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2005.12.14

義経 49の2

義経 最終回 「新しき国へ」その2

伽羅の御所の方角に、異変を感じる弁慶と義経。そこに、御所に兵が集結しているとの知らせをもたらす郎党達。それが自分たちを討つ為の兵であると悟りつつ、それでもなお泰衡を恨むではないと郎党達に申し渡す義経。そして、新しき国の為に泰衡と戦おうと下知を下します。

そこへ、戦などせず逃げろと叫びながら駆け込んでくるうつぼ。しかし、義経はもののふである以上敵に背中を見せる事は出来ず、また頼朝が自分の首を狙っている限り、どこへ逃げても終わる事は無いと言って、戦う決意は変わる事はありませんでした。

たった6人で最後の戦に臨む義経主従ですが、どこにも悲壮感は無く、笑い声さえあります。そんな彼等を見てもどかしがるうつぼですが、郎党達は口々に義経に従ってきた日々の事を語り、やるべき事を十分に成し遂げた満足感に浸たるのでした。ただ一つ、義経の目指す新しき国を目指す事だけが残されており、その為にもこの戦を切り抜けなければならないと告げる義経。彼は喜三太に小刀を与え、武士らしい名を与えようとしますが、喜三太は義経に従った時の名のままで居たいと言って辞退します。

そこに忠衡の家来が駆け込んできました。彼は泰衡によって忠衡が斬られて館が襲われた事、さらにこの館にも軍勢が押し寄せて来ている事を告げ、自分は門前にて敵を防ぐので、その隙に義経主従は落ち延びよと言い捨てて、再び外へと取って返して行きました。

義経は、嫌がるうつぼに都へと帰れと命じます。みんな死ぬ気かと気遣ううつぼに、自分たち主従は、たとえ死んでも生まれ変わってまた主従になるのだと語る弁慶。納得の行かないまま、義経から静への「新しい国が実現すれば必ず呼び寄せる、そのときまで息災にせよ」との言伝を託され、都へ帰る事を承知するうつぼ。去り際、弁慶から喜三太のうつぼへ寄せる想いを知らされたうつぼは、その気持ちは知っていたと打ち明け、喜三太に都で待っていると言ってやります。そしても自ら想いを寄せている義経には、遂に何も言えずに館を後にするのでした。

最後の戦を前に郎党達にこれまでの礼を言い、三度生まれ変わっても我らは主従だと語る義経。美しい夜明けを前に、感慨に耽る義経主従。義経の出陣の下知に、武者押しの声で応える郎党達。

押し寄せてきた泰衡の大軍を、弓でもって迎撃する義経主従。しかし、圧倒的に数で勝る泰衡軍はたちまちの内に眼前へと迫ってきます。太刀を抜き、掛かれという義経の声に従って、大軍の中へと切り込んでいく郎党達。

大勢の敵に囲まれながらも奮戦する6人の武者。その中で、最初に倒れたのは義久。太刀が折れた事に気を取られた隙に背後から斬りつけられ、川の中に仰向けに倒れた義久は、殿!と叫びながら息を引き取りました。

次に倒されたのは喜三太。倒れた義久の下に駆けつけようとして、背後から弓で射られてしまいます。動けなくなった喜三太を、物陰へと引きずっていく弁慶。喜三太は苦しい息の下、弁慶に向かって義経第一の家来の座を譲りたいと告げます。弁慶はそれは喜三太の外には居ないと断り、殿と一言残して息絶えた喜三太に、都でうつぼが待っているというのにと、手を合わせて拝むのでした。悲しみを振り切り、ふたたび戦列に復帰する弁慶。

泰衡の軍勢は、義経手強しと見て、弓で射る作戦に切り替えます。巧みに飛んでくる矢をたたき落とす義経ですが、背後からも狙われている事に気付きません。それを見て取った駿河次郎が義経の側に駆け寄り、自ら盾となって矢を受けました。血しぶきで顔面を真っ赤に染めながら、なおも敵に向かっていく次郎。何人もの敵を倒しつつ、最後は膾のように切り刻まれて、咲き誇る花の中へと仰向けに倒れ、義経の名を叫びながら死んでいきました。

奮戦しつつも膝を切られ、身体の自由を失った伊勢三郎は、敵の侍大将と相打ちになりながらもこれを倒します。深手を負い最期を悟った三郎は、義経に向かって微笑みかけ、得意の蟹の仕草を見せながら、地面に散った花びらの中に倒れていきました。

後に残った弁慶は、義経の腕を掴んで包囲の輪の中から抜け出し、持仏堂の前へと逃がれます。義経を堂の中に入れ、自らは扉の前に仁王立ちになって、一兵たりとも中には入れぬとあたりを睨み付ける弁慶。

持仏堂の奥へと入っていった義経は、壁に当たる夕日の中に、福原の屏風を見い出します。新しき国の姿を眺めつつ、清盛様も夢半ばだったとつぶやく義経。しかし、夢の都は自分の胸の中にちゃんとあると、清盛に向かって語りかけるのでした。

持仏堂に迫ってきた泰衡の軍勢。持仏堂の中に入ってきた弁慶に向かって、最後の頼みとして、矢防ぎを命ずる義経。これまでの苦労にたいする礼を言う義経に向かって、生まれ変わってもまたお目に掛かりたいと言い残し、外に出て行く弁慶。その後ろ姿を凝然と見送る義経。

持仏堂の外に出た弁慶。あたりは泰衡の軍勢で満ち溢れています。彼等の前に仁王立ちになった弁慶に向かって斬りかかる兵士達。得意の長刀を振るって奮戦する弁慶。その弁慶に向かって、一斉に矢が放たれます。多数の矢を鎧に受けながら、その矢をへし折ってなおも戦い続ける弁慶。その鬼気迫る姿に、さしもの兵士達も恐れおののき、じりじりと後ずさりを始めます。

持仏堂の中。兜を脱ぎ、壁に向かって跪いた義経。彼は腰に差した小刀を抜いて、自らの首筋に当てます。彼の眼には、福原の屏風が、そして新しい国の姿が、ありありと映っていました。新しき国とつぶやいて、首に当てた刀を引く義経。その瞬間、彼を眩しい光が包みました。その光は束となって持仏堂の屋根を突き破り、空へと吹き出し、そして雄叫びと共に白馬へと姿を変えていきます。

その白馬を見届けた弁慶に向かって、再び矢が射掛けられます。無数の矢を全身に受けつつも、倒れる事無く正面を睨み続ける弁慶。そんな弁慶に恐れをなして、近づく事が出来ない兵士達。そこに駆けつけてきた泰衡は、立ったまま息絶えている弁慶を驚きながら凝然と見つめ、義経が持仏堂の中に居ると聞くと、堂の方へと走っていきます。そして、弁慶の背後で義経に向かって泣きながら許しを乞うのでした。

白馬となった義経の霊は、新しき国を目指して、大空を駆けめぐります。

悪夢にうなされて目を覚ました頼朝。そこに政子が、義経が自害して果てたとの知らせをもたらします。呆然としてその言葉を聞いていた頼朝は、黙ったまま力無く手を振って政子達を下がらせるのでした。

都に戻ってきたうつぼ。彼女から義経の最後を聞いた義経縁の人々。

京三条。義経の隠れ家だった家で座っている吉次とあかね。義経の事は自分の胸から消える事は無いという吉次の言葉に、黙ってうなずくあかね。

静の家。うつぼから義経の伝言を聞く静。最後に持仏堂から光が吹き抜け、どこまでも天に駆け上がるかの様だったと聞き、黙って空を見上げる静。

お徳に車を押された朱雀の翁と、その横で琵琶をかき鳴らしながら歩いている烏丸。そこに通り掛かったうつぼは、烏丸の目が見えなくなっていると知り、驚きます。気遣ううつぼに、琵琶を弾いて語りながら生きていけると逞しさを見せる烏丸。お徳と朱雀の翁は、義経は今でも鞍馬に居ると謎の様な言葉を残して去っていきました。

奥州に攻め込み、藤原家を滅ぼした鎌倉軍。頼朝に向かって、天下平定がなった事を言祝ぐ時政以下の御家人達。彼等に対してその働きを労い、満足げに見渡す頼朝。

京、院の御所。三日の雨続きで、宴の前に菊の花が枯れてしまうのではないかと浮かぬ表情の後白河法皇。空模様を見ながら、まだ晴れそうにはないと答える丹後局。鎌倉から黒雲が押し寄せてきたのかも知れないと身を震わす法皇。

鎌倉、大倉御所。笑いさざめきながら廊下を歩く時政と政子。その先に、盛長が部屋の中の様子を窺う様に座っていました。頼朝は持仏堂に籠もりきりだと告げる盛長に、仏門に帰依するつもりなのかと言い捨てて、笑いながら通り過ぎていく時政と政子。

持仏堂の中。仏像を前に、義経の面影を思い浮かべる頼朝。彼は義経に向かって、自分を恨めとつぶやき、涙に暮れるのでした。

鞍馬寺を一人で訪れたうつぼ。義経の面影を探すように彷徨っていた彼女は、山中を駆け抜ける義経の幻を見かけます。在りし日のように、鞍馬の山を駆け巡る義経の幻。

「義経が泰衡によって討たれたのは、1189年(文治5年)閏4月30日の事でした。これに関する吾妻鏡の記述は、概ね次のとおりです。

勅定と頼朝の命に従って、泰衡が義経を討った。義経が民部少輔基成の衣川の館に居たところ、そこに泰衡に従う数百騎の軍勢が押し寄せ、合戦となった。義経の家人達がこれを防いで戦ったがことごとく討ち取られた。義経は持仏堂に入り、まず22歳の妻と4歳の娘を害し、次いで自らも命を絶った。義経享年31歳。

また、玉葉には次のとおり記されています。

義経が泰衡の為に討たれた。天下に取ってこれ以上の喜びは無い。実に神仏の助けであり、頼朝の運である。言語の及ぶ所ではない。

どちらも極めて簡略な記述であり、義経の最後の詳細は窺い知る事が出来ません。

義経の最後を詳述しているのは「義経記」です。それに依れば、義経最後の地は衣川ではなく高館となっており、彼を護っていた武者は弁慶以下8人でした。ドラマに出てきた人物では伊勢三郎と鷲尾経久がこれに含まれ、外に雑色として喜三太が登場しています。義経の周囲にはこの外に11人の郎党が居たのですが、この日は近くの寺に詣でていて不在でした。
押し寄せてきたのは泰衡の家来である長崎太郎大夫が率いる3万騎。義経は寄せ手の大将が泰衡ではなくその家来に過ぎないと知ると、自ら戦うまでもない相手であると言って自害を決意し、防ぎは郎党達に任せ、自らは妻子と共に持仏堂に入って経を読み始めます。喜三太ともう一人の雑色は屋根に登って矢を射掛け、残る8人は門前にて敵を迎え撃ちました。この時弁慶は、敵前にてひとさし舞ってみせるという余裕を見せています。
郎党達はそれぞれ奮戦し、経久は5騎を討ち取ったところで討ち死をし、三郎は6騎を討ち取り3騎に手傷を負わせたところで、自らの深手を悟って自害して果てました。他の郎党達も次々に討たれていく中で弁慶はなおも奮戦を続け、その途中で義経に暇乞いをすべく持仏堂の中に入り、死んだ後もあの世で会いたいと別れを告げています。そして、義経から最後の経を読み終えるまでは敵を防ぐようにと命じられると、再び外に討って出ます。阿修羅のごとく荒れ狂う彼の鎧には無数の矢が突き刺さり、これを叩き折っては戦かい続けたため、あたかも蓑を逆さまに着ているかのごとく見えたとあります。また様々な色の矢の羽根が揺れる様は、武蔵野の枯れ尾花が風に揺れているようにも見えたとも描かれています。
敵を打ち払った弁慶は、長刀を逆さに突き立てて持仏堂の前で仁王立ちとなります。わずかに口元に笑みさえ浮かべて敵と対峙する様は、あたかも力士のごとく見えました。これほどの矢を受けてもなお倒れない弁慶を見て恐れをなした寄せ手は、剛の者は立ちながらに死ぬ事があると言って誰か見てこいと言い合いますが、誰一人として近づこうとはしません。その内に近くを騎馬武者が駆け抜けた拍子に、既に死んでいた弁慶の体は倒れてしまったのですが、その時弁慶があたかも長刀で撃ち掛かるような仕草をした様に見えたので、寄せ手は慌てて飛び退いたとあります。これに続いて、屋根の上で矢を射ていた喜三太が、地面に飛び下りざまに首の骨を折って命を落としています。
持仏堂の中では、経を読み終えた義経がまず自害をしました。次いで北の方の守り役を務めていた兼房が、最初に北の方を刺し、次いで5歳になる長男、そして生後7日の娘を次々に刺した後、持仏堂に火を掛けて回り、最後には2人の敵を両脇に抱え込んで火の中に飛び込むという壮絶な最後を遂げています。
ここに登場しない駿河次郎については、これに先立ち九州への使者として派遣されたところを捕縛され、その手下20数人と共に鎌倉に送られたと記されています。
以上が義経記における義経の最後の様子です。ドラマも概ねこの記述に沿っていた事が窺えますよね。そして、それぞれの最後については丁寧に描かれ、好感の持てる演出だったと思います。まあ、三郎の蟹は微妙なところですが...。
なお、史実においては、伊勢三郎が文治2年7月に捕縛され、梟首された事が玉葉の記述から知る事が出来るほかは、ドラマに登場した郎党達がどんな最後を遂げたのかは記録にありません。まあ、弁慶以外は最初から実在すら疑われる存在なのですから、当然な事なのでしょうけど。

泰衡の最後はみじめなものでした。文治5年7月に頼朝自ら率て鎌倉を進発した鎌倉軍は、8月の初めに国衡の頑強な抵抗を打ち破ると一気に平泉に迫ります。その勢いに押された泰衡は城を捨て、さらには平泉に火を放って北へと逃亡を図ります。彼は譜代の郎党である河田次郎を頼って行ったのですが、彼の裏切りに遭ってあえない最後を遂げたのでした。文治5年9月3日の出来事で、泰衡の享年は25歳でした。

頼朝に依る奥州征伐は、頼朝の政権を確立させるための一大デモンストレーションだったとされます。すなわち、日本全国の武士に対して出陣せよとの頼朝の命が下され、従わない者は領地を取り上げられてしまいました。これによって、すべての武士にとっての権門は鎌倉に他ならないという事実を創出し、全国支配のための基礎となしたのです。また、奥州藤原家の滅亡は、鎌倉にとって多くの実質的な恩恵をもたらしましています。常に背後に控えていた脅威が消えた事、奥州の豊かな物産を手に入れた事、御家人達に分け与える領地が一挙に増えた事などです。これらによって、鎌倉政権の基礎は、まさに盤石なものとなりました。こうした経緯を見ると、頼朝が泰衡を追い込んでいった本当の狙いは義経の首を取る事では無く(あっても2の次で)、もっと大きな政治的な構想に基づいたものだった事が判って来ます。」

以下、明日に続きます。


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