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2005.08.14

義経 31

義経 第31回 「飛べ屋島へ」

平家追討の総大将を命じられた事を郎党に伝える義経と、それを聞いて喜ぶ郎党達。そこに、梶原景時と影季の親子が現れます。頼朝から戦目付を命じられた景時が、義経にあいさつに来たのでした。義経は、歴戦の景時を陣営に迎えた事は心強いと、これを歓迎します。

決死の覚悟と見える義経を気遣う静。頼朝の温情に応えるには、命がけで臨むほかは無いと義経。

出陣の朝、義経を見送る萌。万一の時は、鎌倉に戻るなり、思う様にせよと言い残す義経。依然として2人の間には、冷たい空気が漂っている様です。

庭先で兵士達と揉めている2人の人物。そこに現れた弁慶達のおかげで鷲尾三郎とまごめである事が知れ、2人はようやく解放されてます。まごめは兄を家来に加えてくれと頼み、義経はそれを受け入れます。しかし、三郎が2人になっては困ると伊勢三郎が異議を唱えたため、鷲尾三郎はひの幼名から熊を名乗る事となります。新たな郎党を加え、屋島に向けて出陣する義経達。

六条御所。義経出陣を聞き、勝利を確信する後白河法皇。その一方で、せっかく三種の神器を取り戻しても、それを頼朝に差し出しはしないかと懸念を持っています。丹後の局は、義経が頼朝より法皇を信頼しており心配は要らぬと答えますが、法皇は自分たちにとって重要な手駒である義経を失う事を恐れます。

「吾妻鏡の元暦2年2月16日の条に依れば、大蔵卿泰経が義経の下に赴き、大将軍というものは先陣を競わないものだ、まず次将を遣わしてはどうかと説いたとあります。これに対して義経は、思うところがあり、先陣にて命を落とす所存であると答えて出陣したと言います。この泰経の取った行動については、都が手薄になる事を恐れ、義経の発行を制止するためであったと玉葉にあります。恐らくは、泰経は後白河法皇の内意を受けて義経の下を訪れたものと思われます。ドラマにあったように法皇は、頼朝に対抗するためにも義経を失いたくなかったのでしょうね。また、義経が言った「思うところあり」という言葉は、やはり頼朝との確執の事でしょうか。義経が取った思い切った行動の裏には、頼朝に対する悲痛な想いが隠されていたのではないかと思われます。」

讃岐国、屋島。義経が4万の軍勢を率いて都を発ったと知った平家方はその数に恐れをなしますが、総大将の宗盛は船戦なら負けるはずがないと自信を見せます。その一方で、源氏方に挟み撃ちにされる事を恐れた知盛は、範頼の軍勢を押さえるべく長門へと向かいます。

「苦戦が続いていた範頼の軍ですが、2月1日に至り、九州の武将の応援を得てようやく豊後の国に渡る事が出来ています。ドラマの中で知盛が挟み撃ちになる事を懸念していたのは、こういう情勢の動きをふまえての事だったのでしょうね。」

時忠から義経が攻め寄せてくると聞き、能子の様子がおかしいといぶかる領子。領子は能子を、義経から内通するよう伝えてきたのではないかと問いつめますが、能子は母の常磐が亡くなった事を気に病んでいたのだと答えます。常磐の名を聞き、かつて盛国の館で常磐と会った日の事を思い出す時子。時子は、その時常磐が身籠もっていたのが能子であった事に気付き、今更ながら運命の不思議さに思いを馳せます。

摂津国、渡辺。来着した義経の一行を出迎える渡辺学。彼が用意出来た船は40艘に過ぎず、後から来る梶原水軍を併せても150艘にしかなりませんでした。梶原水軍が到着するまで後6日は掛かると知り、平家に迎撃の準備の為の時を与えるは惜しいとあせる義経。景時は水軍の到着を待つべきだと進言しますが、義経は他に屋島に進軍する方策を探るとその言葉を退けます。

「ドラマに梶原水軍が出てきますが、梶原水軍と呼ばれる集団が現れるのはもっと後の事のはずで、この当時にはまだ成立していなかったと思われます。ここでは、梶原氏が率いる鎌倉の水軍という程度の意味なのでしょうか。のちに梶原景時が鎌倉を追われて滅ぼされた後、その属党のうち何人かが瀬戸内の村上水軍に迎えられて梶原水軍を結成しています。この集団は、その後戦国期にまで勢力を保っていたとのことなのですが、そうした経過を辿った事を考えると、梶原氏の一族の中には水軍の要素を持った者がこの頃から存在したのかも知れないですね。」

義経の命を受け、平家方の陣の様子を探りに行く次郎達郎党。

義経の考えている事が理解出来ない様子の景時と、宇治川、一ノ谷の義経と共にあり、その軍略に心酔し、賞賛を惜しまない景季。

屋島一帯の様子を探り出してきた郎党達。その情報を聞いた義経は、屋島を直接攻めるのは無理があり、阿波からの迂回路を取る事に決めます。その障害となる鳴門の渦潮を乗り切る為に、次郎は命知らずの船乗り達を探し出していました。

軍議の席で、阿波から陸路を通って屋島の背後から攻めると自ら考えた軍略を示す義経。しかし景時は、阿波には近藤親家、桜間義連などの平家方の武将が居る事、讃岐との国境には険しい山脈があり、難行軍が予想される事から奇襲は成立しないと難色を示します。そして、水軍の到着を待ち、全軍で屋島に向けて押し出すべきだと主張しますが、義経は全軍で戦っても優勢な平家の水軍に対して勝ち目は無いとこれを退け、陸路からの進軍を採ります。しぶしぶながら、その案に従う景時。

義経が出陣しようとしたその日、嵐が渡辺の津を襲い、せっかく集めた船が損傷を受けてしまいます。修理に1日か2日掛かると聞いた景時は、ここは水軍の到着を待ってはどうかと進言しますが、義経は水軍もまたこの嵐にあって遅れるであろうとその言を退けます。景時はならばと、船の進退を自由にする逆櫓を取り付ける事を進言しますが、義経はその作業に5日掛かると知り、時が惜しいとまたしても景時の言を退けます。そして、戦において最初から退く事を考えるなど、志気に係わる事と景時を非難する義経に、引く事もまた軍略であり、次の戦に備えて味方の損傷を最小限に抑える事が大将として求められる資質だと反論する景時。義経はこれに、この戦に勝たなければ次の戦など無く、生きて帰る事など考えていないと答えます。この言葉に勇み立つ郎党達ですが、景時はそれではただの猪武者に過ぎないと義経を非難し、この軍勢は頼朝のものであり、勝手は許されないと戦目付の権威を振りかざして義経を阻止しようとします。義経は自分が総大将である以上自分のものだと言い張りますが、景時はそれでは自分の戦目付としての役目が果たせぬと一歩も譲らず、両者の間が一触即発の危機を迎えます。あわやと思われた時景季達が間に入り、2人を分けます。景時は九郎殿にはと言いかけて後の言葉を飲み込み、自分の陣屋へと引き上げます。

景時の陣屋。景季に、宇治川や一ノ谷でも義経の振る舞いは同じであったかと尋ね、戦目付にも計らずに自分一人で何もかもを決めていく義経の流儀に激しい反感を露わにします。そして、所領を抱えるむののふは命を惜しみもするが、義経は何も持たないから何のためらいもなく思い切った事が出来るのだと吐き捨てます。

「この逆櫓の論争は平家物語にある有名なもので、経過はほぼドラマにあるとおりです。ただ違うのは義経の最後の台詞で、戦とはただ平攻めに攻めて勝つから気持ちが良いのだというものでした。およそ軍略とはほど遠い子供ぽっい台詞で、だからこそドラマには使わなかったのでしょうね。

景時の戦目付という役割は、義経の軍の行状をありのままに頼朝に伝えるためのもので、かつ参謀としての性格も有していました。ですから頼朝の代理人であり、かつ作戦の立案者でもあるという重いもので、その立場を無視された景時が怒るのは無理もない事でした。しかもその言うところは常識的で、正鵠を射た事ばかりでしたから、なおさらでしょうね。対して義経の側にすれば、頼朝の勘気を蒙ったためにもはや後がないという立場に立たされており、命がけで戦って功名を立てる外はなく、引く事など考えられなかったのでしょうね。そして平家より劣勢の立場にある事を思えば、勝つためにはより飛躍した発想が必要なのでした。」

義経の陣屋。佐藤継信を相手に、郎党達を死地に追いやろうとしている、しかし、自分には他に手だてがないと心の内を打ち明けます。これに継信は、自分たちは義経の気性を慕って付いてきたのであり、命は義経に捧げている、迷う事はないと答えます。

「このやりとりは次回に継信を襲う悲劇のための伏線ですね。継信は屋島において、この言葉どおりの最後を迎える事になります。」

またしても風が強くなったと伝える弁慶。それを聞き、浜辺に様子を見に行く義経。海は大荒れに荒れ、白波が逆巻き岩を打ち砕く様な勢いです。その時、柱に止められていた白旗が風に舞い、海に向けて吹き飛ばされていきました。矢の様に四国を目指して飛ぶその白旗を見た義経は神の啓示を感じたのでしょうか、この風雨を逆に利用する事を思い立ちます。

景時に、今夜発つと告げる義経と、あまりの無謀さに驚く景時。義経はこのような時こそ敵を欺く好機であり、幸いな事に風は北から南、阿波の方角を指して吹いていると、自分の軍略の正しさを説明しますが、景時は戦目付として承諾出来ないと反発します。どうしても行くという義経に、勝手になされよと戦目付の役目を放棄する景時ですが、景季が自分も行くと言い出します。自分の息子にまで見放された形の景時は、屋島にて待つという義経の言葉に、やむなく無言でうなずくのでした。

嵐の中に船を出せという義経の命に、船頭達の誰一人として承知しないと反発する渡辺学。そこに次郎が、命知らずの船頭達を集めてやってきます。次郎が集めてきたのは4人、そして自らも船頭を務めると言い、五艘の船で阿波に向かって船出します。

夜の海を、木の葉の様に浪に翻弄されながら駆ける5艘の船。阿波に向かったのは、義経以下150騎の武者達でした。

「このドラマでは、なぜか景季が常に義経の側に居る事になっていますが、実際には宇治川の合戦の時だけであり、この屋島の合戦には参加していません。なぜこういう設定にしているのかは判りませんが、険悪に描かざるを得ない景時と義経の争いを、彼を通す事で緩和して見せるという意図でもあるのでしょうか。それとも、御家人きっての歌詠みとして知られ、また一ノ谷においてはえびらに梅の枝を刺して戦ったというさわやかなエピソードを持ち、最も鎌倉武士らしい人物とされる景季に脚本家が惚れ込んでいるのかも知れないですね。

ドラマでは次郎が船頭を連れてきた事になっていましたが、平家物語では尻込みをする船頭達を、義経の命によって三郎達が弓矢で脅して無理矢理出航させたとあります。こういう描き方にしたのは、一つにはこのドラマでの義経は、あくまで庶民には無理強いをしないという設定になっている事、また郎党達をその特技と共に丁寧に描き出そうというコンセプトがあるからなのでしょうね。あまりにもご都合主義という気がしなくもないですが、その分駿河次郎という人物が生き生きと描かれているとも思います。」

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