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2005.10.10

義経 40

義経 第40回 「血の涙」

満福寺にて、寺の僧から「腰越状」を大江広元の下に届けてきたと聞く義経主従。義経はこれ以上の事はせず、広元のとりなしを待つ事にします。

大倉御所、広元の部屋。公文所の長官として、執務に励む広元。彼の下には様々な書状が届けられており、その一つ一つに目を通して行きます。その中に源義経の名が記された書状がありました。その意外な名を見て驚く広元。

政子の下に、義経からの書状を届ける広元。彼は頼朝に見せる前に、政子に相談する為に訪れたのでした。政子は書状にざっと目を通すと、頼朝には見せるなと告げ、広元には目を通しておくようにと伝えます。

2日後の夕刻、満福寺。寺の門内で鎌倉からの使者を待つ義経と弁慶ですが、現れたのは海藻を届けに来た千鳥でした。弁慶は庫裏に向かう千鳥を追いかけ、鎌倉に魚を売りに行くときには自分も一緒に連れて行くように頼みます。義経のために、鎌倉の様子を見に行こうと考えたのでした。

大倉御所。義経の処分についての評定が開かれています。勝手に官位を得て、未だにそれを返上せぬ義経を鎌倉に入れる訳にはいかないとする北条時政、義時の親子ですが、広元は後白河法皇に対する配慮も必要かと発言します。政子はそれを受け、兄弟なのだから会ってはどうかと頼朝に勧めますが、頼朝はこの際兄弟の事は関係がないと政子の意見を退けます。そこで政子は、広元に向かって義経の書状が届いたはずと水を向けます。口止めされた筈の政子から、突然書状の事を言われて慌てる広元ですが、頼朝に見つめられ、時政から問いかけられて、ついに義経からとりなしを願う書状が届いている事を認めます。政子は、その書状を読むかと頼朝に問いかけますが、頼朝は読むには及ばないと答えます。

時政の部屋。時政と義時に向かって、これで頼朝が義経の書状を読む事はないと言ってほくそ笑む政子。不可解な彼女の振る舞いは、すべてこの為に打った芝居でした。政子は頼朝と義経が手を携えて、源氏の強固な国が出来てしまう事を恐れていたのです。鎌倉のため、そして北条の為には、源氏に大きな力を持たせてはならぬと父と弟に告げる政子。

「腰越状に頼朝がどう反応したのかについては、吾妻鏡に依れば、その書状を読んだ頼朝は、「何もはっきりした答えは示さず、追って沙汰するとのみ答えた」とあるだけで、詳しい事は何も判っていません。また、このドラマの様に、政子が間に入って工作したという事もどこにも書かれていません。ただ、腰越状は後に吾妻鏡を編纂した北条氏が創作したものという説があり、仮にその説が正しいとすれば、義経に対する不可解な処遇は、実は北条氏の策謀に基づく結果であるという事になるのかも知れません。腰越状は、それを覆い隠すための隠れ蓑という訳です。義経の書状を読んだ頼朝が、自らその処遇を決意したという筋書きですね。無論、これはあくまで仮説の一つに過ぎず、何の証拠もありません。」

満福寺で、経を上げている義経。そこに弁慶がやってきて、千鳥に付いて鎌倉へ赴き、様子を探ってきたいと申し出ます。しかし、義経は一言「待とう」とだけ言って、弁慶の申し出を退けます。

京、六条御所。平知康から、義経が腰越に止められ、鎌倉に入れないという報告を聞く後白河法皇。法皇の使者たる義経を拒絶するとは、法皇をないがしろにするも同然と憤る丹後の局。遠く鎌倉にある頼朝に対して、有効な手を打てない事に苛立ちを隠せない法皇。

鎌倉、大倉御所。一人もの思いに更ける頼朝の下に、広元がやってきます。彼は平宗盛親子の処遇について頼朝に尋ね、いっそ京に返してはどうかと意見を述べます。頼朝は、法皇に処分を委ねるのも面白いが、急ぐ事はないと答え、代わりに義経の書状の事を広元に聞きます。広元は、懐からその書状を取り出し、頼朝に向かって差し出します。広元の本当の用件は、この書状の事でした。自分の下に置いておくにはまりにも重すぎるため、頼朝に渡すつもりで持ってきたのでした。広元の残した書状をじっと見つめる頼朝。

軟禁されている宗盛の部屋。扉を薄く開けて、外の様子を窺っている宗盛。誰かが近づいてくる気配を感じた彼は、慌てて扉を閉め、自分の座に戻ります。そこへ、扉を開けて入ってきたのは、息子の清宗でした。清宗は、頼朝が目指す鎌倉政権の姿を知って、宗盛に知らせに来たのです。かつて清盛が福原に築こうとした、朝廷や南都北嶺の寺院からの掣肘を受けない武家による政権と同じものを、頼朝はこの鎌倉の地に築こうと考えているらしいと告げる清宗ですが、宗盛はそのようなものは幻であると答え、清盛はその幻に食い殺された様なものだと苦い顔でつぶやくのでした。

「頼朝は、先に清盛が居てくれたおかげで鎌倉政権を打ち立てる事が出来たと言えるのでしょうね。武家による政権はこの国始まって以来の事ですから、前例の無いところから始めなければならなかった清盛はさぞかし大変だった事でしょう。平家は独立した政権とは成り得ず、結果として朝廷に取り込まれた形となり、さらにはそれが一門の増長を招いて自滅の道を辿る事に繋がったのですが、清盛が強行しようとした福原遷都には、そうしたしがらみから抜け出そうという意味が含まれていたのでしょうね。しかし、朝廷のみならず彼の意図を察する事が出来ない一門の者からの反対にも遭い、福原遷都は失敗に終わります。
頼朝は、こうした清盛の残した前例をつぶさに見ていたのでしょう。初めから京とは距離を置き、朝廷に取り込まれる事が無いよう独自の行政機構を打ち立てました。失敗した平家と同じ徹を踏まないようにすることで、宗盛の言う幻に食い殺されずに済んだのですね。」

満福寺。小さな仏像を彫っている佐藤忠信。めかごを編んでいる喜三太と鷲尾三郎。そこに駿河次郎と伊勢三郎が、雉と瓜を手に入れて帰ってきます。ご馳走を前にはしゃぐ郎党達。その声を聞きつけて、奥から義経と弁慶がやってきます。瓜やめかごを見て感心する義経に、何もする事が無いので、せめてめかごでも編んでいたいと答える喜三太ですが、次郎達が慌てて喜三太をたしなめます。何もしてやれぬと謝る義経に、主が家来に謝ることはないとかえって怒る三郎。それをおどけてとりなす次郎。弁慶は、忠信が掘っていた仏像を見て、継信に似ていると声を掛けます。義経もまたその仏像を手に取り、継信だとつぶやきます。

夜、満福寺門前。村人になりすまし、鎌倉へ忍び込もうとしている次郎、三郎、喜三太、鷲尾三郎の4人。それを引き留めようとしている忠信。彼らが門前で揉めていると、弁慶がやってきます。次郎達は、義経に心を寄せる御家人達に、頼朝への取りなしを頼みに行こうと考えたのですが、弁慶は今騒ぎを起こしてはかえって義経に迷惑が掛かると彼らを引き留めます。その頃、自室にて一人黙然と座る義経。

「ドラマでは、義経の為にひたすら耐える郎党達でしたが、吾妻鏡に依れば、伊勢三郎が頼朝の妹婿である一条能保の家来と争いを起こして刃傷沙汰に及んだとあります。その場は能保と義経のとりなしによって無事に収ったのですが、この事が頼朝の耳に入って不興を買ったと記されています。伊勢三郎は義経の私的な郎党に過ぎず、自分の身内である能保の家来に対して喧嘩を売るとは、増上慢も甚だしいと考えたのですね。このこともまた、義経に対する処遇を悪くした一因であると考えられています。」

同じ時刻の大倉御所。一人座して、黙考する頼朝。ふと彼が向けた視線の先には、義経の書状が収められた文箱がありました。座を立ち、文箱を手にして、その結んだひもを解く頼朝。しかし、彼は暫くためらったのち、開けないままに文箱から手を離してしまいます。

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