義経 35
義経 第35回 「決戦・壇ノ浦」
1185年(元暦2年)3月23日、壇ノ浦の戦いの前日、雨に降り込められた義経の陣。早鞆の瀬戸の様子を見てきた駿河次郎が、地図を指し示しながら潮の流れを義経に説明しています。それに依れば、朝、彦島方面から東に向かって流れ始めた潮は、昼頃には一度止まり、そしてその後今度は西に向かって流れ出すというものでした。続いて豊前の範頼軍の様子を聞く義経ですが、雨に遮られてその様子を知る事は出来ません。この天候では平家も動けないと考えた義経は、自分達も動かないと決め、全軍にその旨を伝える様に梶原景時に命じます。
「早鞆の瀬戸は、1日に4回その流れを変えます。すなわち、干潮の時には東に、満潮の時には西に向かって潮が流れて行きます。干潮と満潮の時間は日によって変わりますが、この壇ノ浦の合戦があった当日は、朝8時頃に東に向かって流れ始め、昼頃にはその流れが一度止まり、午後3時頃に今度は西に向かって流れ始めたとする、歴史学者黒板勝美氏の研究が通説になっています。ただし、これには異説もあり、これが本当に正しいのかどうかは判りません。」
義経の命を承った景時ですが、その後すぐに義経に向かって先陣を勤めたいと願い出ます。軍監として義経に付き従って来た景時ですが、屋島においては水軍を率いて到着した時には戦が済んだ後で、何の働きもしていませんでした。このままでは頼朝に対して面目が立たないと考えた景時は、手柄を立てやすく、また名誉とされる先陣が欲しかったのでした。ところが、義経は景時の願いを聞き入れず、三浦義澄に先陣を命じます。義澄は周防に長く滞在し、このあたりの海の様子を良く知っているというのがその理由でした。しかし、景時は、義澄は範頼麾下の武将であり、屋島以来義経に従ってきた自分がむざむざと手柄を譲る事は出来ない、手柄を立てる事が許されないなら付き従う事は出来ないと食い下がります。これに対して義経は、自分たちは頼朝の軍勢であり、誰の指揮下であろうと関係ない、戦に勝つ事こそが重要なのだとこれを一蹴してしまいます。怒りのあまり、無言で立ち去る景時。それを追って出ていく景季。
「梶原景時と義経が、先陣を巡って諍いを起こした事は平家物語にあります。そしてそこには、ドラマよりももっと激しいやりとりが描かれています。
軍議の席で明日の先陣を願い出た景時に対して、義経は「自分が居る」とこれを退けます。景時は、「あなたは大将軍ではないか」と反論するのですが、義経は「頼朝こそ大将軍であり、自分はそなた達と同じ立場だ」と答えました。これを聞いた景時が「とても人の主にはなれない人だ」とつぶやくと、それを聞き咎めた義経は、「日本一の大馬鹿者が!」と叫んで太刀に手を掛け、景時もまた「鎌倉殿以外に主は持っていない!」とこれも太刀に手を掛けます。これを見て景時の息子である景季、景高、景家が景時の周りに集まり、義経の郎党たちもまた景時を討とうと彼らを取り囲みます。この有様に、その場に居合わせた三浦義澄が義経を、土肥実平が景時をそれぞれ押さえ、「大事の前にこんな事をしていたのでは平家を利するばかりだ、鎌倉に聞こえたらなんとする」と2人を諫め、なんとかこの場を収めました。しかし、このことが景時の決定的な恨みを買う事となり、後の讒言の原因となったと平家物語には記されています。
ただ、ドラマを見ていて思ったのは、戦術的には義経の言う事が正しいのですが、軍監としての立場を踏みにじられた景時もまた気の毒だったなという事です。多くの小説などでは、景時はもっと憎々しげに振る舞う人物で、義経がそんな景時を嫌っているのも当然であり、後の讒言も景時の陰険な性格に起因すると描かれるのが普通です。しかし、中尾彬演ずるところの景時はごく常識的な人物であり、その言うところも的を射ていると思われます。この演出の流れからすると、義経は頼朝の代理人たる景時の立場を思いやるべきであり、義澄を先陣にするにしても景時の顔が立つ様な配慮が必要でした。そして、それを怠って景時の立場を無くしてしまった義経は、結果として頼朝をないがしろにしたも同然であり、取り返しのつかない失策を犯してしまったという展開になりそうですね。」
彦島、安徳帝の行在所。その一角にある炭小屋に閉じこめられている能子。そこに明子が現れ、能子を助け出して時子の下へと連れて行きます。時子は能子に船に乗らなくても良いと告げますが、能子は清盛の娘として平家の一門と伴に在りたいと願います。能子の心底を確かめ得た時子は、彼女が船に乗る事を許したのでした。
安徳帝と守貞親王を入れ替え、親王の船へと乗り込む時子と建礼門院。安徳帝の船には、親王の乳母である明子達が同乗します。
麾下の軍勢に、翌日の作戦を伝える知盛。全軍を3軍に分け、先陣は既に出発している松浦党ら九州の水軍、二陣は平家の水軍、三陣は阿波の水軍とするというものでした。そして、兵を乗せた唐船をおとりとし、帝及び三種の神器を求めて群がり寄ってくるであろう源氏軍を、包囲殲滅するという策を明らかにします。
「平家物語に依ると、平家方の先陣は山賀の兵藤次秀遠が率いる山鹿党で、二陣として松浦党が続き、三陣は平家の公達が勤めたとあります。山鹿党と松浦党は共に九州の水軍で、山鹿党が筑前、松浦党は肥前を根拠としていました。このうち山鹿党は平家に従って宋との交易に従事していた集団で、大船を操り東シナ海を越えて中国にまで渡っていた事から、航海術には特に優れていたとされます。また、松浦党も元を糺せば海賊で、中国の沿岸部にまで遠征した事もあり、これも航海術に長けた集団でした。
一方、ドラマでは三軍を命じられた阿波の水軍でしたが、平家物語ではどこに居たのか書かれておらず、はっきりとはしません。阿波の水軍は阿波民部重能が率いていたのですが、彼の子息である田口教能は屋島の戦の際に源氏軍に投降しており、重能はかなり心が乱れていた様です。その様子を見た知盛は重能の裏切りを予想し、宗盛に進言してこれを斬ろうしたのですが、宗盛は重能に、「裏切ることなく、臆せず存分に戦え」と諭しただけで、処分する事をしませんでした。しかし、結果として宗盛の判断は裏目に出てしまい、知盛を悔しがらせる事になります。」
以下、明日に続きます。
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