ねこづらどき版「新選組!!土方歳三最期の一日」 相馬主計 ~新選組最後の隊長~
相馬は、1843年(天保14年)に、笠間藩舟橋平八郎の子として生まれました。この生年については、1835年(天保6年)とする資料もあって、どちらとは断定する事は出来ません。前説が正しいとすると沖田総司よりも一つ年下、後説が正しいとすると土方歳三と同年という事になります。
新選組への入隊時期は明確ではありませんが、1867年(慶応3年)6月10日に新選組隊士が幕臣に取り上げられた時の名簿にはその名が無く、その半年後に作成された「京都より会津迄人数」という名簿には局長附人数の中に「相馬肇」として記載されています。局長附とはいわば仮採用の新入隊士の事であり、この頃に江戸、または京・大坂で行われた隊士募集に応募して来たものと考えられます。
入隊後の相馬の名が最初に登場するのは、慶応3年12月7日にあった天満屋事件の時です。西村兼文が著した「新撰組始末記」の中に、紀州藩士三浦久太郎の警護に当たっていた隊士の一人として記されており、土方と共に切り込んできた土佐藩士達を相手に奮戦する様子が描かれています。ところが、永倉新八の「浪士文久報国記事」における天満屋事件の記述にはその名が見えません。このため、実際に天満屋で戦ったのかどうかは疑問が残る所なのですが、事件当日ではないにしろ、三浦の護衛は半月近く交代で行われていた事から、その中の一人として警護に従事していたのは確かではないかと考えられています。
相馬の名が次に現れるのは、1868年(慶応4年)1月3日に始まった鳥羽伏見の戦いにおいてであり、浪士文久報国記事に記された伏見奉行所に集結した隊士の名の中にその名を見いだす事が出来ます。この時の相馬は局長付組頭とされており、50人からなる局長付組の長に抜擢されていました。入隊後わずかの期間の間に早くも頭角を現してきた事が窺え、その器量の大きさの一端を知る事が出来ます。
相馬は隊長附組頭として江戸帰還後も近藤の側にあり続け、新選組が甲陽鎮撫隊と名を変えて勝沼で戦った際にも、近藤と共に居た事が浪士文久報国記事の記述によって知る事が出来ます。
勝沼で敗れた後、新選組は江戸から五兵衛新田、そして流山へと移動し、4月3日にその地で官軍に包囲されて武装解除を受けます。同時に近藤勇が投降し、本隊は斉藤一に率いられて会津に向かうのですが、この時相馬は本隊から離れて、近藤救出のために江戸に向かう土方に同行しました。
慶応4年4月4日、土方は勝海舟と大久保一翁と面談して近藤救出への協力を依頼し、翌日この両人と自分が書いた近藤宛の手紙を相馬に託して、板橋にあった官軍の総督府に届けさせたと「島田魁日記」にはあります。
ところが、この時の様子を記した官軍の記録に依ると、相馬は松濤権之丞の使いとして近藤に宛てた書簡を持参したとあり、彼の持参した書簡は松濤が記したものだったという事になります。(松濤は幕臣で、フランスへの使節団にも加わったという経歴を持つ能吏でした。この時期は歩兵頭格として海舟の下にあり、脱走兵達の取り締まりに当たっていました。)
松浦玲氏の「新選組」に依れば、この時松濤が書いた書簡は現存しており、その内容は大久保大和に対して、幕府の規定方針どおり付近の鎮撫に努めていたのだと主張しとおせと忠告を与えるものだったと言います。そしてその書簡には、海舟が松濤宛てに書いた3月15日付けの書簡が添えられてありました。この海舟の書簡とは、官軍に対して恭順の実を示す為にも、鋭意江戸周辺の脱走兵の鎮撫に当たる様にとの命令が記されたもので、大久保大和の部隊が流山に駐屯していた事に対する正当性を証拠立てようとした様ですね。
以上の流れからすれば、海舟が近藤助命の為に書いた書簡は存在しなかったという事になり、仮に書いたとしても、近藤のために手紙を書いてやれと松濤に指示した程度のものだったのかも知れません。
海舟の書簡を巡る真相はともかくとして、総督府に出向いた相馬は、近藤に会う事も出来ないまま捕らえられてしまいます。これは、この時既に近藤の正体が官軍に知られていた為で、武闘派の代表格である新選組局長が、流山でおとなしく鎮撫にあたっていたという主張が認められるはずもなかったからでした。相馬は、近藤に同行して捕らえられていた野村利三郎と共に斬首と決められます。しかし、4月25日に近藤が処刑された後に、二人は釈放されました。これは、近藤が二人の助命を嘆願した結果だとも、二人は釈放されたのでは無く、牢を破って逃げたのだとも言います。
この後、相馬の姿が確認されるのは、6月26日に江戸から海路奥州へと脱出した、春日左衛門が率いる旧幕府陸軍の歩兵一大隊(陸軍隊)の隊員としてです。この頃、相馬は名を肇から主計へと改め、野村と共に幹部の座に就いていました。板橋で釈放された後、相馬がどこで何をしていたのかは判りませんが、江戸市中に潜伏していたか、それとも旧幕府艦隊に匿われていたかのどちらかであったと思われます。
陸軍隊は仙台藩の援軍として、官軍と戦闘を重ねます。その間、8月5日に奥羽列藩同盟の会議に陸軍隊の幹部として出席して輪王寺宮に拝謁を許され、金1000疋を拝領するという名誉を受けています。このとき、輪王寺宮の側近である覚王院義観の日記に、相馬主計は殊に器量の者と記されており、相当な働きを示した事が窺えます。
9月3日、仙台で開かれた奥羽列藩同盟の会議に土方が出席しており、この頃相馬とも再会を果たしたものと思われます。さらに、16日には、会津から新選組本隊もやってきますが、相馬と野村は陸軍隊に止まったままであり、新選組には復帰していません。
明治元年10月22日、蝦夷地に上陸した旧幕府軍は、五稜郭を目指して進軍を開始します。この時、新選組は大鳥圭介が率いる本隊の殿を勤めているのですが、額兵隊の星旬太郎の日記に依れば、相馬がこの新選組を率いていたと記されています。ところが、別の資料では、この頃新選組を率いていたのは安富才助であるとされており、このあたりの経緯は判然としません。ただ、少なくとも、五稜郭入城までの間は、新選組と行動を共にしていた様ですね。
その後、相馬は新選組を離れて旧幕府軍の軍監となり、江差に赴いています。抵抗を続ける松前兵に対して降伏の勧告を行ったという記録や、松前兵を下した衝鋒隊から捕虜を引き継いだという記録が残されており、その後はその身分のまま松前城下に詰めていたようです。
相馬が再び新選組に復帰するのは、翌明治2年正月の事でした。陸軍奉行添役となった相馬が、函館市中取締である土方の下に属し、新選組と共に函館市中の取り締まりに当たる様になったのです。形式的には新選組には属していないものの、実質的な隊長は相馬だった様ですね。市中取締の任務は多岐に渡っており、市民に対して平穏に商売に励む様にという通達を出したという記録や、あるいは裁判を行ったという記録が残されています。
3月25日に行われた宮古湾海戦にも、相馬は陸軍奉行添役として参加しています。この時、板橋以来苦楽を共にしてきた野村利三郎は戦死し、相馬もまた切り込み隊にこそ参加しなかったものの、傷を負っています。
4月9日に新政府軍が蝦夷地に上陸してきますが、相馬は新選組と共に函館の警備に当たっていました。そして、いよいよ敗色が濃くなった5月11日に、函館市中の武蔵野楼という伎楼にて、函館政権の幹部による別れの宴が催され、相馬もまた出席しています。この時が、相馬と土方の別れの日ともなりました。
翌日、新政府軍の函館攻撃が開始されると、相馬は新選組と砲兵隊を率いて弁天台場での籠城戦を開始します。この台場には、函館奉行の永井尚志も一緒に籠もり、総督となっています。11日の攻撃によって函館市内は新政府軍の占領するところとなり、五稜郭と弁天台場は分断されてしまいます。そして、孤立した弁天台場に対して、12日には艦砲射撃、13日には函館山からの砲撃が加えられましたが、旧幕府軍の志気は高く、容易な事では落ちませんでした。新政府軍は力攻めから和議に依る決着に方針を変え、13日に弁天台場に対して和議を申し入れます。これを受けて翌14日に、五稜郭に籠もる榎本達の意思確認のための使者として相馬が派遣されます。五稜郭に入った相馬は、徹底抗戦あるのみという榎本の意思を確認すると、弁天台場へと引き上げて行きました。
この時のエピソードとして、使者に同道した薩摩藩士永山友右衛門が、弁天台場の籠城を労ったのに対して、相馬は「兵糧は沢山用意してあるから良いものの、別れの酒が無いのが残念だ。願わくば一樽送って欲しい。」と答えました。これに応じて、薩摩藩から弁天台場に対して、酒と生魚の差し入れが行われたという話が残されています。
これと同様のやり取りが、この前日に五稜郭でも行われていました。こちらの方は、榎本の持つ海律全書という本は日本に一冊しかないという貴重なものだったのですが、これが失われるのは国家としての損失だとして新政府軍に渡されました。そして、その返礼として五稜郭に鮭と酒が贈られたというエピソードになっています。
抵抗を続けていた弁天台場でしたが、5月15日に至って、帯刀を条件に恭順する事に決します。恭順が決まったまさにこの日、永井は相馬に対し、新選組隊長になる様に命じます。この時期に隊長になるという事は、これから新選組に対して問われる全ての責任を負うという事を意味し、相馬個人に対しては何の見返りも与えられないという過酷な命令でしたが、彼は従容としてこの命に従います。そしてこれを期に、名を主殿と改めます。
5月18日には五稜郭も開城し、20日には恭順していた弁天台場に対しても降伏が迫られました。相馬は新選組隊長として、永井らと共に函館を経て、身柄を東京に移されます。相馬は、旧幕府軍の首謀者としてだけではなく、新選組が関与したとされる坂本龍馬暗殺事件、さらには伊東甲子太郎暗殺事件の容疑で取り調べを受け、流刑終身の判決を受けました。
明治3年11月18日、相馬は流刑地である伊豆諸島新島へと到着しました。相馬は、大工棟梁の植村甚平衛に引き取られる事になります。植村家では、空き屋になっていた隠居所が与えられ、18歳になる次女のマツが彼の世話に当たりました。相馬はここで寺子屋を開き、島民に読み書きを教える事で暮らしを立てていました。やがて、相馬はマツと恋仲になり、妻として迎える事になります。このとき、植村家では二人では隠居所が狭いだろうと増築をしてやろうとしたのですが、相馬は自ら設計を起こし、誰の手を借りることなく一人で施工までこなしたというエピソードが残されています。どこかでそういう技術を覚えていたのでしょうけれども、相馬は島の大工にそれを惜しみなく教えたので、たいそう評判になったという事です。
新島においては、波乱に富んだ新選組時代とはまるで違った平穏な生活を送っていた相馬でしたが、明治5年10月13日に赦免の知らせが届きます。相馬は2年間の離島暮らしに別れを告げ、マツを伴って東京へと移り住みました。
東京での住居は、蔵前にありました。その家は、先に赦免になって新政府に仕えていた榎本によって用意されたと言います。相馬は、その榎本から鳥取県令に推薦するという話を受けたのですが、他の新選組隊士が苦しい生活を送っている中で、自分だけが栄爵を受ける事は出来ないと言って断ってしまいます。そうこうするうちに、相馬は突然腹を切って自害してしまいました。その日時は一切伝わっていません。相馬が妻のマツに、一切は他言無用と言い含めていた為で、マツは一生その言いつけを守った事になります。
相馬の切腹の理由は様々に憶測されています。意に反して榎本から厚遇され、その事が元で新選組の仲間から誹謗中傷を受け苦しんでいたとも、新政府に出仕せよと言われた事が彼の主義に反し、負担に感じて死を選んだのだとも、反対に、彼の出世に仕官の望みを繋いでいた仲間の恨みを買い、非難を浴びた事が原因だとも言われますが、定かではありません。
京都で活躍した副長助勤達と違って、最後の隊長を務めた相馬の事はほとんど一般には知られていません。しかし、こうして調べてみると、非常に有能な人であった事が判ります。もし、もっと早い時期に入隊していたら、また違った活躍の場が与えられていた事でしょうね。新選組の全ての責任を問われる事を覚悟の上で、たった一日の隊長を引き受けて刑に服した相馬主計に、今度のドラマを機会としてスポットライトが当てられる事を望みたいです。
この項は、木村幸古「新選組日記」、新人物往来社「新選組銘々伝」、「新選組資料集」(「新撰組始末記」)、別冊歴史読本「新選組の謎」、河出書房新社「新選組人物誌」、松浦玲「新選組」を参照しています。
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コメント
相馬主計について、こんなに詳しく読んだのは初めてです。
切腹した事は知ってましたが、理由までは考えませんでした。
大変優秀な人のようですね。
写真があるなら見てみたいけど、多分ないのでしょうね。
今日はここまで読みました。
また明日、続きを読みます。
投稿: merry | 2006.01.23 22:17
本文中にも書きましたが、
相馬は遅れて来たのが惜しまれる隊士です。
もっと活躍の場を与えてやりたかったですね。
相馬の写真は現存していて、ネット上では次のところで見る事が出来ます。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%B8%E9%A6%AC%E4%B8%BB%E8%A8%88
ドラマの様な美男子ではなかったようですけどね、
意志の強そうな侍らしい風貌と言えそうです。
投稿: なおくん | 2006.01.23 22:38
早速写真の紹介ありがとうございます。
確かに美男子ではないけれど(笑)、写真を見ることが出来て満足しました。
ところで、昨日から疑問に思っていたのですが、このページの写真は何処ですか?
投稿: merry | 2006.01.24 20:56
この写真は鳥羽伏見の戦いにおける最後の舞台となった、
楠葉(橋本)砲台の跡地です。
位置などは本家の方に掲載してありますので、参考にして下さい。
http://www.bbweb-arena.com/users/mnaokun/淀_003.htm#bookmark2
田圃と新興住宅地の境にあって、およそ史跡らしからぬところです。
地元の人でも知らない人が多いんじゃないかな。
でも、ここで新選組は確かに戦っていたのであり、
彼等の足跡を辿る事が出来る私のお気に入りの場所の一つです。
投稿: なおくん | 2006.01.24 22:59
そうなんですか。橋本なんですか。
本で読んで、一度訪ねてみたいと思っていたのですが、あまり地理に詳しくないでの、淀までで止めました。
また暖かくなったら、訪ねてみたいですね。
それにしても、「本家」のHPは凄いですね。
また後日そちらの方もじっくり見させていただきます。
投稿: merry | 2006.01.25 11:43
橋本へ行かれるなら、
島田魁日記や浪士文久報告記事などを再読される事をお勧めします。
古い町並みが残っていますから、彼等が記した戦いの後を追う事が出来ますよ。
観光地ではありませんが、
新選組ファンにとっては穴場と言うべきところだと思います。
投稿: なおくん | 2006.01.25 19:52