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2005.11.07

義経 44

義経 第44回 「静よさらば」

堀川館。行家が義経の下を訪ねて来ています。義経が都を落ちる事を決めたと知り異議を唱える行家ですが、都を戦場にしたくないという義経の覚悟は固く、ついには自分たちだけでも西国に落ちると言い放ち、行家を黙らせてしまいます。

駿河国黄瀬川に陣を張った頼朝の軍勢。ここはかつて奥州から駆けつけた義経と対面した地である事を思い出し、感慨に耽る頼朝。

後白河法皇に拝謁する義経と行家。都を戦場にしたくないと西国行きを願い出る義経に対し、法皇は、義経を九州、行家を四国の地頭に任命し、それぞれの行き先を命じます。平知康は、法皇の一番の頼りは義経と行家であると伝え、それに答えて行家は必ず逆賊頼朝を討つと誓います。その言葉に、両人、頼むぞと言葉を掛ける法皇。

「後白河法皇から、義経が九州、行家が四国の地頭に任命された事は吾妻鏡に記されています。ドラマでもあった様に彼らの奏上に依るものなのでしょうれども、面白いのは地頭というのは鎌倉方が創設した役職であり、本来朝廷の官職では無い事です。いかに院宣とはいえ法的根拠は極めてあいまいで、それがどれだけの効果が期待出来たのかは大いに疑問なのですが、義経達は西国において自らの正統性を主張するための拠り所を求めたのですね。」

堀川館。萌に対し、鎌倉に戻る様に言い渡す義経。萌は、父からは都の義経の様子を鎌倉に知らせる様に言われていたが、自分はあくまで義経の妻として従ってきたのだと伝え、不承不承ながら鎌倉へ戻る事を承知します。

「義経の正妻である萌(郷御前)が、この都落ちの時どうしていたのかはよく判っていません。後に義経と共に奥州の地で果て、なおかつその時には2人の娘が居たとされますから、離縁されて鎌倉に帰ったという事はなかったものと思われます。ただし、義経と共に和泉国の浜に打ち上げられたのは静だった事は確かな様で、暫くの間は離れ離れになっていた様です。
平家物語に依れば、船が難破した後住吉の浜にうち捨てられた義経の女房達が10数人居て、その哀れさを見かねた住吉の神官が彼女たちを京に送り返したとありますから、その中に正妻である萌(郷御前)が居た可能性はありますね。」

静の母、磯禅尼の家。自分が居なくなれば一人になってしまう母を気遣う静に、自分の事は気にせずに義経の下に行く様に諭す母。

堀川館。今夜西国に向けて発ち、豊後に向かうと郎党達に宣言する義経。彼は、西国ならば鎌倉から遠く、頼朝との間に諍いは起こらないと考え、かつて清盛が行き来した海の道に新しい国を作ると語ります。しかし、そこはかつて滅ぼした平家の国でもありました。その事にいささかの懸念を残しつつ、200騎を率いて館を後にする義経達。

「このところの「義経」の演出には、違和感ばかりを感じてしまいます。西国ならば鎌倉から遠いから争いは起こらないと言う義経ですが、その西国に居た平家を滅ぼしたのは誰だったのでしょう?あくまで義経を平和主義者にして置きたいのかもしれませんが、これでは判断が甘いのを通り越して、物事の道理が判らないただの愚か者ですよね。彼が頼朝に示した存念とは何だったのでしょうか。鎌倉から遠く離れているから見逃してね、という事だったとでも言うのかな。こんな主人を持った郎党達が可愛そう...。
頼朝も含めてですが、本当は兄弟で戦う事を最後までためらっていたというコンセプトなのでしょうけど、ここまで来ると辻褄の合わない不自然さばかりが目立ち、演出としては失敗していると言わざるを得ないと思います。」

六条院。不意の義経の来訪に恐れおののく法皇と丹後局。そんな2人の前に畏まった義経は、別れのあいさつの為に来たのだと来意を告げます。義経が自分たちを連れて行く為に来たのではないと知った法皇達は、義経に激励の言葉を与えてやり、彼を下がらせます。その後ろ姿を見送った2人は、安堵のあまりその場にへたり込むのでした。

「この場面では、突然、怯えて震えている法皇と丹後局が画面に出て来るという不自然さがありましたが、おそらくは編集でその前の部分、例えば義経の前触れの使者が来るという場面がカットされていたのでしょうね。
吾妻鏡に依れば、義経は京を落ちるにあったて法皇に使いを出し、最後にあいさつに伺うべきではあるが、参内するにはふさわしくない軍装となっているので、このまま失礼して旅立つという口上を伝えています。
これ以前は、義経の都落ちにあたっては法皇を連れて行くであろうという観測がもっぱらで、その行軍用の兵糧を集める為に、都で略奪を働くに違いないと思われていました。ところが、実際には法皇に対して同行を強要する事なく、また一切の略奪を行なわずに都を後にした義経の行動は、都人の賞賛を浴びる事になります。西国に落ちる際に、天皇と三種の神器を道連れにしたばかりか、その屋敷に火を放って行った平家や、都にあって略奪の限りを尽くした義仲とは、水際だった違いを見たのでしょうね。玉葉に「その所業、実にもって義士と言うべきか」とあり、九条兼実は義経に対して最大限の賛辞を贈っています。」

以下、明日に続きます。

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