取 土方歳三
入札は2回行われ、1回目に閣僚候補を選出し、2回目で役職が決められたと言われます。1回目の得票は、榎本が156点、大鳥が86点だったのに対し、土方は73点でした。旧幕府の重鎮だった松平定敬が55点、板倉勝静が26点だった事に比べると土方が如何に高得点を集めたかが判り、この入札は旧来の慣習に囚われる事無く、実力本位で行われた事が窺えます。
同時に各隊の守備の分担も決められ、新選組は函館市中の取り締まりに当たるよう命じられています。
以下、続きます。
この項は、新人物往来社「新選組を歩く」、「新選組銘々伝」、「新選組資料集」(「中島登覚書」)、木村幸比古「新選組全史」、「新選組日記」、「史伝 土方歳三」を参照しています。
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コメント
初めて五稜郭に行った時、榎本武揚と並んだ土方歳三の写真を見て驚きました。
新選組には全く無知だったので、この北の大地にまで来ていた事に驚いたのです。
そして、オーラーのようなものにすっかり惹かれてしまいました。
投稿: merry | 2006.01.23 21:20
あの写真からは、鬼の副長や、
北の大地で不敗を誇った武将といったイメージは、
まるで湧かないですよね。
近代的で知的な風貌からは想像出来ない、
凄みを秘めた不思議な姿です。
この写真の果たした役割は本当に大きなものがありますね。
投稿: なおくん | 2006.01.23 22:17