義経 46の3
義経 第46回 「しずやしず」その3
鎌倉、大倉御所。頼朝を首座に評定が開かれています。まず議題にされたのは義経の行方についてでした。しかし、さまざまな噂はあるものの正確な情報は全く掴めていません。頼朝は当面の策として、北陸道、山陽道、山陰道の取り締まりを強化する様に命じます。
次いで、鶴岡八幡宮のお堂の落慶祝いの余興に、都一の白拍子として名高い静の舞を奉納してはどうかという声が御家人の間にあるとの報告がなされます。御家人達の物見高さという見方をする側近達ですが、彼等の声を捨ててもおけず、頼朝に裁断を仰ぎます。
夜、静の部屋。縁側に呆然と座り、庭を眺めるともなく見ている静。彼女は御台所が渡って来るという知らせも魂の抜けた様な表情で聞き流し、政子が現れても振り向きもしません。政子は八幡宮の祝い事に舞を奉納してくれぬかと頼みに来たのですが、惚けた様な静の様子を見て、無理とは知りつつ一応話に来ただけだと言い捨てて戻ろうとします。しかし、意外にも静の答えは受けるというものでした。沈みきった静を見て、舞う事が出来るのかと訝る政子ですが、俄に目に光が戻ってきた静は、自分の事よりも舞に必要な装束、鳴り物やその一流の奏者などを鎌倉で用意出来るのかと挑戦的に問いかけます。その言葉に、望みのままに揃えてみせると自信たっぷりに応じる政子。
半月後、越前と近江の国境の山中で、追捕の兵に囲まれた義経の一行。投降を拒否した義経に襲いかかる兵士達。迎え撃つ義経主従。囲まれながらも、果敢に戦う義経。
鎌倉、鶴岡八幡宮。奉納の場の首座に着いた頼朝。庭にしつらえられた舞台の周りには、見事に色付いたもみじが植わっています。やがて、舞楽の演奏が始まり、その音楽に乗って舞台の右手からゆっくりと現れる静。薄紅の着物の上に透かしの上着を羽織り、下は白の袴を穿いて腰には太刀を帯び、烏帽子を頂いた白拍子の装束です。舞台に至った静は、静かに、しかし挑む様な視線を頼朝に向けながら一礼をし、やがて澄んだ声で歌いかつ踊り始めます。
「吉野山 みねのしら雪ふみ分けて いりにし人のあとぞこいしき」
頼朝の為の祝いの場で、事もあろうに彼が敵と追い求める義経を慕う唄を歌った静を見て、御家人達の間にざわめきが広がります。憤りを見せる時政と懸命に表情を消して黙っている頼朝。その横合いから政子が、静まるが良いと一同をたしなめます。その一言で、しんと静まりかえる八幡宮の境内。
同じ頃、山中で敵と渡り合う義経。
ふたたび舞い始める静。
「しずやしず しずのをだまきくり返し 昔を今になすもよしがな」
それは得意の舞で頼朝に挑んだ静の戦いでした。その見事な舞を見て、思わずたじろぐ頼朝。舞い終えた静を包み込む様に、風に舞う散りもみじ。
敵の首領を倒した義経。彼の周りにもまた、もみじの葉が舞っていました。
静の唄に込められた意味を知り、見事!と声を掛ける政子。敵前で自らの想いを歌い上げるという静の意気に感じた政子は、頼朝に向かって褒美を取らせて都に帰そうと提案します。奪った子の命と引き替えにという政子の言葉に黙ってうなずく頼朝。大役を終え、何事もなかったかの様にゆっくりと舞台を去る静。
敵を振り払い、越前との国境にまでたどり着いた義経一行。希望を見いだし先を急ぐ義経達。
「昨日も書いた様に、史実で静が舞を奉納したのは1186年(文治2年)4月8日の事でした。ドラマでは出産と舞の奉納の順番を入れ替えており、この舞をより劇的にしようという狙いがあった様ですね。また、季節を秋に設定した事で、もみじの演出が石原静の舞を効果的に盛り上げていました。
吉野山の唄の意味は、義経とは明言していませんが、静と義経の逃避行を考えれば、義経を慕ったものである事は明らかです。また、しずやしずの唄の大意は、静の名前をくり返し呼んでくれた義経と暮らした日々に戻りたいというものですが、ここで言うしずは静の名と同時に「賤(しず)」という身分の低い人が着る布を指しており、白拍子という様な卑しい身分の自分を大事にしてくれたという寓意が含まれています。また、おだまきは漢字では苧環と書き、糸をくるくると繰るための道具のことで、繰り返すの枕詞になっています。
吾妻鏡に依れば、舞を所望された静は、はじめは義経の妾の身でありながら大勢の前に姿を晒すのは恥辱と感じ、病であると称して断っていました。しかし、天下の名人として名高い静の舞を見ずして都に帰すのはなんとしても惜しいと政子がしきりと頼朝に勧め、頼朝から何度も催促があったためについに静も折れたのでした。
当日、鶴岡八幡宮の回廊で、左衛門の尉祐経が鼓を叩き、畠山の次郎重忠が銅拍子を奏する中で静は舞い始めます。その舞は壮観でありながら塵ひとつも立てないという見事なものでした。その場に居合わせた者は、上下を隔てず感興を催したと記されています。ただ一人、頼朝だけは別でした。「関東の万歳を祝うべきところを、反逆の義経を慕って歌うとは奇怪である」と怒りを露わにします。そのとき政子が頼朝に向かって、「あなたが流人だったとき、私は親に引き留められるのを振り切って、暗闇の雨の中をあなたの下に赴きました。また、あなたが石橋山で戦った時、私は一人で伊豆の山中に残り、あなたの消息が知れない事で日夜魂が消える思いをしていました。それを思えば、今の静が義経を慕うのは当然の事で、むしろ貞女と言うべきでしょう。ここは曲げて褒美を取らすべきです」と進言しました。これを聞いた頼朝は怒りを鎮め、暫くしてから着ていた衣を脱いで、褒美として静に取らせたとあります。
この舞によって、静の名は永遠に記憶される事となりました。義経が都で関係した女性は25人にも上ると言われますが、その中で正室をも差し置いて、静は義経唯一の女性であるかの様に、また貞女の鏡と言われる様になったのです。それほど、女の身ながらたった一人で頼朝に挑んだこの舞と歌は、人々の間に強烈な印象を残したという事なのでしょうね。ドラマの石原静もまた、内に秘めた敵意を巧みに隠しながら優美に舞って見せ、静を見事に演じきっていたと思います。」
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