義経 35の2
義経 第35回 「決戦・壇ノ浦」その2
1185年(元暦2年)3月24日、夜明けと共に動き出した源平両軍。船上で、能子が白布を持ってくれただろうかと気遣う弁慶と義経。
崖の上から戦場を見下ろしているお徳と烏丸。突如として聞こえてきた武者押しの声に、いよいよ戦が始まった事を知ります。
「壇ノ浦の戦いに参加した源平の兵力には諸説があり、まず平家物語に依れば、平家方が1000艘、源氏方が3000艘となっています。そして、源平盛衰記では平家方500艘、源氏方700艘、吾妻鏡では平家方500艘、源氏方840艘とされています。こうしてみると、平家物語の数字は過大に過ぎるという感じがしますね。おそらくは、吾妻鏡にある数字が真実に近いものだったと思われます。
また、戦が始まった時刻にも諸説があり、平家物語では午前6時頃、吾妻鏡では始まった時刻は記されていませんが、昼頃には戦闘が終了したとあります。ところが、玉葉では正午に始まった戦が午後4時頃に終わったと記しており、本当のところはよく判っていません。潮の流れを重視するなら、早朝の日の出と共に始まった戦が、夕方日の入り前に終わったと考えるのが妥当という事になります。」
後の戦いはない、存分に戦えと味方を鼓舞する義経と、鬨の声を上げてそれに答える郎党達。目的は三種の神器を取り戻し、安徳帝を無事に迎える事であると全軍に伝え、押し出せ!と下知を下します。
東に向かう潮流に乗り、一気に源氏勢に襲い掛かり海に沈めよ、潮目が変わるまでが勝負であると下知する知盛。彼もまた、今日を限りの戦いと思って、一歩も引くな!と全軍を鼓舞します。
「知盛が乗って東進する潮流は、平家物語に「たぎり落ちる潮」と表現されているもので、黒板勝美博士の研究に依れば最大8ノット(14.816km/h)に達するという急流だったとされます。私は早鞆の瀬戸には行った事はないのですが、「しまなみ海道」の中程にある伯方島の「船折の瀬戸」で、最大10ノット(18.52km/h)に達するという潮流を見た事があります。その有様は海と言うより川の急流で、波立つ流れに乗せられた遊覧船が、見る見るうちに遠ざかって行くのが印象的でした。そんな流れに乗って攻め寄せる平家軍はさぞ有利だっただろうと思われるのですが、実際には違っていた様です。
その後の研究で、早鞆の瀬戸の流れが8ノットにも達するのは年に2回ある大潮の時だけであり、普段は最大でも3ノット(5.556km/h)程度に過ぎない事が判っています。そして、壇ノ浦の戦いの主戦場は早鞆の瀬戸から東に広がる海域であり、そこでの潮流はせいぜい1ノット(1.582km/h)を越える程度ではないかとされます。
無論、この当時の海戦において潮流は無視できないものであったのでしょうけれども、それだけで勝負が決する様な要素を持っていたという訳ではなさそうです。」
激しく飛び交う弓の雨。次々に海に落ちていく兵士達。激戦の最中に、弁慶が一艘の唐船を見つけ出します。甲板には鮮やかな着物姿で伏せる人の姿が見え、あたかも主上を守る女人達が乗っているのかの様です。義経は女人を傷つけてはならぬと弓を射る事を止め、さらに様子を見るべく唐船へと近づいていきます。そのとき、着物を被って唐船の甲板に伏せていた兵士達が俄に立ち上がり、義経の座乗する船に向かって一斉に矢を放ちました。さらに、周りを囲んだ平家の軍船からも矢が放たれ、知盛の策に陥った義経達は一気に危機に陥ります。弁慶達の活躍により、かろうじて危地を脱した義経でしたが、今度は平家の軍船が接舷し、敵兵が乗り込んできました。船上での白兵戦を戦いながら、主上の乗った船を探せと下知する義経。
「平家物語にある戦の展開はドラマとはかなり違っています。まず、義経に先陣を認められなかった梶原景時ですが、実戦になると抜け駆けをして先陣を果たしています。彼は潮の流れの弱い沿岸部に船を進め、近くに居る平家方の船に熊手を掛けては引き寄せて乗り込み、散々にこれを打ち破るという成果を上げています。
一方の義経は、一軍の先頭に立って戦っていたのですが、盾も鎧も効かぬ程に散々に射すくめられ、一時は平家方が勝ったと鬨の声を上げる程の苦戦を強いられていました。
また、御座船の罠については、実はドラマの様には功を奏していません。それは阿波民部重能の裏切りに遭ったためで、源氏方に寝返った重能は囮の御座船には目もくれず、大将軍の乗る船を目がけて一直線に攻め掛かったのでした。このため、源氏方にせっかくの謀が知れ、知盛の計略が生きる事はありませんでした。知盛は、やはり重能を斬っておくべきだったと後悔したのですが、時既に遅かったのですね。」
戦況は平家方の有利に展開しています。潮の流れに乗り、また武者達も武勇を奮って戦い、源氏方を圧倒していました。その苦しい戦況の中、水手同士が争うのを見た義経は、佐藤忠信に漕ぎ手を射よと命じます。その声に応じて、一斉に平家方の水手、梶取に向けて矢を放つ源氏方。次々に倒されていく味方の水手達を見て、戦の習いを知らぬのかと憤る知盛。この義経の下知に驚いたのは、平家方ばかりではありませんでした。家臣から義経が水手、舵取を射ていると聞き、何故掟破りをと不快感を露わにする梶原景時。
「船の漕ぎ手である水手(かこ)、文字通り舵取りを受け持つ舵取(かんどり)は、普段は漁師などをしている非戦闘員であり、当時の戦の不文律として、これを攻撃してはならないとされていました。陸上でも騎馬武者の乗る馬を射るのは卑怯とされており、このころの武士の美意識の現れとされています。当時の船は、両舷に張りだした「せがい」と呼ばれる部分に水手が座って船を漕ぐという構造で、そこには防備と呼べるものは何も無い剥き出しの状態でした。そして水手は防具を何も付けておらず、これを射殺すのは容易な事でしたが、それだけにこの上無く卑怯な事とされていたのです。ドラマで知盛が憤り、景時が怒りを見せたのは当然の事でした。
一方で、そうした常識を破って新機軸を打ち出して行くのが義経の真骨頂であり、彼にしてみればそうした弱点を晒しながら戦っている事が不合理なのだと考えたのでしょうね。その評価の当否はともかく、義経の取ったこの処置がこの戦いの帰趨を決めた要因になった事は確かな様です。」
思わぬ攻撃に浮き足立った平家方に、さらなる打撃が待っていました。赤旗を掲げて参戦していた熊野水軍が、俄に赤旗を捨てるや白旗を掲げて寝返ったのです。味方の裏切りに、歯噛みをして悔しがる知盛。
「熊野水軍については、戦いの途中から裏切ったのではなく、戦場に着いた時から源氏方に付く事を明示していました。平家物語に依れば、彼らは熊野権現の神様の一つである若王子の御神体を船に乘せ、旗の横上には金剛童子の像を書いて戦場に現れたため、源平共にこれを伏し拝んだとあります。この時点ではどちらの陣営も自分達の味方が現れたと思っていたのですが、彼らが源氏方に付くと明示したために平家方は著しく落胆したと記されています。
戦いの最中に裏切ったのは先にも書いた様に阿波水軍で、彼らの裏切りをきっかけに、平家方の裏切りが相次ぐ様になったと記されています。」
昼近くになり、潮流が止まる時刻が来ました。田浦の浜に陣を敷き、戦況を見つめていた範頼は、やがて形勢が入れ替わると見て、浜にやってくるであろう平家の船を、一艘も陸に近づけるなと下知を下します。
ここが戦況の変わり目と見た義経は、全軍に突撃を命じます。懸命に反撃を試みる平家方。義経は激戦の最中にあって、冷静に主上の乗った船を探していました。そして、周囲を兵船に守られた一艘の屋形船を見つけた義経は、あれこそ御座船と見定めて接近を命じます。近づく義経の船を見て、一斉に矢を放つ警護の船。降り注ぐ矢の中、怯むな!と味方を鼓舞しながら、御座船へと突き進む義経達。御座船の中には、安徳帝とそれを守る領子、明子、そして能子が居ました。周囲を源氏方に囲まれた事を知った能子は、源氏の船を散らすまじないをしたいと領子に願い出ます。それは、義経から伝えられた白布を使う事でした。かねて用意してあった白布を持ち、矢が飛び交う船端へと飛び出した能子は、白布を身に纏い義経の船に向かって立ちます。それを見た義経達は、相手が能子である事を知り、矢を射てはならぬと味方に下知を下します。しかし、御座船に近づく義経の船を見て、他の船が一斉に集まりだし、今にも攻撃を仕掛けようとします。味方を止めようにも下知は伝わらず焦る義経。そのとき、安徳帝が部屋の中から現れ、能子の横に立ちました。それに気付き、慌てて安徳帝に白布を巻き付け、必死の思いを込めて義経を見つめる能子。その様子からその子が安徳帝であると気付いた義経は、さらに船を寄せようとしますが、新たに現れた平家の軍船が、御座船と義経の船の間に割って入ってきます。寸前のところで御座船を逃がし、見失うなと叫ぶ様に下知を下す義経。
「能子が合い印として持っていた白布は、以前にも書いた様に宮尾本平家物語に依る創作です。原作においては、彼女は御座船の中で自分の代わりに安徳帝に白布を被せていたのですが、ドラマではそれをさらに進めて危険を冒して船端に出るという演出をしたのですね。たしかにこの方がドラマチックで、自分を犠牲にしても主上を守ろうとした能子の意思がより明確に表されていた様に思います。」
守貞親王の御座船。戦況が進むに連れて不安が増してきたのか、主上と共にありたいと建礼門院に願い出る時子。建礼門院が同意するのを聞き、船を安徳帝の御座船に付けよと命ずる輔子。
親王と三種の神器と共に、安徳帝の御座船に移ってきた時子達。時子は、万一の時に備え、内侍所の鏡は輔子、曲玉は領子、宝剣は自らが持つ事を決めます。
以下、明日に続きます。
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