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2005.12.27

ねこづらどき版「新選組!!土方歳三最期の一日」7

gessinin0512271
京都 東山 月真院にて


宮古湾海戦

1868年(明治元年)12月15日の函館政府樹立以後、北の大地は雪と荒波に閉ざされ、つかの間の平穏な時を迎えます。しかし、雪解けと共に新政府軍が蝦夷地に襲来するのは、誰の目にも明らかでした。

3月になり、函館政権にとって最も恐るべき報がもたらされます。3月9日に品川沖を出航した新政府軍の艦隊の中に、甲鉄艦が含まれていると判ったのです。

甲鉄艦は、アメリカの南北戦争の最中に、南軍の発注によってフランスの造船所で建造された軍艦でした。就役は1864年の事で、装甲の無い木造船が普通だった当時にあって、全体が甲鉄で覆われていた事から不沈艦とも言うべき抜群の防御力を誇っていました。そして300ポンドのアームストロング砲を初めとする強力な武装が施されていた事も合わせて、世界最強の船と謳われていました。しかし、フランスからアメリカに回航された頃には南北戦争が終了しており、働き場を失った甲鉄艦(原名:ストーン・ウォール)は、港に係留されたまま放置される事になります。

この船に目を付けたのが徳川幕府でした。1867年、幕府は甲鉄艦の買い取りをアメリカと約束し、翌年甲鉄艦は横浜へと回航されてきます。ところが、この頃には既に戊辰戦争が勃発しており、新政府もまた甲鉄艦の買い取りの意思を表明した事から、アメリカは国際法上の慣例に則って局外中立を宣言し、内乱が終わるまではどちらにも引き渡さないという態度を明確にしましす。しかし、その後新政府が旧幕府方の諸藩を次々と攻略し、奥羽列藩同盟を壊滅させるに至って、アメリカも新政府を正規の政権として認めるところとなり、甲鉄艦の引き渡しに応じたのでした。

開陽を失った榎本艦隊にとって、この甲鉄艦の存在は恐怖そのものでした。彼の艦隊のどの船をもってしても、甲鉄艦には敵わない事が明らかだったからです。函館政権が新政府に対して優位を主張していた海軍の力関係が、この一艦の存在によって逆転してしまったのでした。

逆に言えば、甲鉄艦さえ倒してしまえば新政府軍に軍艦と呼べるほどの船はほとんど無く、力関係を再び覆す事は可能でした。このことから、函館政権のフランス人教官ニコールが、甲鉄艦に味方の船を接舷させて兵を乗り込ませ、敵兵を切り捨てて船を乗っ取ってしまうというアボルダージュ(接舷攻撃)作戦を提案し、回天の艦長である甲賀源吾もまたこれに同調しました。榎本はこの作戦を採用し、3月21日に、回天、蟠龍、高雄の三隻を出航させます。目的地は、新政府軍の艦隊が必ず寄港すると予測される宮古湾、旗艦である回天には、土方がこの作戦の監察役として乗船していました。

しかし、途中の悪天候のために蟠龍は行方不明となり、高雄もまた機関の故障から宮古湾へと突入する事が出来なくなります。当初の予定では、回天は外輪船である事から接舷戦には参加しない事になっていたのですが、事ここに至って艦長の甲賀は、回天だけで突入する事を決断します。3月25日早朝、回天は新政府軍の目を欺くためにアメリカ国旗を掲げながら甲鉄艦に近づき、やがて中央に衝突します。そして、旧幕府軍の印である日の丸を掲げると、甲鉄艦に向かって砲撃を開始しました。

甲鉄艦に衝突した回天の舳先からは、切り込み隊が甲鉄艦に乗り移ろうとします。当初の予定では、接舷は相手に対して平行に行い、切り込み隊は舷側の広い範囲から一気に甲鉄艦に乗り込む手筈でした。ところが、回天の構造上舳先から真っ直ぐに突っ込むより無く、接点は一つだけとなってしまいました。さらに、回天の舷側は甲鉄艦よりも3メートルも高かっために容易に飛び下りる事が出来ず、一人づつ、かつ、途切れ途切れに乗り込む形となってしまいます。このため、切り込み隊は防御側の格好の餌食となり、さらに甲板に装備されていたガトリング砲が火を噴くに至って、次々に倒されていってしまいます。この時の様子を島田魁は、「雷のごとく、細かい雨の様な弾丸が降った」と形容しています。

回天の艦橋では、艦長の甲賀と土方ほか数人が指揮に当たっていましたが、やがて甲賀が銃弾に倒れ、甲鉄艦ほかの艦艇からの砲撃が回天に集中するに及んで、遂に撤退が命じられます。この時、甲鉄艦の甲板で戦っていた新選組の野村利三郎が、回天に戻ろうとするところを後ろから槍で突かれ、海に落ちてしまいました。彼はそのまま溺れ死んだとも、生け捕られて敵の捕虜となったとも伝えられます。

この海戦は、開始からわずか30分の間に、回天の乗員18名が死亡(甲鉄艦に切り込んだ7名のうちの5名を含む)し、60余名が負傷するという損害を出して終わりました。これに対して、新政府軍の死者は4人に過ぎません。さらに、高雄が座礁して新政府軍に降伏しており、宮古湾海戦は函館政権側の一方的な敗北に終わっています。

以下、続きます。

この項は、新人物往来社「新選組を歩く」、「新選組銘々伝」、「新選組資料集」(「中島登覚書」)、木村幸比古「新選組全史」、「新選組日記」、「史伝 土方歳三」を参照しています。

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コメント

宮古湾はとっても綺麗な海でした。
こんな綺麗な海で海戦があったとは悲しいことです。

投稿: merry | 2006.01.23 21:27

古戦場というのは不思議な場所ですよね。
ほとんどは穏やかな景色があるだけで、
予備知識がなければ、かつて壮絶な戦いがあったとは誰も気が付きません。
宮古湾もそんな場所の一つなのですね。

投稿: なおくん | 2006.01.23 22:24

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受信: 2006.01.28 17:17

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