義経 48の2
義経 第48回 「北の王者の死」その2
夜、伽羅の御所。秀衡を筆頭に一門が集う中、舞の奉納が行われています。その席で、どこか辛そうな秀衡と、それを気遣う義経。
舞の後の宴の座で、藤原家4代目に泰衡を指名する秀衡。万一、事が起きた時は藤原家を護るため、と言いかけた時、秀衡に異変が襲います。気を失って突っ伏した秀衡の周囲に集まる一門。
病の床に伏した秀衡と、跡継ぎに指名されたものの、当主としての自信が全く無いと嘆く泰衡。いざと言う時には力になるという国衡と忠衡に、手を付いて力を貸してくれと頼み込む泰衡。
1187年(文治3年)10月29日。秀衡危篤の知らせを受け、伽羅の御所に急行した義経。秀衡の床の周りには、泰衡、国衡、忠衡の兄弟を初めとして、藤原家の重鎮が集まっていました。彼等に向かって、この後は義経を将と仰いで一切をその下知に従い、白川の関より北に一兵たりとも鎌倉の兵を入れてはならぬと遺言を残す秀衡。そして、藤原家の仕置きは泰衡を中心に重臣が執り行う事、自分の死は出来る限り伏せよと命じ、最後に義経に後を託して息を引き取りました。享年66歳。北の王者の死でした。
「吾妻鏡に依れば、秀衡の遺言は、「義経をもって大将軍となし、国務を任せよ」というものだったとあります。また、玉葉では、「義経をもって主君となし、泰衡、国衡の兄弟はこれに仕えよとの遺言を受けた3人は、力を合わせて頼朝を襲う策略を巡らせた」と記されています。どちらも同じ様ですが、玉葉の方は具体的に頼朝と戦おうとしている点が異なりますね。
これらからすると、秀衡はドラマ以上に義経を重く用いようとしていた事が判ります。その理由は、泰衡と国衡の不仲にあった様ですね。玉葉にはこれに絡んで、2人の仲を修復するために、母の違う長男である国衡に、秀衡の妻、すなわち泰衡の母を娶らせたとあります。なんだかとても異様な話なのですが、兄弟であると共に、義理の親子でもあるという関係にしたのですね。奥州藤原家は、それほどまでにしなくては兄弟の仲が割れてしまう様な危機を迎えており、それを回避する意味もあって2人に義経を主君と仰げと遺言を残したのでしょうね。秀衡の苦衷が察せられる様な気がします。」
伏せていたにも係わらず、秀衡の死は広く知れ渡るところとなり、隠しきれなくなった泰衡は、文治4年正月に、秀衡の喪を発しました。
鎌倉、大倉御所。秀衡の死につけ込み、泰衡に対して義経を引き渡すよう院宣を奏上する頼朝。
院宣を受け、義経に対して、秀衡の遺言どおりに将と仰ぐと改めて言明する泰衡。
義経は平泉には居ないという泰衡からの返事を読み、御しやすい相手と見切る頼朝。泰衡を追い込む為に、さらに揺さぶりを掛けようとします。
度重なる義経引き渡しの院宣に、動揺の色が隠せない泰衡。
鎌倉方が全国の御家人を招集し奥州に向かったとの知らせに、恐れおののく泰衡。国衡、忠衡は義経に従うと改めて誓い、義経もまた一命を賭して戦い抜くと答えます。対鎌倉戦に一丸となる藤原家の中にあって、ただ一人恐怖に震えている泰衡。
鎌倉との戦を気遣う弁慶に向かって、兄頼朝と戦う事にもはや迷いはないと言い切る義経。
「平泉に対する鎌倉の圧力は、義経が来るより前から始まっていました。ドラマにあった様な京への貢ぎ物は鎌倉を経由せよという申し入れは文治2年の初めに行われたものであり、それを受け入れるという回答が4月24日にもたらされています。ところが、義経が奥州に入った後は、ふたたび鎌倉を経由せずに京に送られる様になった様です。このあたりから義経が平泉に迎えられた理由が判るような気もしますね。すなわち、義経の血筋、声望、そして軍事能力によって奥州を強大たらしめ、鎌倉に対抗して独立を保とうとしたのではないでしょうか。このことから、義経が奥州を頼ったのではなく、反対に義経が平泉に呼び寄せられたのではないかという見方もあるようです。」
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