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2005.12.15

義経 49の3

kiyomizu0512151

義経 最終回 「新しき国へ」その3

ドラマでは義経を死に追いやった事で打ちひしがれていた頼朝ですが、実際にはその直後に奥州を征伐し、さらには翌年に上洛を果たして、絶頂の極みに居たと言えます。そして1192年には征夷大将軍に任じられ、名実共に武家の棟梁へと上り詰めます。

こうして築き上げた源氏嫡流の栄華でしたが、そう長く続くものではありませんでした。まず、頼朝の死は1199年(建久9年)1月13日に訪れます。正史では、その前年の12月17日に、相模川に架けられた橋の供養に出かけた帰り道で落馬した事が原因で病に罹かり、そのまま回復する事なく亡くなったとされています。ところが別の説では、その供養の帰り道に、八的が原という所で頼朝に滅ぼされた義経や行家達の亡霊が現れて頼朝と目を合わせ、さらには稲村崎では海から安徳天皇の亡霊が現れて頼朝を呪い、その事が原因となって病の床に臥したと言われています。またこれらの他にも、川に落ちて溺死したとする説や、暗殺されたとする説まである様です。いずれにしても、あまり良い死に方はしていない様に思えますね。

頼朝の死後は、その嫡男である頼家が将軍職を継ぎましたが、政治の主導権を巡って北条氏を始めとする御家人達と対立し、権力闘争に敗れた挙げ句に将軍職を剥奪されて修善寺に幽閉されてしまいます。そして、遂には北条氏の放った刺客に暗殺されるという非業の最期を遂げるに至っています。

頼家の後は弟の実朝が継ぎますが、1219年(建保7年)1月27日に、親の敵と信じた頼家の子公暁によって暗殺されてしまいます。さらにはその公暁もまた殺害されるに至り、源氏嫡流の血は頼朝の死後20年にして途絶えてしまう事になりました。

では、義経の他の兄弟はどうなったでしょうか。

まず、義経と共に平家と戦った範頼は、義経の死後も頼朝の側にあって重用されていました。ところが、1193年にあった曾我兄弟の敵討ちの時、頼朝が殺害されたという誤った情報が鎌倉に伝わり、うろたえる政子に対して、後の事はこの範頼におまかせあれと言った事から、頼朝に謀反の疑いを掛けられる事になります。そして、修善寺に幽閉されたあげく、頼朝の命を受けた梶原景時らによって攻め滅ぼされるという最後を迎えています。

義経と母を同じくする2人の兄のうち、今若は醍醐寺にて出家して全成と名乗っていましたが、頼朝が挙兵すると寺を抜け出してその麾下に駆けつけています。膂力に優れていたところから悪禅師と呼ばれていましたが、出家の身ゆえか戦いには参加していないらしく、華々しい功績はありません。しかし、駿河国阿野庄を領地として貰っている事から、それなりの働きはあったのでしょうね。その領地にちなんで名乗った阿野全成として、歴史上は知られています。その後、政子の妹である保子と結婚し、その保子が実朝の乳母となっていますから、鎌倉幕府内でもそれなりの地位を確保していたようですね。しかし、1203年(建仁3年)に突然頼家から謀反の疑いを掛けられて常陸国に配流となり、その地で頼家の命を受けた八田知家によって殺害されています。

もう一人の兄、乙若は、園城寺にて出家して円成と名乗っていましたが、やはり頼朝の挙兵と同時に麾下に駆けつけ、義円と改名しています。彼は兄の全成とは違って出家の身ながら武将として働いており、1181年(治承5年)に行家が起こした尾張墨俣川の戦いに、鎌倉からの援軍の将として派遣されています。しかし、このとき夜間の奇襲作戦を平家軍に見破られて大敗を喫し、義円は敵に囲まれて戦死してしまっています。

一方、義経と対立関係にあった頼朝の側近達はどうなったでしょうか。

まず梶原景時は、頼朝の生前はその側近として権勢を振るい、頼家の代になってもその補佐役としての地位を確保します。しかし、その専横ぶりから和田氏ら有力な御家人と対立するところとなり、1199年(正治元年)に景時排斥を求める66人の御家人の連判状が頼家に提出されるに及んで、政権の座から追放されてしまいます。その翌年、頼家に代えて甲斐源氏の武田有義を将軍に祭り上げようと画策し、その工作のために一族と共に上洛しようとしたのですが、その途上で幕府軍と戦闘になって敗れ、戦死しています。このとき、その子景季もまた運命を共にしました。

時子と共に頼朝を支えた時政は、鎌倉幕府成立後も側近として重要され、頼朝の死後、御家人として初めて国司に任命されるなど栄華を極めます。そして、2代将軍頼家を廃して実朝を擁立し、自らは初代執権となるに至ってその権勢は頂点に達しました。しかし、その後有力御家人である畠山重忠を討ち、さらに実朝を廃して正室牧の方の娘婿にあたる平賀朝雅を将軍職に据えようと画策するに及んで、そのあまりの独走ぶりを危ぶんだ義時と対立するところとなります。牧の方と対立していた政子もまた義時と同調し、息子と娘相手の政争に敗れた時政は、牧の方と共に強制的に出家させられ、政権の座から追われる事となります。そして、その後は政治の表舞台に返り咲くことなく、生涯を終えました。

初代侍所別当となった和田義盛は、頼家の代にライバルであった梶原景時を排斥する事に成功し、次いで北条義時と結んで北条時政を政権の座から追放した事で、盤石の地位を得たかに見えました。しかし、和田氏の勢力を危険視した義時の仕掛けた政争に敗れ、1213年に挙兵して幕府軍と戦い、一族と共に滅び去るに至っています。

ドラマに出てきた人物では、政子と義時、それに大江広元がその後の鎌倉幕府を支えていく事となります。義時は2代執権として鎌倉幕府の基礎を築き上げ、政子は初代将軍婦人として、また将軍の母として義時を支えました。また、広元はそのブレーンとして生涯重用され続けました。そして、北条氏は執権として鎌倉幕府の終焉まで政権の中枢にあり、広元の家系は一時没落したものの、戦国大名となった毛利氏へと受け継がれて行きます。

以上がドラマの後日談です。

さて、長かったドラマも最終回を迎えました。

最後を迎えた義経は、白馬となって大空に飛び立って行きました。この演出は、銀河から白馬となって生まれ、源平の世を駆け抜けた後、再び銀河に帰っていくという、オープニングのコンセプトに沿った収束でしたね。彗星のごとく出現し、流星のごとく消えていった義経の生涯を表すには、相応しい演出だったと思います。


このドラマを通しての感想は、主役の義経よりもむしろ平家の人々の方が良く描かれていたという事ですね。これは、そもそもの原作が「平家物語」であった事に起因していると思います。義経は後からの付け足しという印象が最後までぬぐえず、せっかくの面白い原作を生かし切れていなかったのが勿体なかったという気がします。原作に沿って清盛と時子をじっくり描き込んでいけば、ずっと素晴らしいドラマに仕上がっただろうと思うのですけどね。どうせ義経を主役とするなら、いっそのこと、途切れ途切れに参考にしていた村上元三の「源義経」を原作にしていた方が、もっと面白いドラマになったのではないだろうかと言ったら、幾らなんでも言い過ぎかな。

そして、最後までよく判らなかったのが、義経の目指していたという新しい国の姿です。わずかに交易によって国を富ませたいという事のほかは具体的な提案は無く、まさしく夢の中の国としか言い様がないあやふやなものでしかありませんでした。概念とすら言えない理想像でもって頼朝と決別し、郎党達を死に追いやったというのは、どう見ても無理があったと思います。穿った見方をするならば、最後に義経が見た福原の姿とは今の神戸市であり、彼の目指した国は今の世に実現されているという事なのでしょうか。清盛と義経を強引に結びつけるというドラマのコンセプトから派生した演出だけに、どこまで行っても不自然さが残ったのは残念な気がします。

とはいえ、一年間を通して十分に楽しませて頂きました。主役が滝沢秀明と知った時は大丈夫かと思ったものですが、とても丁寧にかつまじめに役作りに取り組み、今までにない義経像を作り上げたと思います。一ノ谷や壇ノ浦での合戦のシーンもなかなか様になっていましたしね。どうせなら、平家物語の義経の様に甲冑をとっかえひっかえして、見た目も楽しませてくれるともっと面白かったと思うのだけどなあ。
他の登場人物で良かったのは三輪明宏の鬼一法眼ですね。今思い返しても実に個性的な面白い役柄で、最後の方に再登場して楽しませてくれたのは嬉しい演出でした。また、渡徹也の清盛はさすがの貫禄でしたし、勝村政信の重盛像も良く描かれていました。史実とはいえ、2人とも早くに居なくなったのは残念でした。
ドラマの場面において印象に残っているのは、五条大橋と壇ノ浦の戦い、そして静の舞でしょうか。それぞれやや過剰ではありましたが、義経という伝説上の人物を描くには丁度良い演出だったと思います。特に五条大橋は幻想的で、いかにも義経伝説の世界らしく見事に描かれていました。いっそのこと、全編あの乗りで描いても良かった様な気がするなあ...。


丁度一年前、ここに連載するに先だって義経ゆかりの地を巡り始めたのが懐かしく思い出されます。冒頭の写真は、その一つである清水寺から京都の町を望んだ景色です。幼い牛若を抱いた常磐が逃げ込み、また義経記において義経と弁慶が出会ったとされる場所ですね。見えているのは、ドラマで義経の隠れ家があったとされていた三条のあたりです。さらに、その奥の方には義経生誕の地とされる紫野周辺も写っています。ここから見るとビルばかりで、当時の面影はほとんど無いですけどね。

記事を書くにあたって、あらかじめ平家物語をおさらいしておいたつもりだったのですが、いざ始めて見ると如何に勉強不足であるかを痛感させられる事になりました。また、ドラマの質がその前の「新選組!」とはあまりにも違うこともあって、最初は記事のコンセプトが定まらず、どう進めたものかと迷いに迷ったものです。それでもなんとか続けようと様々な文献を読み直している内に、結果として平家物語の世界を何度も巡って来た様な気がしています。書けたものはつたない文章でしかありませんでしたが、私的には義経の生涯を堪能する事が出来たと思っています。

最後に、一年間当ねこづらどきの「義経」におつきあい頂き、本当にありがとうごさいました。

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