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2005.12.05

義経 48

義経 第48回 「北の王者の死」

1187年(文治3年)、平泉に到着した義経主従。伽羅の御所で秀衡に拝謁した義経は歓待を受けます。そして、すべてを飲み込んで義経を受け入れるという秀衡の言葉に、思わず涙ぐむ義経。

「吾妻鏡に依れば、義経が奥州に逃れたらしいとの情報が鎌倉にもたらされたのは、1187年(文治3年)2月10日の事でした。そして3月5日には、様々な人の情報が義経が秀衡の下に居ると示唆している事について、京都にて厳密に調べる様にと指示が出されています。おそらくは義経の一行はこの頃に平泉に到着していたのでしょうけれども、その後も4月4日に義経が上野国に現れたという知らせが入ったり、また玉葉の5月4日の条には美作国で義経が斬られたという情報がもたらされたと記されたりしていて、様々な情報が錯綜していた事が窺えます。」

佐藤継信、忠信兄弟の遺髪を秀衡に差し出し、無事に連れ帰れなかった事を詫びる義経。そして、忠信が彫った仏像を、継信に似ていると言って手渡します。兄弟の父、佐藤元治から、2人は役に立ったのかと問われ、大いに助けられたと答える義経。それならば親としては大いに満足だという元治の言葉に、救われた思いのする義経主従。

かつて暮らした館に入った義経。既に吉次からの荷は届いており、その中に福原を描いた屏風もありました。案内を勤めていた忠衡に、この絵は自分たちが目指す新しき国だと告げる義経。

伽羅の御所で秀衡の相手を勤める義経。秀衡から新しき国の事を聞かれた義経は、清盛が描いた夢の都の有り様を話し、穏やかな町並み、海に浮かんだ異国の船を何時の世にもあるべき姿と思うと答えます。それは鎌倉とは相容れぬ国の姿だと秀衡は看破し、義経もまた、鎌倉は身内の情を排し、規律に縛られた非情な国だと語ります。秀衡は平泉に新しき国は作れるかと問いかけ、義経は異国との交易を盛んにしてはどうかと答えます。交易で富めば領民の暮らしも豊かになり、争いも絶えて無くなるという義経の理想を聞いた秀衡は、ここで鎌倉とは違う新しき国を目指してみよと義経に告げるのでした。

穏やかに始まった平泉での日々。弁慶は読経に明け暮れ、駿河次郎と喜三太は篭作りに精を出しています。そして伊勢三郎は得意の弁舌で、領民との交流を暖めていました。

京、六条御所。頼朝から秀衡に対して義経を引き渡すようにとの院宣を出すように迫られ、苦慮する後白河法皇。丹後局は相変わらず法皇の保身を第一に考え、秀衡を自分たちの方に引き寄せつつ、頼朝の機嫌を損なわないようにする事が肝要と進言します。

鎌倉、大倉御所。院宣を携えて平泉に向かう院の使者を迎えた頼朝は、一行に鎌倉の雑色を加えて貰いたいと願い出ます。訝る使者に、護衛のためだと答える頼朝。

平泉、義経の館。吉次から、静が都に戻ったと知らされた義経。そして鎌倉においては、頼朝の面前で自分を慕って舞ったと聞き、にも係わらず咎められなかったと知って、静の身に何があったと吉次に問いかけます。吉次は苦しげに、静が鎌倉にて子を産んだと答え、男か女かという問いかけには女であり、今は静と共に都で暮らしていると嘘をつきます。しかし、悲しみを堪えかねて涙ぐむ吉次の様子を見て、義経は本当は何があったのかを悟りました。

夕刻、持仏に向かって手を合わせる義経。その背後に現れた弁慶に、おそらくは静が産んだ子は男の子であり、既に頼朝によって始末されただろうと告げます。悲しみを堪え、仏に向かって祈り続ける義経。

一ヶ月後、大倉御所にて、平泉に同行していた雑色から、義経が間違いなく秀衡の下に居るという報告を受ける頼朝。彼は秀衡に無理難題を押しつけて、どう動くかその心底を確かめようと考えます。

平泉、伽羅の御所。頼朝から朝廷への貢ぎ物は、一旦鎌倉を通してから送るようにとの申し入れを受け、それでは臣下に下るようなものだと反発する国衡と忠衡。しかし秀衡は、頼朝の思惑をあざ笑うがごとくその申し入れを受け入れ、さらにその返答には奥州の産物を添える様にと指示します。

夜、秀衡に向かって自分の事で秀衡に迷惑を掛けているのではないかと問いかける義経。しかし、秀衡は、このような事態になる事を含めて全てを受け入れたのであり、気にする事は無いと答えます。そして、もはや鎌倉の狙いは義経ではなく奥州藤原家そのものであり、白川の関を越えて攻め寄せてきたときには、容赦なくこれを討つと断固たる決意を示します。さらに義経は自分の子の一人であり、これを護る為には奥州藤原家の全てを掛けて戦うと誓うのでした。

鎌倉、大倉御所。秀衡から鎌倉の要請に従うとの知らせを受け、奥州藤原家が臣下に下ったと喜ぶ時政と政子。しかし頼朝は、秀衡からもたらされた贈り物の品々を見て、その財力と武力を誇示する秀衡の心底を見透かし、うかつには手が出せないと悟ります。そして、いつかは滅ぼさねばならぬ相手と、決意を新たにするのでした。

「頼朝が秀衡に対する院の庁の下し文を要請したのは、文治3年4月の事でした。その内容には、義経追討のほか、前の山城の守基兼という人物を帰国させる事、そして東大寺大仏の塗金のために砂金3万両を差し出す事が盛り込まれていました。この下し文に頼朝が添え書きを書いて、雑色を院の使者と共に秀衡の下に送った事は、吾妻鏡と玉葉に記されています。
鎌倉に雑色が戻ったのは9月4日の事でした。その報告に依れば、秀衡の返答は異心は無いというものだったのですが、その一方ではどうやら戦の準備を進めているらしいとの事でした。
また、院の使者が京に帰ったのは9月29日の事で、玉葉に依れば、秀衡は義経追討と基兼の引き渡しについては返答をせず、また3万両の砂金についてはこれまでの先例では千両程に過ぎないとした上で、近年は掘り尽くしてしまって思うに任せないが、採れただけのものは送るとの回答でした。
このあたり、ドラマの筋書きとは似ている様で微妙に異なっていますね。しかし、秀衡の大胆にして巧妙な駆け引きについては、ほぼ同じと言っても良いでしょう。この振る舞いの背後には実力に裏付けられた揺るぎのない自信が見え隠れし、頼朝が奥州攻めをためらったのも無理は無いと思われます。」

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コメント

トラバ ありがとうございます。
これからもよろしくお願いします。

また寄らせてもらいます(^_=)

投稿: かっちゃん | 2005.12.12 07:41

かっちゃんさん、TB&コメントありがとうございます。
奥州藤原三代の記事は興味深く拝見致しました。
大河ドラマ「義経」はとうとう最終回を迎えてしまいましたが、
義経伝説はこれからも語り継がれる事でしょうね。
こちらこそ、これからもよろしくお願い致します。

投稿: なおくん | 2005.12.12 22:25

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