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2005.11.21

義経 46

義経 第46回 「しずやしず」

雨の六波羅。囚われの身の静が詮議を受けるのか廊下を歩いています。

三条、義経の隠れ家。静救出のために話し合う義経主従。六波羅のどの屋敷に静が居るかを探る役目に、京に昔なじみが多い喜三太が名乗りを上げます。そして、静の母の磯禅師には、吉次から話を通して貰う算段になっていました。そこにあかねがやってきました。彼女は、静を鎌倉に送る動きがあるという知らせを持ってきたのです。

お徳達の協力を得て六波羅の動きを探る郎党達。結果、六波羅には間違いなく動きがあり、数日の内にも静は鎌倉に送られそうだと判かります。

静の鎌倉行きが事実と判り、その道中を遅うと決める義経達。そこに、あかねに連れられた磯禅師がやってきました。初めて会う静の母に、静を危地に追いやった事を詫びる義経。そして、禅師に静を救出した後は自分たちと一緒に平泉に来て欲しいと頼みます。しかし、禅師は静の思いを無駄にするなと、義経達の企てを止めに掛かります。静は義経達のみならず吉次やあかね達に災いが及ばぬ様にと黙秘を続けており、仮に静を救い出したとしても代わりに誰かが捕らえられる事になる。それでは静の思いを踏みにじる事になり、ここは静のためにも主従だけで都を離れよと諭すのでした。その言葉に心が揺らぐ義経。

「実際には、磯禅師は静と共に鎌倉へと下っています。妊娠している娘を一人鎌倉にやる訳には行かなかったのでしょうね。そして静の側にあって、何くれとなく娘の世話をしていた様です。ドラマで静一人を行かせたのは、彼女の健気さを際だたせる為だったのでしょうね。」

三日後、平泉に行くために山伏の装束に身をやつした義経主従。義経達との別離を悲しむうつぼ。そこに、延暦寺の高僧からの書状を持ったお徳がやってきました。その書状があれば北国の寺が力になってくれると聞き、感謝する弁慶。そこに駆け込んできた烏丸が、六波羅から輿が出ると知らせてきます。吉次は義経に磯禅師の言葉を忘れぬ様にと釘を差し、義経はそれに輿を見送るだけだと答えます。吉次達の見送りを受け、旅立つ義経達。

「義経が奥州へ逃亡する際に山伏に変装していた事は、吾妻鏡の文治3年2月10日の条に記されています。そこには同時に「妻室男女を相具す」とあり、正室を伴っての逃避行でした。また「児童等に仮る」ともあり、正室は稚児姿にでも化けていたのでしょうか。いずれにしてもそれなりの人数の一行であり、正室を伴ったとなればかなりの困難と日数を要したと想像できますね。よくもまあ無事に平泉にたどり着けたものだという気がします。」

都大路。見物する群集に混じって静の輿の様子を窺っている義経達。目の前を通っていく輿をじっと見送りながら焦燥に駆られる義経。そこに様子を見てきた駿河次郎と喜三太が戻ってきます。彼等は思いのほか警護の兵の数が少なく、山科のあたりで遅う事が出来ると報告します。それを聞き、口々に義経に決断を迫る郎党達。しかし、義経は磯禅師の言葉が胸にひっかかっており、容易に下知を下せません。そこへ烏丸に車を押された朱雀の翁がやってきました。翁は輿は空だと義経に言い捨てて一行から離れます。この行列が鎌倉方の罠と知り、警戒心を強めながら輿を見送る義経主従。そこに、静の名を叫びながら切り込んで来る一人の壮漢が現れました。その声から、佐藤忠信が静を救出する為に現れたのだと知り驚く義経達。思わず飛びだそうとする駿河次郎を押しとどめる喜三太。気が気でない様子の義経。忠信はたった一人で警護の兵達と渡り合い、必至で輿にまでたどり着こうとしますが、衆寡敵せず遂に敵の刃の前に倒れます。助けに出ようとする義経を懸命に止める弁慶達。兵達が忠信に止めを刺そうとしたそのとき、朱雀の翁が進み出て、この先で義経主従が待ち伏せをしていると訴え出ます。それを聞いて、倒れている忠信をそのままに駆け出す兵士達。その隙に手下に命じて忠信を運ばせる翁。

とある一室で、気を失っている忠信を囲んでいる義経達。意識を取り戻した忠信は、すぐ傍に義経が居る事を知り、驚きます。そして静を守れなかった事、今また救出に失敗した事を詫び、叱ってくれと願います。義経は一人で事を起こそうとした無謀を叱ってそれに答え、それ以上責める事はしませんでした。三郎からこれから平泉に向かうと聞き、忠信は平泉にこそ新しい国の基があると言い残して息を引き取りました。

その夜、京の都を離れる義経達。峠から京の灯りを見て、感無量の義経主従。

「佐藤忠信が亡くなったのは、1186年(文治2年)9月22日の事でした。この日、糟屋の籐太有季によって、まず郎党の一人である堀景光(ドラマには出てきません)が生け捕りにされています。そして、同じく有季が中御門東洞院で忠信を襲い、自刃に追い込んだのでした。
忠信は、このころ義経とは離れて京に潜伏していました。そして、かねて密通していた青女(宮仕えをしていない人妻)に文を出したのですが、その女が夫にその文を見せ、さらに夫が有季に通報したことから居場所がばれ、襲われるに至ります。吾妻鏡に忠信は「本より精兵」とあり、2人の郎党と共に有季の手勢と良く戦い善戦を見せました。しかし、所詮は多勢に無勢で、有季が数に任せて攻め掛かったところ、遂に忠信とその郎党は自刃して果てたのでした。吾妻鏡には「勇敢の士」とも記されており、武勇に優れた人として認められていたのですね。一説には鎌倉に送られた忠信の首は、頼朝が義朝の供養の為に建てた勝長寿院の裏手に葬られ、丁重に供養されたとも言います。敵ながらその忠義と武勇によって、鎌倉の御家人達から愛された人だったのでしょうね。」

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