義経 43の2
義経 第43回 「堀川夜討」その2
暗闇の都大路を走る怪しい人影。
堀川館。具足を着込んだまま、仮眠をしている郎党達。脇息にもたれて、うたた寝をする義経。
堀川館の門前に集まった土佐坊昌俊とその手勢。狙いは義経の命と下知を下す昌俊。
2人の手下が塀を乗り越えて門の閂を外し、その開いた扉から門内へとなだれ込む手勢。その気配に気付いた義経の郎党達。その郎党達が潜んでいる部屋の前に展開した昌俊の手勢。
その頃、まだこの異変に気付くことなく自室で眠り続けている義経と、彼に寒さ避けの着物を被せてやっている静。そのとき、異様な気配を感じたのか、義経が不意に目を覚まします。
「ドラマでは昌俊の軍勢が堀川館に攻め込んだ事になっていますが、吾妻鏡や平家物語では義経がわずかな手勢を率いて討って出たと記されています。義経記では、喜三太を初めとする郎党達が門外の敵と戦ったとされていますね。いずれも共通しているのは義経側が劣勢だった事で、最も異なるのは静の役割でしょう。吾妻鏡には静は登場せず、平家物語では打って出ようとする義経に鎧を投げて寄越したとされています。最も劇的なのが義経記で、敵の上げる鬨の声を聞いて危機を悟った静は、寝ていた義経を揺り動かして起こそうとしますが、深酒が過ぎたた義経は容易に目を覚まそうとはしません。そこで彼女は唐櫃から鎧を取り出して義経の上に投げかけ、ようやくの事で彼の目を覚めさせる事に成功したのでした。随分と乱暴な気もしますが、とっさの処置としては見事なものと当時の人は考えたのでしょうね。」
扉を蹴破って外に飛び出した郎党達。敵の人数はおよそ倍。その最中に飛び込んで、阿修羅のごとく戦い始めた郎党達。そこに駆けつけてきた義経。その背後から、長刀を持って付いてくる静。義経は静に下がっている様に申しつけますが、彼女は義経の敵は自分にとっても敵であり、一緒に戦うと言う事を聞きません。静の意を汲んだ義経は喜三太に静の護衛に付く様に命じ、自らは敵の中へと切り込んでいきます。主従揃って、敵と戦う義経達。そのとき、長刀を持った萌が奥から駆けつけてきました。勇敢にも敵に斬りかかっていく萌ですが、たちどころに押し倒されてしまいます。その危機を救った喜三太と、その敵を切り倒した義経。彼は静に萌を奥に連れて行くように命じ、静はその声に応じて倒れている萌を助け起こします。静達を守る義経の前に現れた昌俊の手下達。彼らは、吹き矢、手投げの矢といった異質な武器の使い手でした。不意の飛び道具の攻撃を危うく交わし、手投げの矢を投げ返す義経。その義経の前に現れた昌俊は手下達をまとめ、義経主従と対峙する形を作り上げます。依然として人数は昌俊側が圧倒的に多く、まともに対峙すると義経主従の不利が際だちます。義経危うしと見えたその時、弁慶と忠信が駆けつけてきました。強力な援軍を得て、活気づく義経主従。そして、さらに行家が手勢を率いて援軍に駆けつけてきました。人数の上でも優位に立った義経達は、昌俊の手勢を次第に追いつめていきます。ついには弁慶と昌俊の一騎打ちとなりますが、力で勝る弁慶は見事に昌俊を生け捕りにしてしまいました。
「最初に敵中に飛び込んで行ったのは、平家物語では義経ただ一人、吾妻鏡では義経と佐藤忠信等複数の郎党、義経記では喜三太ただ一人となっています。弁慶は吾妻鏡には登場せず、平家物語と義経記ではいずれも遅れて駆けつけた事になっています。ドラマでは静と萌を守って活躍した喜三太ですが、義経記では義経に従うただ一人の郎党として大活躍をしており、最初は弓を取って戦い、弁慶達が駆けつけた後も主戦力として昌俊の手勢を打ち払うという手柄を立てています。
行家が加勢に駆けつけた事は吾妻鏡や玉葉にあり、実際には彼の加勢によって義経方が勝利を収めた様ですね。しかし、やはり彼では絵にならなかったのでしょう、義経記ではこれを弁慶に置き換えてしまっており、行家の活躍はあまり後世には伝わっていない様です。
平家物語と義経記に依れば昌俊は一旦は鞍馬山まで逃げており、平家物語では鞍馬法師が、義経記では弁慶がそれぞれ昌俊を生け捕りにしたとあります。そして、六条河原で昌俊を斬った人物について記述があるのは義経記だけで、それに依れば駿河次郎となっています。」
行家は、昌俊が鎌倉の御家人の家来であると知ると、この討ち入りが頼朝の意を受けての事であろうと昌俊を決めつけます。そして、この仕打ちが頼朝の存念である以上、ここで決起せねばもののふとして笑い者になると義経に詰め寄りますが、義経は黙って行家を見返しただけでした。そんな義経を侮蔑するかの様につばを吐き捨て、無言で去っていく行家とその手勢。
弁慶になじられ、誰に頼まれたと次郎に詰め寄られる昌俊ですが、彼は何も言おうとはしません。義経はそんな彼をじっと見つめ、この者は何も言うまい、言えば言ったで裏切りになり、そこまで非道ではあるまいと昌俊の名誉を重んじてやります。その言葉に気持ちを動かされた昌俊は、名を明かさずとも察しは付いているはずと義経に告げます。衝撃を受けた義経は無言でその場から去ろうとしますが、昌俊はその背中に向けて鎌倉での内幕を明かします。彼が言うには、内々で義経を討ち果たす者が募られたのですが、義経の武勇を恐れたのか、それとも平家討伐の功ある義経を憚ったのか、誰一人として名乗りを挙げる者はいませんでした。その中で自分が名乗り出たのは褒美が欲しかったからであり、自分がどうなろうとも母に所領が与えられる、その母のために戦ったのだと昌俊は涙に暮れるのでした。そんな彼を痛ましげに見つめ、奥へと引き取る義経。
「吾妻鏡に依れば、ドラマで昌俊が言っていた様に義経追討の役目を買って出る御家人は一人も居なかった様ですね。これはドラマにもあった様に義経の武勇を恐れた事もあったでしょうけれども、闇討ちという行為が彼らの美意識に適わなかったという側面もあったと思われます。そして何より義経は所領を持っておらず、彼を討ったとしてもその見返りがほとんど期待出来ないという事で、御家人達にとっては魅力のある任務ではなかったものと思われます。そんな中で、昌俊は彼の老母と嬰児に対して所領を下される事を条件に、この仕事を引き受けたのでした。しかし、彼に与えられた期日はわずか九日という厳しいもので、頼朝にすれば一日も早く義経を亡き者にしたいというあせりがあった様な気がします。」
義経に向かって、昌俊の動きを知りながら隠していた事を詫びる弁慶ら郎党達。義経は、都を騒がせ、検非違使の館に攻め込んだ昌俊を許す事は出来ないとして、死罪とする事を決めます。伊勢三郎は昌俊の首を斬った後の鎌倉の反応を気に掛けますが、駿河次郎は事がここに及んだ以上、昌俊をどうしようが鎌倉の意向は変わらないと言い、義経もまたその言葉に同意します。そして、昌俊を斬る事で自分の存念を頼朝に示すと、初めて兄を呼び捨てにしてその覚悟の程を郎党達に伝えたのでした。
翌朝、昌俊の首を自らの手で切り、頼朝に対して手切れの意思を示した義経。
六条院。義経は後白河法皇に拝謁して事の顛末を伝え、今回の所業は朝廷への反逆行為であるとして、頼朝追討の院宣を受ける事に成功します。
「義経から頼朝追討の印宣を迫られた後白河法皇は、相当に困った様です。吾妻鏡に依れば、京を守る軍勢としては義経の手勢の他に無く、この申し出を断ればどんな事をしでかすか判らない、よってまずは彼に対して院宣を下し、その後鎌倉の頼朝に向かって使者を出して事の子細を伝え、その怒りを抑える事にしたとあります。法皇とすれば負けると判っている義経に対して院宣を出したくはないものの、もしこれを断れば彼は平家に倣って自分と天皇を引き連れて西国へ逃げるかも知れず、それを防ぐ為には院宣を出さざるを得ないのでした。しかし、本当に手強い相手は頼朝であるとも判っており、これと手を繋いでおくためにあらかじめ使者を送って、院宣を出したのはやむを得ない仕儀だったのだと事情を伝えておこうと考えたのです。要するに初めから義経を裏切るつもりだったのですね。朝廷の常套手段とはいえ、ここまで来ると義経が哀れに思えてきます。」
鎌倉、大倉御所。義経が自らの手で昌俊の首を刎ねた事、頼朝追討の院宣が義経と行家に対して下された事を知り、もはやこれまでと義経を討つ決意を固める頼朝。彼は自ら兵を率い、鎌倉を出陣しました。
「ドラマで頼朝がもはやこれまでと言っていますが、昌俊の事は政子が進めた策であり、彼自身は係わっていないという設定でした。ですから、頼朝はずっと義経を討つ事をためらっていたのですが、事ここに至って初めて自ら討つ事を決めたという事なのでしょうね。でも義経を散々追いつめた挙げ句に刺客として昌俊を送っておきながら、その首を刎ねたからといって鎌倉に対する敵対行為だと憤るという設定もどうかと思いますね。どうもこのあたりの設定は判りにくいものになっています。」
堀川館。義経を訪ねてきた吉次とうつぼ。うつぼはもう誰も死ぬところを見たくないと、義経が頼朝と戦う事に反対します。吉次の話によれば、鎌倉の軍勢はおよそ10万。勝算は無いという義経に向かって吉次は、平泉を頼れと助言します。秀衡に使いを出せば必ずや軍勢を差し向けてくれるという吉次ですが、義経はそれを断ります。今回の戦いは、頼朝と自分のそれぞれが思い描く国の有様を掛けた戦いだからというのがその理由でした。
夕刻、思い悩んでいる様子の義経に話しかける弁慶。義経は都を戦場とする事にためらいを感じていました。都が戦場になると聞き驚く静に、小勢で大軍を迎え撃つには勝手知ったる都に引き入れて戦うよりないと説明してやる弁慶。義経は鎌倉勢を都に引き入れれば勝機も生まれると考えていたのですが、その一方で都人や恩ある人々を戦に巻き込んでしまう事が避けられないと悩んでいたのでした。
近隣のもののふを説いて回っていた行家が、堀川館に帰ってきました。彼の奔走もむなしく、誰一人として味方に付く者は居ませんでした。熊野の湛増もまた陸に船は上げられぬと援軍を断ったと知り、怒りのあまりに自ら説得に赴くと言う弁慶を押しとどめる義経。彼は行家と郎党達を置いて、一人で思案がしたいと奥に籠もります。
六条院。義経達に味方するものが居ないと知り、慌てる法皇達。義経達の軍勢はわずかに300、対する鎌倉勢は10万。とても義経に勝ち目は無いと判り、院宣を下した事を後悔する丹後局。勝ちに乗じた頼朝が法皇に対してどう出るかと危惧する知康に、不安に震えながらもどうすればよいかと思案を巡らす後白河法皇。
夜、堀川館。静の奏でる笛の音を聞きながら思案を巡らす義経。彼は遂に決意を固め、郎党達を集めます。集まった郎党と静を前に、いったん都を落ちると伝える義経。彼は都を戦場にして焼く事を避ける事にしたのでした。義経の決意を聞き、どこまでも付き従うと誓う郎党達と静。
「ドラマでは義経が都で戦う事が有利な様に言っていましたが、実際には京は守るには不向きな地形であり、寡勢である義経が戦場に選ぶはずもない場所でした。すなわち京の七口と言われる様に進入路が四方八方にあり、攻める側は好きな場所から攻め込めるのに対し、守る側はあらゆる場所に兵を裂かなければなりません。それだけでも不利なのに、南は宇治川があるだけでそこを突破されればそれ以上防ぐ場所も無く、容易に進入を許してしまう事は、義仲を破った義経自身が証明している事です。
実際にはどうだったかと言うと、義経は九州、行家は四国の地頭として任命する旨の院宣を貰っており、二人して西国に落ちて再起を図る予定でした。ただし、この時期には既に鎌倉の支配が西国にも及んでおり、この両人が無事にたどり着いて院宣を根拠に活動したとしても、かつての平家の様な再興が可能であったかどうかについては、大いに疑問があったと言わざるを得ないでしょうね。」
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