ねこづらどき版「新選組!!土方歳三最期の一日」 山野八十八と蟻通勘吾 京都から函館まで戦い抜いた隊士達
まずは、山野八十八から。
山野八十八は、子母澤寛が著した「新選組物語」の中の「隊中美男五人衆」の一人として登場します。それによると、山野は加賀金沢の脱藩とあり(英名録では加賀大聖寺)、年齢は21か22位、愛嬌のある可愛らしい顔つきで色白だったと形容されています。そして、いつもにこにこしていて怒った顔を見せた事がなかったとも記されていますが、それでいて剣の腕はなかなかのものでした。隊中きっての使い手であった平山五郎を相手に10本のうち6本は取ったとあり、「どうもおかしい、山野は不思議な剣術だ。」と平山をして言わしめたとされます。
その腕の冴えを思わせる事件が、「浪士文久報国記事」の中に出てきます。文久3年8月(日不詳)、四条堀川の米屋に3人組が押し込み強盗に入ったという知らせがあり、直ちに5人の新選組隊士が現場に駆けつけました。この時の隊士が、永倉新八、斉藤一、平山五郎、中村金吾、そして山野八十八です。実は、強盗は火縄銃を所持していたのですが、彼等はそれと気付かずに踏み込みます。その時、轟然と銃が放たれ、彼等は大いに驚いたのですが、ひるまずに戦い、見事に強盗達を討ち取っています。新選組側では、平山と中村が負傷し、平山の刀は刃切れがしたので研ぎに出したとあり、かなりの激戦が繰り広げられた様子が窺えます。またこの時の働きで、朝廷から褒美が下されるという名誉も受けています。
こうしてみると、山野はただの優男ではなかった事が窺えますね。元治元年6月5日に起きた池田屋事件の際には留守組に入っていたらしく参加していませんが、その年の12月に作成された行軍録では沖田総司が率いる一番隊に配属されており、その腕が買われての事だと思われます。
その後の山野についてはこれといった事績が伝わっていませんが、今に残る名簿などから伏見から江戸、そして会津から函館まで常に新選組隊士として在籍していた事が確認できます。新選組が終焉を迎えた函館においては、島田魁は脱走と記し、横倉甚五郎は函館に残留と記しており、平治2年5月15日に作成された最後の新選組隊士の名簿にはその名が見えません。おそらくは、終戦を迎える前に、何らかの形で脱出を図ったのか、あるいは隊に戻れない事態が発生したのかのどちらかでしょうね。
山野は、その後京都に戻り、河原町五条下がるにあった菊浜小学校の小使いをしてひっそりと暮らしていたと新選組物語にあります。この事は、資料からも裏付けられており、まず明治22年6月に、土方の甥である佐藤俊宣が近藤の首級の在処を探しに京都を訪れた時に、壬生の墓守から山野を紹介され、彼と会った事が記録されています。俊宣は山野からさらに島田魁を紹介されたと言い、彼等は互いに連絡しあっていた様子が窺えます。そして、山野が菊浜小学校に在籍していた事についてもその後の研究によって立証されており、明治29年7月に同校を退職した事が確認されています。なお、菊浜小学校は平成5年に廃校になっており、現在はその跡地は京都市の「ひと・まち交流館 京都」という施設になっています。
その後の山野については資料から追う事は出来ませんが、新選組物語ではさらに後日談があります。新選組がまだ京都にいた頃、山野は壬生寺の裏の「やまと屋」という水茶屋の娘と深い仲になり、新選組が江戸に引き上げる直前に女の子を産みました。山野は涙ながらに妻子を残して江戸に向かったのですが、彼が京都に戻って菊浜小学校に勤めている間に、その娘が祇園でも評判の芸者となっていました。このことは互いに知らなかったのですが、やがて父親を捜していた娘の方がとうとう見つけ出し、年老いた山野を引き取りました。山野はその後娘のおかげで安楽に暮らし、立派な着物を着て壬生に墓参りに訪れていたと記されています。
これが事実かどうかは確認する事が出来ませんが、願わくば物語にあるとおりに、孝行娘のおかげで幸せに暮らしたと思いたいですね。
続いて、蟻通勘吾について。
蟻通は讃岐高松の人で、山野とほぼ同じ時期に入隊した古参隊士です。元治元年の池田屋事件に参戦しており、17両の報奨金を貰っている事から、土方隊に属して後から駆けつけたものと思われます。また、行軍録では山野と並んで1番隊に配属されており、彼もまたかなりの腕の持ち主だった事が窺えます。
慶応2年9月12日に起きた三条制札事件では三番隊に属して参加しており、戦闘には至らなかったものの、報償として金千疋を受け取っています。
実は蟻通については、古参隊士でありながら逸話がほとんど伝わっておらず、この二つの事件以外には記すべきものが無いというのが実情です。彼がその後も新選組に在籍していた事は確かで、最後は函館で戦死したと伝えられています。その場所は、函館山山頂であったとも、弁天台場であったとも言いますが、定かではありません。また、その遺体は函館の大円寺に埋葬されたと言われますが、これも確認されていません。
逸話が伝わっていないという事は、反対に何を書いても許されるという事でもあり、題名は失念しましたが、蟻通が土方の側近として活躍する小説を読んだ事があります。大きな仕事はしないものの、土方の出す細々とした指示を的確にこなすという役回りで、小説を書くには都合の良い存在なのでしょうね。「新選組!」における尾関雅次郎もそれに近い存在ですが、今度のドラマでは蟻通がどんなふうに描かれるのか楽しみなところではあります。
なお、「新選組!!土方歳三最期の一日」には、後一人市村鉄之助が登場しますが、彼について書いてしまうとネタばれになる恐れが多分にありますので、ドラマ放映後にアップする事にします。
この項は、木村幸古「新選組日記」、新人物往来社「新選組銘々伝」、「新選組資料集」(「隊士名簿に見る新選組の変遷」)、別冊歴史読本「新選組の謎」、河出書房新社「新選組人物誌」、子母澤寛「新選組物語」を参照しています。
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コメント
おひさしぶりです
新撰組が小学校の小使いですか。意外に平凡・・・というか、かえって幸せだったかもしれませんね。
今年一年、ご訪問いただきありがとうございました。
よいお年をお迎えくださいませ(´ー`)/~~
投稿: mononoke | 2005.12.31 12:13
mononokeさん、お久しぶりです。
新選組は、官軍の恨みを直接買いましたからね、
顕職に就いた人はほとんど居ませんね。
島田魁や相馬主計の様に、誘いを受けても断った人もいましたし、
最後まで意地を貫いたという事もあったのでしょう。
でも、子供達にとっては、怖い小使いさんだった事でしょうね。
ねこづらどきは来年も続けますので、
またよろしくお願いしますね。
投稿: なおくん | 2005.12.31 12:32
山野八十八は美男子だったから、その娘もさぞかし美女で、祇園で売れっ子の芸者だったのでしょうね。
晩年は娘と一緒に幸せに暮らしたと思いたいですね。
投稿: merry | 2006.01.24 21:15
悲惨な結末を迎えた隊士が多い中にあって、ささやかながら幸せな晩年を送ったという八十八の逸話にはほっとするものがあります。
これは本当の事だったと信じたいところですね。
投稿: なおくん | 2006.01.24 23:09