義経 35の3
義経 第35回 「決戦・壇ノ浦」その3
昼を過ぎて、西に変わり始めた潮の流れ。その流れに逆らって、一団の平家方の船が義経の船に近づいてきます。その船の舳先に立つのは平知盛。彼が狙うのは義経ただ一人。劣勢に傾き掛けた形勢を立て直す為に、乾坤一擲の勝負を挑みに来たのでした。
「平家が義経を狙っていた事は、平家物語にも出てきます。そこでは、知盛の下知を聞いて「板東武者を海に沈めてくれる」と逸る上総悪七兵衛に、越中の次郎兵衛が「同じ敵を沈めるのなら、大将軍の義経にせよ。」と勧め、義経を見つける手がかりとして、まずその風貌が「色白で小男ながら出っ歯」な男であると教え、ただし、「直垂と鎧を何度も取り替えるので、見分けるのは難しいかも知れない」と忠告したとあります。
そして、実際に義経に挑んだのは、知盛ではなく従兄弟の教経でした。教経は、平家物語では知盛と共に大活躍する人物なのですが、なぜかこのドラマでは出てこなかったですね。その分、知盛を活躍させている訳ですが、豪快な教経が登場しなかったのはちょっと残念な気がしています。
ここで話題が逸れますが、平家物語の中で義経の容貌について触れているのはこの部分だけです。源平盛衰記にも「面長して身短く、色白して歯出たり」とよく似た表現があるにのですが、この他には義経記を含めて容貌に触れた記述のある資料はありません。この事から義経はあまり美男ではなかったのではないかと考えられているのですが、義経の両親である義朝と常磐は共に美男美女として知られた人物であるのに、その息子である義経が醜男であったというのは、ちょっと意外な感じがしますよね。
これについては、恨み骨髄に徹している義経を平家方が良い様に言う訳もなく、この記述は割り引いて考えるべきだとする説があります。確かに憎い相手をわざわざ美男だと持ち上げる筈もなく、僅かな欠点をあげつらって、ことさら貶めるという事はありそうな事ですよね。あるいは、その特徴を誇張して伝える事により、より見分けやすい様にしたのだとも考えられなくはありません。
これとは別に、もう一人の義経として知られる近江源氏の山本義経の容貌が、誤って平家方に伝わっていたのではないかという説もあります。山本義経は「反っ歯の兵衛」と呼ばれていたらしいのですが、知盛は実際に近江の陣で山本義経と戦った事がありますから、その時の印象を引きずって九郎義経と混同していたのかも知れません。そして、これをさらに一歩進めて、わざと山本義経の情報を平家方に流し、本物の義経が見分けられない様にカモフラージュしたのではないかという穿った説もあります。
いずれにしても、本物の義経が滝沢義経の様な美男子であったかどうかは確かめる術もなく、各自の心の中で義経の風貌を描くより無い様ですね。」
僅かな間を隔てたそれぞれの船の舳先に立ち、向き合う義経と知盛。相手が義経であると確かめ、どこか懐かしげな知盛。一方、敵が知盛と知って驚く義経。知盛は長刀を手に相手の船に乗り移り、義経に襲いかかります。鬼神の如き強さを発揮し、義経との間に割って入った源氏の兵士達をあっという間に倒してしまう知盛。それを見た義経は自らが相手になる覚悟を決め、郎党達に手出しは無用と言いつけ、知盛と対峙します。義経は、神器と主上を差し出しての降伏を勧めますが、知盛は降伏など思いも寄らぬ事、自分一人でも抗って見せると義経に向かって斬りかかります。
長刀の技量は僅かに知盛の方が上。体勢を崩した拍子に長刀を切り折られ、危機に陥いる義経。主の危機を見て、とっさに砂金の袋を投げつける喜三太。その袋を長刀で切り落とす知盛。一面に舞い上がる金の粉。一瞬の間を得て体勢を立て直し、太刀を抜いて構える義経と、長刀を捨て自らも太刀を抜く知盛。太刀の技量は互角ながら知盛の勢いの方が上。その鋭い切っ先を交わすために、遙か離れた知盛の船へと飛び移る義経。いきなり飛び込んできた義経に襲いかかる平家の兵士達と、これを次々に倒す義経。その義経を追って、自分の船に戻ってきた知盛。再び一騎打ちとなる両雄。知盛の必殺の剣先を交わしきれずに傷を負った義経ですが、得意の跳躍で知盛を翻弄し始めます。金の粉を煌めかせながら、軽やかに舞い続ける義経。その神がかった華麗な姿に、いつしか兜を脱ぎ、憑かれた様に義経に見入る知盛。やがて義経は自分の船へと舞い戻り、海を隔てて知盛と対峙します。金粉が舞い散るその向こうに立つ神々しいまでの義経を見て、幼い頃の自分たちを思い出す知盛。そして彼は、平家が義経に滅ぼされるのは、あの日から始まった宿命であったのだと悟ります。
「この場面は言うまでもなく義経の八艘飛びをモチーフにしていますが、平家物語にはないドラマ独自の演出が見事だったと思います。金粉を使うと普通は下卑た印象になってしまうところなのですが、ここでは義経の神秘的な力を象徴する事に成功していました。知盛の最後の戦いもまた、見応えがありましたよね。
知盛、重衡が義経と幼なじみという設定は、原作にも無いこのドラマ独自の設定なのですが、ここに至って一つの完結が見られました。幼い頃に睦み合った義経に滅ぼされるのもまた宿命という知盛でしたが、単なる敵同士の戦いではなく、運命に導かれた2人の戦いという描き方のおかげで、この場面に奥行きが出たという気がします。しかし、もう少し戦う事に対する葛藤が描かれても良かった様に思うのですが、どんなものでしょうか。特にドライに過ぎる義経には、少し違和感を感じてしまいます。その分、戦いが終わった後のむなしさが深まるのかも知れませんが...。
平家物語で語られるこの場面は、義経よりもむしろ教経の方が主役になっています。形勢が源氏方にはっきり傾いた頃、平家一の豪傑である教経は、ただ一人源氏と戦っていました。次々に源氏の武者を倒していく教経を見て、大勢は決したと見ている知盛は、「大した相手でもないのに、これ以上罪作りな事をするな」と声を掛けます。教経は、「それならば大将軍と組んでやろう」と言って、義経を追い求めて戦いを続けます。義経の顔を知らない教経は、これはと思う武者を見つけては船を乗り移り、相手を倒していきます。この様子を見ていた義経は、教経と出会わないようにしていたのですが、誤って鉢合わせになってしまいました。教経は、ここぞとばかりに義経に飛びかかったのですが、義経は組み討ちではとても敵わないと知っており、二丈(約6m)の距離を隔てた船に飛び移って逃げてしまいます。力なら負けない教経ですが、身軽さではとても義経には及びません。遂には追いつけないと悟った教経は、太刀も長刀も海に投げ捨て、鎧兜を脱ぎ、大童の直垂姿になって両手を広げ、「われと思う者は、自分に組み付いて生け捕りにせよ。鎌倉の頼朝に申す事がある」と大音声で叫びました。しかし、教経の強さを知っている源氏方は、恐れをなして誰も近づこうとはしません。この様子を見ていた土佐の国の住人で、三十人力という力自慢の安芸太郎實光とその弟次郎の兄弟が、やはり力自慢の郎党と三人で掛かれば教経と言えども恐れるに足らないと考えます。そして、教経の船に近づいて太刀を抜いて斬りつけたのですが、これを待っていた教経は、まず郎党を海の中に蹴り飛ばし、次いで安芸兄弟を両脇に抱き込んで、「死出の旅の供をせよ」と言って、三人諸共に海に飛び込んだのでした。この壮絶な最後を遂げた教経は、この年26歳であったと伝えられます。
俗に言う義経の八艘飛びは、江戸時代になってから語られ始めたもので、平家物語で義経が飛んだと語られているのは一艘だけです。いかな義経と言えども、重い鎧を着たままで八艘の船を飛び移るのは無理だったでしょうね。しかし江戸の人達は、あえて義経に超人のイメージを託しました。義経というのは、やはり庶民にっとっての憧れのヒーローだったという事なのでしょうね。」
豊前の海岸に陣を張り、海から上がってくる平家の兵士達を次々に討ち取っていく範頼。一人たりとも陸に上げるなと、自らも弓を執って矢を放ちます。
「平家物語では、陸に陣を張っていたのは和田義盛であり、範頼の名は出てきません。義盛は岸に近づく平家の船に矢を放って攻撃していたのですが、その内に自らの弓の威力を自慢したくなりました。彼は知盛の船に向かって遠矢を放ち、それを射返してみよと挑発します。平家方からは仁井紀四郎親清という者が現れ、義盛に向かって矢を放ったところ、義盛を飛び越えて、その背後に居た三浦の石田左近太郎の腕に命中しました。天狗の鼻を挫かれ、その場に居合わせた三浦の一党に笑われた義盛は、小船に飛び乗って平家の軍船の中に突っ込み、手当たり次第に敵を討って恥を雪ごうと暴れ回ります。一方、今度は仁井紀四郎親清が義経の船に向かって矢を放ち、義盛がした様に義経を挑発します。義経は安佐里の與一という者(那須与市とは別人)を召しだし、矢を射返させたところ、その矢は見事に親清に命中して、これを船底に倒してしまいました。
このあたりが壇ノ浦の戦いにおける陸戦の描写なのですが、ドラマの範頼はこれとも違い、それこそ無駄な殺生をしている様に見えました。沖合の船を射るならともかく、命からがら岸にたどり着いた兵を射殺しているのですからね。生け捕りにすれば済む相手を、あえてなぶり殺しにしている様にしか見えなかったのは私だけでしょうか。この場面の演出には、なんだか疑問を感じますね。」
以下、明日に続きます。
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