義経 32
義経 第32回 「屋島の合戦」
1185年(元暦2年)2月17日夜半、暴風雨を衝いて摂津の国を出航した義経の5隻の船団。大波に翻弄され、風の中の木の葉の様に揺れる船の上で、懸命に舵を取る駿河次郎。少しでも速く走るために一杯に張った帆でしたが、あまりの強風に帆柱が折れそうになってしまいます。やむなく帆を下ろそうとした次郎でしたが、義経はこれを止め、太刀を抜いて帆に斬りつけ、いくつかの切れ目を開けます。すると上手い具合に風が抜ける様になり、帆柱が折れることもなく、船の速度も落とさずに済みました。やがて嵐も収まり、義経の船団は常ならば3日は掛かる行程を一日で駆け抜け、阿波国勝浦へとたどり着いたのでした。
「帆柱に切れ目を入れて風を通したという話は、源平盛衰記に出てきます。ただし、ドラマの様に高々と帆を上げていたのではなく、最初は人の高さ程に上げ、それでも風当たりが強すぎた為に裾を切り分けて風を通したと記されています。そしてかがり火を焚いていたのは義経の船だけで、敵に人数を悟られない様に後の4艘は火も灯さずに嵐の海を走っていたのでした。これが本当だったとしたら、よくもまあ、先行する船の灯りを見落とさなかったものだと思います。
阿波までの渡海に要した時間については、平家物語には三時(約6時間)で着いたと記されています。一方、吾妻鏡では17日の午前2時頃に出発し、翌日の午前6時頃に到着したと記されており、同じ吾妻鏡に記載されている義経の報告書にも到着したのは翌日の午前6時とある事から、一日と4時間掛ったと見るのが正しい様ですね。それにしても、暴風に翻弄される船の上で丸一日過ごしたとしたら、船酔いどころの騒ぎでは無かったと思われるのですが、この後すぐに合戦に及んでいるのですから、当時の人は恐ろしく強健だったいう事になるのでしょうね。
到着した場所にも諸説があり、平家物語では勝浦、源平盛衰記では尼子浦、吾妻鏡では椿浦となっています。このうちどれが正解で、現在の地図に当て嵌めるとどこになるのかは定かではありませんが、概ね徳島市の南部から小松島市のあたりにかけてのことだったと思われます。
この嵐の中の渡海は、平家の意表を衝いたという点に於いてまさしく義経の天才性を表していますが、極めて賭博性の強い戦略でもありました。この後、義経が都を落ちて西国に向かう際、大物から船を出そうとしたときに同じ様な嵐に遭うのですが、この時も義経はあえて船を出しています。屋島の合戦の再現を願ったのでしょうけれども、結果はほとんどの船が転覆し、義経の乗った船は住吉の浦にまで流され、そこで難破するという悲惨なものでした。この事から考えれば、屋島の合戦で成功したのは僥倖と言うべき結果であり、戦目付の景時が反対したのはむしろ当然と言うべきだったのでしょうね。しかし、その賭けを成立させてしまうほど、この時の義経には勢いがあり、また部下がその無茶に付いてくるほどカリスマ性にも富んでいた見るべきなのかも知れません。」
勝浦の浜で、つかの間の休息を取る義経の軍団。他の船も無事に勝浦に着いている様です。敵にも気付かれていないはずとほっとしたのもつかの間、数騎の武者が義経達の前に現れました。敵か緊張しつつ、義経が誰何すると、出発前に平家方の武将として名の上がっていた近藤親家でした。父である西光法師を清盛に殺された近家は、平家憎しのあまり100騎の郎党と共に義経に従うと申し出てきたのです。新たな味方を得た義経は、直ちに出立を命じ、阿波と讃岐の間に横たわる山脈を越え、屋島のすぐ近くにまでたどり着きました。
「平家物語に依れば、義経達は上陸する直前に赤旗がはためいているのを見つけ、敵の接近を知って直ちに戦闘態勢に入りました。そして、渚に上陸するや100騎ばかり居た武者に攻め掛かったのですが、武者達は抵抗することなく2町ばかりさっと引いてしまいます。義経は相手に戦意が無いと見て取ったのでしょう、伊勢三郎に相手の中の主立つ者を連れてくる様に命じます。三郎は単独で100騎の群れの中に入り、何を話したのかは判りませんが、その中の40歳程度の男の鎧を脱がせた上で、義経の下に連れてきました。その男が近藤親家で、義経は屋島までの道案内をせよと命じ、部下達にはもし逃げようとしたら射殺すようにと指示したとあります。
この親家は、ドラマにあった様に西光法師の第6子であり、鹿ヶ谷の事件が起こった時には兄と共に阿波国に居ました。事件勃発後、清盛の命を受けた田口成良に討たれ、兄は戦死し、近家はかろうじて逃れて、その後板西城に潜伏していました。義経が上陸した時にはそこからほど遠くない支城に来ており、その船団が近づくのを見て義経を出迎えに出たのでした。源氏の力を借りて父や兄の敵を討とうと考えていた親家は、戦局の動きから源氏が四国に上陸してくる日も近いと判断し、内陸の板西城から海岸近くの支城にまで来ていたのだと言います。
親家から近くに桜間良連の居城が有ると聞いた義経は、直ちにこれを攻めます。義経の軍勢が城方の放つ矢をものともせずに攻め掛けたところ、桜間方はその勢いに堪らず潰走し、城を捨てて逃げ去りました。
義経は、親家から屋島までは2日掛かる事、平家方の軍勢の多くは瀬戸内の島々に散っており、さらに伊予の河野通信を討つために田口能良の嫡子田内左衞門教能が3千騎を率いて出陣している事から、屋島に居る平家方は一千騎程度に過ぎないと聞き出し、敵に知られるより前に屋島にたどり着くと宣言して讃岐に向けて出立しました。
義経が通った道には複数の説がありますが、中でも有力なのが大坂峠です。ここは讃岐山脈の東端にあたり、標高は270m程度と知れたものですが、頂上付近はかなりの急勾配であったとされます。平家物語に依れば、その山中で義経は、京の女房から宗盛に宛てた文を持った使者と行き会います。使者は出会った相手を義経とは知らず、淀川尻に源氏方が集結している事を伝えに行く途中だと告げ、義経に乞われるままに平家方の備えなどを教え、さらに屋島までの道案内を引き受けます。義経は言葉巧みにその文を取り上げ、使者を木に括り付けてしまいました。文の内容は、源氏の大将である義経はすばしっこい男なので、大風、大波をものともせずに海を渡るでしょう、用心して下さいというものでした。義経は、これは天が与えた文であると喜び、頼朝に見せようと言って大事に収めたとあります。」
以下、明日に続きます。
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