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2005.08.03

義経 30の2

義経 第30回 「忍び寄る魔の手」その2

鎌倉、大倉御所。御家人達を前に、公文所及び問注所を設けると伝える頼朝。そして公文所の別当に大江広元、所司に藤原行政、問注所の執事に三好善信ほかをそれぞれ任命しました。公文所は財政や一般政務を、問注所は訴訟・裁判をそれぞれ取り扱う機関です。この重要な部署の長官に、関東の御家人ではなく頼朝が京都から連れてきた側近を任命した事に不安を覚える時政。

大姫の様子がおかしい事に気付いた政子。義高が殺されて以来、ほとんど何も口にせず、衰弱が激しくなっていました。政子の呼びかけにも、うつろな目つきで義高の名を呼ぶばかりです。大姫の異変を頼朝に伝え、義高を斬首にした事を、いまさらながらに責める政子。

変わり果てた大姫の姿を見て驚愕し、義高を斬った事を詫びる頼朝。しかし、大姫はそれには答えず、義高の名を呼び、自分もすぐに側に行くとつぶやくのでした。その言葉にうろたえた頼朝は、義高の供養塔を建て、法要を行いました。しかし、それでも大姫の容態が元に戻る事はありませんでした。

傷心の頼朝の下に、義経が従五位下の位に就いたという知らせが届きます。憮然と佇む頼朝に、これはたたりではないかと詰め寄る政子。大姫、義経の事のみならず、範頼の平家討伐も思うに任せず、和田義盛などは鎌倉に戻りたいとまで言い出す始末でした。そして政子は、新しい役所の長官に、鎌倉の御家人ではなく都下りの者が登用された事に不満を漏らします。政子の過ぎた言葉に怒った頼朝は、この後は政に口出し無用と言い渡します。

頼朝の言葉を時政に伝える政子。このままでは、北条家が傍流に押しやられてしまうと危惧する時政ですが、政子は、一見冷徹で、理詰め一辺倒に見える頼朝は、実は情にもろい人物であると見抜き、時政にあせる事は無いと進言します。

1184年(元暦元年)10月、昇殿を許された義経。その義経の下を訪れている吉次。彼は進物を届けると伴に、秀衡からの伝言として、くれぐれも身辺に気を付ける様にとの言葉を伝えます。義経はうなずきつつも、自分の栄達はとりも直さず頼朝の為でもあり、必ず判ってもらえる日が来ると答えます。

そこに帰ってきた次郎。彼は義経に命じられて西国の様子を探ってきたのでした。次郎の報告に拠れば、範頼の軍は安芸で立ち往生しており、海も陸路も平家に封鎖され、兵糧も不足しきっているという有様でした。吉次から、義経ならこの事態をどう打開するかと聞かれ、自分なら屋島の平家本陣を衝くと答える義経。水軍も無しにどうやって戦うつもりかと聞かれた義経は、四国に渡る船さえあれば良いと答えます。すなわち、海からではなく、陸路から屋島を攻める事を考えていたのでした。

鎌倉、大倉御所。大姫の下を訪れようとした頼朝でしたが、相変わらずの容態と聞き、思いとどまり会わずに引き返します。夜、自室で瞑目する頼朝。彼は盛長を相手に、自分は北条をないがしろにしているかと問いかけ、新しい世を作るためにと理詰めに考え続けてきた事が、自分の視野を狭くしていたのかも知れないと口にします。

御家人達を前に、屋島の平家を攻めると宣言する頼朝。その大将には九郎判官義経を命ずると、その官位でもって指名します。時政からこれは義経に対する温情かと聞かれ、そうではなくこれは試練を与えるものだと言い放ちます。

京、六条御所。法皇から、屋島攻めの総大将として九郎判官義経を指名してくれる様、頼朝から願い出てきたと聞かされる義経。判官と呼ばれた事で兄からやっと認められた事を知った義経は、この大役を喜んで仰せつかります。そして、法皇から伴に新しき世を作ろうと声を掛けられ、感激に打ち震えるのでした。

冷徹な政治家というイメージの強い頼朝ですが、意外に情に脆い人物であったらしい事は、この大姫に対する態度の外にも、自分を助けてくれた池禅尼の息子である平頼盛を厚遇したこと、囚われ人となった平重衡を丁重に扱った事などからも窺えます。もっとも、この大姫が衰弱した時には、自分の命によって義高を斬った御家人に罪を被せて、これを処罰することで大姫の慰めとするという暴挙に出ており、およそ理詰めでは考えられない事をする人物でもありました。

昇殿を許された義経ですが、これがいかに破格の扱いであったかは、清盛の父の忠盛が長年白河上皇に仕えたあげく、やっと昇殿を許されたのが武家としての初めての例であった事を考えると判ります。その後の平家の公達の場合も一定の段階を踏んでからの事で、わずかの期間で無位無冠の身から殿上人にまで引き上げられた義経は、異例中の異例と言うべきものでした。これはどう見ても、法皇の頼朝に対する対抗策と言う外は無いでしょう。それと同時に、義経に対する位打ちという側面もあったかも知れません。

その義経が公家達からどう見られていたかについては、朝廷で行われた大嘗會に参加した彼について、「平家の中のえりくずよりなお劣れり」と平家物語に書かれています。すなわち、その前々年に参加した平家の公達と比べると、その中でもどうしようもなかった者からもなお見劣りがし、木曽義仲よりはわずかにましな程度と酷評されているのですね。どうやら都生まれではあっても、鞍馬寺や奥州で育った義経は宮中での作法は身につけておらず、風采の上がらない田舎者とあざけられていた様です。このあたり、公家のいやらしさが窺える部分でもありますね。

山陽道の範頼からは、頼朝の下に窮状を訴える書状が届いていました。吾妻鏡に依れば、兵糧が無くて部下達は皆本国を恋しがって帰りたがっており、志気は全く上がらない。船も馬もなく、とても戦えた状態ではないという悲鳴に近いものでした。これに対して頼朝は、まず冷静になれと諭し、兵糧は送るが馬は送れない、屋島の安徳帝と二位尼を迎い入れよ、平宗盛は生け捕りにせよ、九州の者を味方に付けよ、など細々とした指示を返しています。こうした状況の中、範頼だけでは平家に歯が立たないと判り、頼朝としては使いたくはなかったものの、義経を起用するほか道はなくなったのでした。

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