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2005.12.13

義経 49

義経 最終回 「新しき国へ」

1189年(文治5年)、平泉の義経の館。鎌倉軍が白川の関を破ったという報に接し、奥州藤原家のため、そして自らの新しき国の為に、改めて頼朝と戦う決意を固める義経。

鎌倉、大倉御所。白河の関を破ったものの、義経の作戦能力を恐れてそれ以上の進軍は見合わせる様にと命ずる頼朝。代わりに泰衡に対して、義経を差し出せば良し、さもなくば更なる大軍をもって攻めるという威しを仕掛けます。

度重なる頼朝からの恫喝に震える泰衡。彼は義経を交えた軍議の席で、陸路と海路を使って鎌倉軍を挟み撃ちにしようという義経の戦略を聞きますが、失敗した時の恐怖を感じて逆上し、何も決断出来ぬまま席を立ってしまいます。

京、院の御所。頼朝から奥州藤原家追討の院宣を願い出る文を受け、すでに義経追討の院宣を出しているのにもかかわらず、なぜ執拗に重ねて院宣を欲しがるのかと訝る丹後局。平知康は、それは義経を盾にしようとする後白河法皇に対する牽制ではないかと分析します。そして、どうやら頼朝の本当の狙いは義経や奥州藤原家ではなく、自分にあるらしいと気付く法皇。

「実際に鎌倉軍が白河の関を越えたのは泰衡が義経を討ち取った後の事で、如何に泰衡が優柔不断とは言え、義経が存命中に鎌倉軍に攻め込まれていたら、彼を中心に据えて戦っていた事でしょう。
ところで、秀衡が死去したのが文治3年10月29日の事であり、頼朝が全国の武者に向けて奥州征伐のための出陣を求める令を発したのは文治5年2月の事でした。この間、頼朝はドラマにあったように政治的に泰衡を追い込む事に終始しており、軍事的には動いていません。これには、今の時代では理解しにくい2つの事情が絡んでいました。すなわち、ひとつは文治4年は頼朝にとって42歳の厄年にあたる事、もう一つは鎌倉において彼の母親を供養するための五重塔を建立中であり、殺生を慎まなければならなかった事でした。これは頼朝の言葉として玉葉に記されているもので、当時はこうした物忌みが想像以上に本気で信じられていた事を伺わせます。玉葉には、この言葉に続けて、軍を動かす代わりに院宣をもって秀衡の子息に対して義経を討つように迫るという鎌倉の基本方針が示されています。
泰衡に対する院宣は、まず文治4年2月21日付けで出されています。これは、先年に出された義経追討の院宣を再確認すると共に、義経の持つ頼朝追討の院宣の無効を宣言するもので、義経の追討を実行しない場合は、官軍を差し向けて義経諸共に征伐をすると記されています。また、同年2月26日付けで、出羽国司と陸奥国司宛てに院庁下し文が出されており、両国司に対して藤原氏に命じて義経を捕らえる事を督促すると共に、もし功あらばこれに応える用意があると記されています。これに対して泰衡は、はかばかしい返事をしなかったばかりか、6月には先年の鎌倉との約束を破って直接京へ貢ぎ物を送るという挙に出ており、少なくともこの時期には鎌倉に対抗して自立の姿勢を貫こうとする意志を持っていた事が伺えます。」

平泉、伽羅の御所。頼朝からの再三の督促の文に、混乱の極みに陥った泰衡。

義経の館。戦の準備はすっかり整ったと郎党から報告を聞く義経。そこに経久が、都からうつぼがやって来たと知らせて来ます。その後ろから、2人の小者を連れて庭先に現れたうつぼ。

座敷にて義経と対面したうつぼは、吉次の、そして都の人々の名代として来たと義経に告げます。そして、静からの伝言として、命を大切に、生きていればいつかは会えるとの言葉を伝えます。

その夜、うつぼと共に夕餉の支度をする喜三太。彼はうつぼにずっとここに住まないかと誘いかけますが、煙にむせてまともな言葉になりません。そんな喜三太の様子を見て微笑むうつぼ。

うつぼを交え、宴に興ずる義経達。

鎌倉、大倉御所。花の季節になっても動こうとしない頼朝にしびれを切らした政子は、義経の力を恐れているのではなく、弟と戦う事をためらっているのだろうと面罵します。やはりあなたは情の人だと政子に決めつけられた頼朝は、遂に戦う決意を固めます。

頼朝から、院宣が無くても攻め込むと最後通牒を突きつけられた泰衡。彼はとうとう頼朝の威しに屈し、義経を差し出すという決断を下すに至ります。家臣に対し、密かに兵を整えよと命ずる泰衡。

泰衡の戦支度に気付き、何のためか、相手は誰かと泰衡を詰問する国衡と忠衡。泰衡は、院をも恐れぬ頼朝の恐ろしさを語り、藤原家を護るためには義経を差し出す外に道は無いと2人に告げます。その言葉に、賛同出来ぬと部屋を飛び出す忠衡。後に残った国衡に、泰衡は返答次第では兄弟と言えども容赦はしないと迫ります。

早朝、義経の館。義経が剣の稽古をしている所に、国衡が尋ねてきます。彼は平泉を去って、母の故郷である胆沢の北に帰ると告げ、義経主従も一緒に来ないかと誘いを掛けます。国衡の真意を測りかねつつも、自分は秀衡の遺言に従い藤原家の為に敵と戦うと、その申し出を断る義経。去り際、国衡は敵は何も鎌倉だけとは限らないと、謎の様な言葉を残して行きました。その言葉を聞き、異変を察知した義経は、郎党達に火急に備えよと下知を下します。

数日後、伽羅の御所。泰衡に呼び出された忠衡が、廊下で待ち伏せしていた刺客によって、斬り殺されてしまいます。

「当初、鎌倉に対抗する姿勢を見せていた泰衡が、態度を変えたのは文治4年10月12日付けの二度目の院宣を受けてからでした。この院宣を藤原家に携えた使者に対し、義経の所在が明らかになったので、速やかに院宣に従うという回答を与えたのです。この報が鎌倉にもたらされたのは、文治5年2月26日の事でしたが、鎌倉方では、これまでまともな回答を示さなかった泰衡が、突如として手のひらを返すような返答をしてきた事を怪しみ、おそらくこれは謀略に過ぎないだろうと信用しませんでした。
これに先立つ2月15日に、泰衡は末弟である頼衡を殺しています。既に義経を討つと決意していた泰衡が親義経派であった頼衡を討ったものとされますが、どういういきさつであったのか詳細は判っていません。ドラマにあった様に忠衡もまた泰衡に討たれていますが、その時期は義経が討たれてから二月後の6月23日の事で、やはり親義経派であった忠衡を院宣に基づき成敗したとされています。
頼朝が奥州追討の院宣を願い出たのは、泰衡がまだ義経を討つ前の文治5年閏4月21日の事でした。その後、泰衡が院宣に従って義経を倒し、忠衡を討って恭順の意を示した事もあって、朝廷は奥州討伐の院宣を出す事を渋っていたのですが、頼朝は執拗に院宣を出してくれる様に願い続けます。そして、7月7日には頼朝に対して今年は奥州征伐を思いとどまる様にとの院宣が下されたのですが、頼朝はこれを無視して院宣が無くても攻め込むという決意を示し、7月17日に奥州に向けての進軍を開始したのでした。頼朝にすれば、この期に何が何でも奥州藤原家を倒してしまいたかったのですね。奥州を平定する事は源氏にとっての宿願であり、背後を脅かす存在を取り除く事は、政権の安定の為にも是非とも成し遂げなければならない事でした。
一方、ドラマでは戦いを避けて母の故郷に帰った国衡でしたが、実際にはその後も平泉に止まり、奥州に攻め入ってきた鎌倉軍を陸奥国伊達郡阿津賀志山において迎え撃ち、3日に渡る激闘を繰り広げた後討ち死をしています。あっけなく潰え去った奥州藤原家にあって、唯一その意地と実力を見せつけたのは彼一人でした。ドラマにおいてもそのあたりの逸話を紹介して欲しかった人物だと思います。」

以下、明日に続きます。

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