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2005.12.23

ねこづらどき版「新選組!!土方歳三最期の一日」4

mibu0512231

母成峠からの敗走と天寧寺での宿陣

1868年(慶応4年)8月22日、母成峠から敗走してきた新選組は、城下の東にある愛宕山麓天寧寺に集合し宿営しました。恐らくは、福良から猪苗代に向かった土方から集合場所として指示があったものと思われます。ただ、島田魁日記では、将軍山にて土方の命を受けて出張したと記されており、土方はやはり母成峠まで行っていた可能性も捨て切れません。同じく島田魁日記には、この日土方自身は会津候と共に滝沢本陣にあって、戦闘の指揮を執っていたと記されています。また、先日紹介した近藤の墓碑を建てたのは、天寧寺に宿営していたこの時の事だったとする説もある様ですね。ただ、そんな時間的な余裕は無かった様に思われますが...。

またこれとは別に、斉藤一が率いる別の部隊が、会津城下の斉藤屋という宿屋に宿泊していた事が知られています。これは母成峠の乱戦の中、隊士は散り散りになって、各個別に退却したという事を示しているのでしょうね。二本松藩士が残した日記に母成峠から敗走する斉藤の部隊の様子が記されているのですが、山中を彷徨っている内に敵と遭遇して追尾され、危うい状況に陥りながらも、たまたま出会った会津兵の案内によって猪苗代にまで逃れ得た事が判かり、慣れない地で戦う新選組が苦闘する様子が窺えます。

尾形俊太郎の消息

この斉藤屋に宿泊していたのは、隊士25名と歩兵13名でした。主な隊士としては、斉藤のほか、島田魁、安富才助、久米部正親、近藤芳助、そして副長助勤を勤めた尾形俊太郎の名が見えます。ドラマでは近藤が処刑される前に隊を抜けた尾形でしたが、実際にはここまで一緒に戦っていたのですね。彼のこの後の行動については二つの説があり、中島登覚書で行方不明と記されている一方、横倉甚五郎名簿では若松城に残ったと記されています。新選組が城外に取り残された中、彼一人だけが城内に入れたという説には疑問が残りますが、いずれにしても新選組本隊と離れた事は確かですね。
尾形のその後の消息としては、そのまま会津で生涯を終えたとする説、東京に出て古閑膽次の名で警視局に勤め、斉藤とコンビ組んで密偵をしていたとする説、熊本に帰って地元の警察の剣道師範を務めていたとする説などがささやかれていますが、確かな事は判っていません。

土方の庄内行と彷徨する新選組

新政府軍が会津城下に入った1868年(慶応4年)8月23日、斉藤達が天寧寺の隊士達と合流する一方、土方は援軍を求めるために、松本捨助と斉藤一諾斎を従えて庄内へと向かっています。そして、斉藤が指揮する新選組は、会津藩と共に城に入って籠城しようとしたのですが、既に新政府軍が城下を占拠している状況にあっては城内に入る事は叶わず、やむを得ず米沢口の塩川村へと陣を移しました。

奥羽列藩同盟の総督に推された土方

庄内に向かった土方でしたが、その途上にある米沢藩が、奥羽列藩同盟から離脱して恭順派に転向したことから通過が許されず、それ以上進む事は断念せざるを得ませんでした。このため、土方は米沢から引き返し、白石を経て仙台へと向かいます。そして9月3日、旧幕府艦隊を率いて先に仙台に到着していた榎本武揚と共に、仙台城で開かれた奥羽列藩同盟軍の軍議に出席しました。この席上、榎本が同盟軍の総督として土方を推しました。諸藩の代表も一度はこれに同意しかけたのですが、ここで土方は生殺与奪の権の授与を求めます。彼は、「いやしくも三軍を指揮するには軍令を厳しくしなければならない。もし違背する者があれば、これが大藩の宿老と言えども斬って捨てなければならない。自分に生殺与奪の権が与えられるのなら総督を引き受けるがどうか。」と会議に諮ったのです。しかし、諸藩の反応は、生殺与奪の権は藩主に属するものであり、土方に委ねる事は出来ないというものでした。この回答は、図らずも旧態依然たる藩の寄せ集めに過ぎない奥羽列藩同盟の限界を示した事になり、土方の総督就任は流れ、会議は同盟軍の結束も方向性も固められないままに終わってしまいます。

如来堂の戦い

一方、会津に残った新選組は、大鳥圭介が率いる旧幕府軍と合流して行動を共にしていました。そして、9月4日に高久村で起こった戦闘の援軍として斉藤一の率いる新選組の小隊が派遣されたのですが、翌5日、如来堂で宿営しているところを敵に急襲されてしまいます。斉藤の部隊の人数は13人とも20人とも言われますが、少人数であったためにまともな抵抗をする事も出来ず、あっという間に四散してしまいました。島田魁日記ではことごとく討ち死にしたとあり、当時は全滅したと思われていました。しかし、実際には斉藤以下10名程の隊士が危機を脱して生き残っていたのです。

斉藤、会津に残留

斉藤はある時、「会津に来て以来、諸方で戦い続けて多くの仲間を失った。今はわずかに14名が残っているに過ぎないが、これを再興しようと思っている。しかし、会津と共に戦おうと志してここに来たにも係わらず、今まさに会津が落城しようとしている現実を前にして、これを見捨てる事は誠義ではない」と言ったとされます。これは天寧寺で土方と議論になった時に言ったとも、旧幕府軍の長たる大鳥圭介に対して言ったのだともされますが、いずれにしても、京都以来世話を受けた会津に、最後まで忠誠を誓って運命を共にしようという覚悟を示した言葉でしょうね。

この事から、玉砕した斉藤の部隊の行動については、軍令に基づくものではなく独自の行動だったとする説があります。この時期、新選組は組織上旧幕府軍とは離れて、会津藩の附属になっていました。そして、会津藩から高久村に対する援軍要請があったとき、旧幕府軍の幹部はその必要はないとこれを拒否したのですが、斉藤は先の言葉を言い放ち、会津附属たる新選組は別行動を取ると主張して、高久村に赴いたのではないかと言うのです。この時彼に同調した隊士が14名だったとすると、斉藤の言葉に出て来る人数の説明になるのですよね。

その後の斉藤

このあたりは諸説があってどれが正しいのか判りませんが、いずれにしても生き残った斉藤は、新選組に戻ることなく会津に止まり、その言葉どおり最後まで運命を共にしました。その後の斉藤は、会津藩の一隊と合流して敗戦を迎えるまで戦い抜き、会津藩士一瀬伝八として新政府軍に投降しています。そして、他の会津藩士と共に斗南へと移住した後、藤田五郎と名乗りを改めました。さらに、明治7年に東京へ出て警視局に出仕し、明治10年の西南戦争に従事しています。その後も警視庁に在籍して警部にまで昇進したのち明治24年に退職し、東京教育博物館の看守を経て東京女子高等師範学校の庶務会計係を勤めた後、明治42年に全ての職から退きました。この間の官歴については常に旧会津藩閥からの援助があったと言い、藩は会津戦争で斉藤の示した忠誠に終生報いたと言えそうですね。斉藤は大正4年まで生き続け、72歳でその生涯を閉じています。

新選組、仙台へ

9月8日、元号は明治と改元され、以後明治の世となります。この頃新選組を含めた旧幕府軍は兵糧弾薬にも事欠く事態に陥っており、態勢を立て直すために福島に居る奥羽列藩同盟軍と合流する事に決し、翌日出立します。しかし、新政府軍に寝返った米沢藩が福島に兵を出したため行き先を仙台に変え、16日に仙台へと至りました。

以下、明日に続きます。

この項は、新人物往来社「新選組を歩く」、「新選組銘々伝」、「新選組資料集」(「中島登覚書」)、木村幸比古「新選組全史」、「新選組日記」、「史伝 土方歳三」を参照しています。

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コメント

TBさせて頂きました。
参考になる記事でした。
以後、お見知りおきくださいませ。

投稿: 一瀬伝八 | 2006.01.08 16:05

一瀬伝八さん、コメントありがとうございます。
おお、斉藤の別名をHNにされているのですね。
かなりのコアなファンとお見受けします。
つたない内容ですが、新選組には思い入れがありますので、
色々と書いています。
よろしければ今後もおつきあいの程、お願いいたします。

投稿: なおくん | 2006.01.08 23:59

会津へ行った時、如来堂にも立ち寄ったのですが、そこにあった説明版に「土方歳三は会津を見捨てたけれど、斉藤一は最期まで会津と一緒に戦った」と書いてました。
土方ファンとしては、何か悲しかったですね。

投稿: merry | 2006.01.23 21:02

なるほど、そういう見方もあるのですね。
確かに斉藤は会津と運命を共にしましたが、
土方も会津を見捨てた訳ではなく何とか救おうと努力していたのであって、
それが実を結ばなかっただけなのですけどね。
こういう言われ方はちょっと寂しいですね。

投稿: なおくん | 2006.01.23 22:01

何点か、指摘を。会津を土方が離れる時に島田たちと行動を共にしていません。会津新選組自体が幾つにも分かれて天寧寺からのルートで仙台に向かったことは、「若山記草稿」にも書かれています。
「見捨てる事誠義にあらず」は、大鳥圭介に対して言ったとが書かれており、土方相手ではありません。
 同盟軍の役割は・・役職は既に決まっていまして土方は抗戦を要求しに登城しただけですが、仙台藩は恭順の意図が強くなってきております。
 『新選組銘々伝第2巻』の方が『斎藤一のすべて』より数ヶ月、早かったことになる。でも、書き手は内容を知らないから。斗南ので史料をもとにとなると後者、会津での戦いの筆者は同一人物なのですよね。

投稿: 富岡志郎 | 2006.11.25 22:05

富岡志郎さん、コメントありがとうございます。
まず、この記事はドラマ「新選組!!土方歳三最期の一日」に合わせて書いたもので、ドラマを楽しむためのガイドであって通史を書いたものではありません。ですから、ドラマを見る人の参考になりそうなエピソードを拾ってまとめていますので、細かいところは省略してあります。
それを前提にした上で記事を読んで頂きたいのですが、まず土方が島田達とは行動を共にしていないとの事ですが、それはご指摘の通りです。ですから、本文中にも斉藤一諾斎と松本捨助を供に連れて行ったと書いているのですが、誤解を与えたとしたら私の筆力が至らないという事で申し訳ありません。
次に斉藤が誰に対して言ったかということですが、これも本文中に大鳥に対して言ったとする説を紹介しています。私は新選組研究家ではなく一ファンに過ぎませんので、諸説がある場合はなるべくそれぞれを紹介して断定を避ける様にしていますのでご了解願えないでしょうか。
新選組が仙台に向かったルートに関してもご指摘のとおりかと思いますが、ドラマの設定には関係がないだろうと判断して省略しています。仙台藩におけるいきさつもご指摘のとおりとは思いますが、土方のエピソードの方がドラマにはふさわしいだろうという判断で詳細は書いていません。
「斉藤一のすべて」については読んだとは思うのですが、手元にはないこともあって内容までははっきりと覚えていません。また機会を見つけて読み直してみようと思います。ご紹介ありがとうございました。

投稿: なおくん | 2006.11.26 11:11

そうでありますか、ドラマにあわせてとは気が付きませんでした。確かにタイトルからすれば史実でなくドラマということになりますね。
 土方が会津を離れて米沢へ行こうと田村、玉置、市村、上田たちを連れて行ったこと。「山口次郎ノ曰(中略)志ヲ捨テ去、誠義ニアラスト知アイ」
は大鳥圭介に山口次郎が会った時に言った事は『続新選組史料集』「谷口四郎兵衛日記」郡義武訳に書かれています。こちらは、原文を訳したもので原文の複写の書き写し文で解読されていない画像の写真は31人会というところの会報に載っております。

投稿: 富岡志郎 | 2006.11.26 16:02

富岡志郎さん、コメントありがとうございます。
続新選組史料集はまだ手に入れていない本の一つです。
なるほど、ななかなか興味深い内容が含まれているようですね。
これはやはり買うしかない様です。
情報の提供ありがとうございました。

投稿: なおくん | 2006.11.26 19:47

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