義経 40の2
義経 第40回 「血の涙」その2
雨の満福寺。降りしきる雨を見つめる義経と、駕籠編みや網の手入れなど、それぞれの作業にいそしむ郎党達。
そんな中、伊勢三郎が義経に向かって、手紙はまだ頼朝の下には届いていないのではないかと話しかけます。そして彼は、一度大江広元に確かめてみてはどうかと提案しますが、義経は広元に対して催促がましい事は出来ないとこれを退けます。そして、義経は返事が無い事がすなわち頼朝の回答で、自分はもう鎌倉に必要のない人間なのかもしれないと言い出しますが、郎党達は頼朝の仕打ちこそ納得がいかぬと憤ります。義経はそんな彼らに、鎌倉の御家人を離れ、主を失い、所領も望めぬ事になる時が来る事を覚悟をしておいてもらいたいと告げます。佐藤忠信は、そうなれば平泉に行けば良いと言いますが、義経はそれでは自分と藤原秀衡が最初から通じていたと頼朝に疑われる事になるため、平泉には行く事が出来ないと答えます。どこまでも頑なな義経に対して、弁慶は主が無いなどと言う無かれ、我らには九郎義経という主がいるのだと迫り、皆を喜ばせるのでした。
御霊神社に参拝したあと、稲村ケ崎へと足を向けた頼朝。彼は海の向こうに見える岬をみつめ、あのあたりが腰越だなと、供をしている北条義時に確かめます。まるで義経の姿を探すかの様に、岬をみつめ続ける頼朝。
夜の大倉御所。居室で義経の手紙が入っている文箱を前に座っている頼朝。彼は世話役の侍を下がらせると、おもむろに文箱に手を伸ばし、閉じてあった紐をほどきます。そして、箱の中から義経の手紙を取り出し、明かりに照らして読み始めました。義経が切々とその心情を訴える文を読みながら、弟と過ごした日々の事を思い浮かべる頼朝。そして最後まで読み終えた頼朝は、なぜそこまで情を欲しがるのか、情はならぬという自分を何故苦しめるのかとつぶやきます。そして遂には、読まなければよかったと涙を流すのでした。
「この場面の頼朝は、およそ理知的で冷徹なイメージとはほど遠い姿で描かれていました。政子の言うとおり、実は身内の情を人一倍欲する人物だったのですね。
しかし、実際の頼朝の反応がどうだったのかは判りませんが、仮に腰越状が実在し、それを頼朝が読んだとすれば、恐らくは逆の反応を示したのではないかと思われます。すなわち、頼朝がその最大の罪として問い質している無断任官について、義経は責任を感じるどころか源氏一門の誉れであると記しており、頼朝の真意を少しも理解していない事が判ります。それでありながら兄弟の情に縋ろうとしているのですから、頼朝としては面白くない文だった事でしょう。司馬遼太郎の「義経」にあるとおり、頼朝はむしろこの手紙を見て、かえって義経と決別する事を決意したのではないかという気がします。」
同じ頃、満福寺の縁側に出て、海を照らす満月を見つめる義経。
翌日、大倉御所。政子、時政、広元ら側近を前に、義経に対する処分を言い渡す頼朝。それは、無断で官位を頂き、しかも未だにそれを返上せず、何かに付けては情実に縋り、公私のけじめをつけようとしない義経を許す事は出来ない、よって鎌倉には入れないというものでした。してやったりとほくそ笑む政子と時政、政治的判断から頼朝を支持する広元など、それぞれの思いを胸に秘めたまま、黙って頭を下げる側近たち。
満福寺。待ちに待った鎌倉からの使者がやってきました。使者として訪れたのは時政です。時政は、頼朝の命として、平宗盛、清宗親子を伴って、都に立ち返るように命じます。はるばる都からやってきたのにも係わらず、頼朝に会えないのはどういう事かと食い下がる弁慶ですが、時政は何も聞いていないとこれを一蹴します。そして、他には言葉はなかったのかと縋る義経に、支度が整い次第発つようにと命じられただけだと答える時政。呆然と言葉を失った義経を尻目に、時政は鎌倉へと帰っていきます。
夜の満福寺。一人部屋の中で佇む義経。やがて彼はひざまずき、悲しさと悔しさから拳を握りしめ、兄上!と絞り出す様な声で小さく叫び、涙するのでした。
その部屋の外で、中の様子を気に掛けている郎党達。義経の心情を思いやり、涙に暮れている弁慶。
夜明けまでまんじりともせずにいた義経は、やがて外で待つ郎党達の前に姿を現し、もはや立ち去るだけだと彼らに告げます。
満福寺。杢助に世話になったと礼を言う郎党達。
千鳥の家。千鳥に向かって、良い婿を見つけろと告げる弁慶。そんな彼に縋り付き、自分は終生弁慶の嫁だと答える千鳥。
満福寺。宗盛親子に出発を促す義経。その義経に、自分たちは何のために鎌倉に来たのかと問いかける宗盛。それには答えず、軽く頭を下げるだけの義経。義経もまた、宗盛と同じ気持ちを抱いていたのでした。
様々な思いを胸に、腰越を後にする義経。遠くからその義経を見送る頼朝。
「ドラマでは、憤然とした表情のまま腰越を後にした義経でしたが、実際には「鎌倉に恨みを抱く者は自分に付いてこい」と捨てぜりふを残して去って行ったと吾妻鏡に記されています。これは事実上の頼朝に対する絶縁宣言であり、このことが更なる事態招く事になっていきます。それにしてもこんなせりふを吐くとは、義経が頼朝に対して抱いた恨みは、相当に深いものがあったものと想像できますね。」
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コメント
頼朝が腰越状を実際読んだのか、それとも読まなかったのか・・・・真実を知りたいですね。
投稿: しずか | 2005.10.16 09:51
しずかさん、コメントありがとうございます。
吾妻鏡をそのまま信じれば読んだはずなのですが、
「腰越状」の存在そのものに疑いがもたれていますからね。
本当のところはどうなのでしょう?
こればかりは永遠の謎として残っていく事でしょうね。
投稿: なおくん | 2005.10.16 12:29