義経 33
義経 第33回 「弁慶走る」
屋島の陣。平家方が西へと去った翌日に、軍勢を率いて到着した梶原景時。早速開かれた軍議の席で、景時はねぎらいもそこそこに三種の神器を取り返せなかった事を非難し、やはり水軍の到着を待つべきだったのだと義経に詰め寄ります。それは違うと言い返す義経、弁慶との間で言い争いになりますが、安田義定のとりなしでその場はなんとか収まります。
これから先をどうするつもりかという景時の問いかけに、水軍の数が足りない事、そして何より熊野水軍の動向が気になる事を理由に上げて、暫くは屋島に止まり、味方の水軍を募っていくと答えます。その手だてはあるのかという景時の意地悪い問いかけに、今は答えを持ち合わせない義経は、なんとしても集めねばならぬとだけ返事をします。
「梶原景時が屋島に到着したのは、1185年(文治元年)2月22日の事でした。その前日に平家は西に向けて去っており、平家物語では「四国は皆九郎判官に落とされた。今頃来て何の用か。會に逢ぬ華、六日の菖蒲。」と戦に間に合わなかった景時を揶揄するかのように描かれています。」
弁慶から軍議の様子を聞く義経の郎党達。駿河次郎に熊野の水軍は800艘もの船を持っており、この動向次第で戦の行方が別れるだろうと聞いた三郎は、熊野水軍に味方に付けるべく説得に向かう事を思い立ちます。丁度そこに現れた義経に、熊野行きの許しを請おうとした三郎ですが、弁慶が横合いから飛び出し、自分が熊野の湛増の下に行きたいと申し出ます。突然の事に驚いた郎党達ですが、弁慶には三郎と違って調略の経験が無い事、湛増が弁慶と同じ荒ぶる男である事を理由に危ぶみます。義経は弁慶に成算はあるのかと問いかけますが、弁慶には成算は無く、ただ亡き継信に成り代わり義経の役に立ちたいのだと答えます。その熱意に打たれた義経は、遂に弁慶の熊野行きを許します。
「弁慶が熊野に向かったという資料は、私の知る限りではありません。司馬遼太郎の「義経」に、弁慶が湛増を動かして味方にすると申し出たとあるので、もしかしたら能か文楽にでもあるのでしょうか。
弁慶が湛増の息子であるとする説は「義経記(ただし、湛増では無く弁せう)」や御伽草子の「橋弁慶」にあり、熊野水軍が源氏に味方をしたのには弁慶が一枚噛んでいると考える事は出来る様ですね。ただし、出典が出典なので、あくまで伝説上での事ですが...。」
長門国彦島。屋島から逃れてきた宗盛、資盛が、知盛と共に軍議を開いています。屋島で夜襲を掛けていれば勝てていたものをと悔しがる資盛ですが、宗盛と言い争いになりそうになったところを時忠が間に入って収めます。これからの事をどうするかと聞かれた宗盛は、長門を良く知る知盛に総大将を一任します。大役を任された知盛は、船戦になれば絶対に勝てると豪語して一同を鼓舞しますが、その計算の中には熊野水軍が加勢してくれる事が入っていました。
「資盛が悔しがっていた夜襲とは、平家物語に出てくるエピソードです。屋島の合戦において、那須与一の扇射ちがあった日の夜に、平家方は能登守教経を大将にして夜討ちを掛けようと計画します。このとき、源氏方の兵士のほとんどは疲れ切って眠っており、義経と伊勢三郎だけが平家方の襲撃に備えて起きているという状態でした。しかし、いざ出陣と言うときに、越中次郎兵衞盛次と海老次郎守方が先陣を巡って相譲らず、そのうちに時間ばかりが経過してとうとう夜が明けてしまい、せっかくの好機を逃がす事になったのでした。平家物語でも、このとき夜討ちに遭っていれば源氏もどうなったか判らなかったのに、そこを討たなかったのが平家の運の尽きであったと記されています。宗盛にもう少し調整能力があればと、惜しまれるところですね。」
彦島、帝の間。貝合わせに興ずる安徳帝と守貞親王を見守る時子以下の平家の女人達。うり二つと言って良い帝と親王を見比べて、今更ながら感心する時子。帝の遊ぶ貝には絵が描かれていませんが、それは知盛が彦島の浜で拾ったものでした。絵師さえいない窮地にありながら、屈託無く遊ぶ帝と親王。
京、六条御所。義経が屋島で平家を蹴散らしたという知らせを聞く後白河法皇。法皇は義経の活躍を喜び、三種の神器を逃した事についても、在処さえ判っておれば良いと特に咎める事はしません。
「平家物語では、後白河法皇の下に「(義経が四国に向かった)2月16日に、住吉大社の神殿から鏑矢が西を指して飛び出した音がした」との知らせがあり、神もまた朝敵を滅ぼそうとされているのだと喜んだとあります。神殿から鏑矢が飛んだとの記述は吾妻鏡や玉葉にもありますが、それにしても神様にまで目の敵にされてしまったとなると、平家の人々もなんだか可愛そうになってきますね。」
鎌倉、大倉御所。義経戦勝の知らせを聞いた政子ですが、勝ち戦と言って良いものかといささか懐疑的な様子です。しかし頼朝は、ともかくも平家を追い散らしたとその働きを評価し、依然として身動きが取れない範頼の軍勢を憂います。そして、船戦を得意とする平家相手に義経がどう戦うつもりかと口にし、それを聞いた政子から危ぶんでいるのか楽しんでいるのかと聞かれ、複雑な表情を見せます。
「豊後に渡った範頼の軍勢ですが、吾妻鏡の3月9日の段に、「在所の者は皆逃散してしまい、兵糧を集める事が出来なくなってしまったので志気が上がらず、和田の太郎兄弟、大多和の次郎、工藤祐経などが鎌倉に帰ると言い出すのを押しとどめている」とあり、平家を攻略するどころか全く身動きが取れない状態である事が判ります。」
屋島、義経の陣。海に浮かぶ兵船を眺めていた義経は、庭で組み討ちに興ずる郎党達に向かって、長門に向かうと告げます。ただし彦島を攻めるのではなく、普通なら4日で着くところをひと月掛けて進み、その間に将兵を船と海に慣れさせるという作戦でした。そして、その間に弁慶も帰ってくると義経は信じています。
「吾妻鏡では、2月21日に屋島で勝って以来、3月21日に壇ノ浦に現れるまでの間、義経の行動は空白になっています。ドラマでひと月掛けて彦島に向かうと言っているのは、この事実と整合性を取っているのでしょうね。この間に義経が何をしていたのかははっきりとはしないのですが、玉葉の3月16日の条に、讃岐の塩飽に平家があり、義経がこれを攻めたが戦いにはならず厳島に引き上げた、その勢力は僅かに100艘ほどであるという伝聞が記されており、その兵団を引き連れて平家の残存勢力の掃討を行っていたとも考えられます。また、この間に熊野の湛増が源氏に付く事を決意している事から、弁慶ではなかったかも知れませんが、湛増とやりとりをしていたとも考えられますね。」
湛増に合うべく、紀州の田辺を訪れている弁慶。やっとその屋敷にたどり着き面会を申し込みますが、すげなく断られます。押して会おうとする弁慶は湛増の手下達ともみ合いになりますが、得意の怪力を発揮して次から次へと荒くれ達を投げ飛ばしてしまいます。最後に出てきた手下は、なんと背格好から顔つきまで弁慶とそっくりな僧兵でした。その僧兵は力までも弁慶と互角でしたが、弁慶は「弁慶の泣き所」を蹴って、その相手をも退けてしまいます。
「松平建の二役は面白かったですね。弁慶が「弁慶の泣き所」を攻めるとは、なかなか面白い演出を考えたものです。」
瀬戸内を行く船上で軍議を開いている義経達。周防国の船所、五郎正利に密書を送り、味方に付く様に説得すること、範頼の軍が残した三浦水軍と合流することが次々と決められます。ここまでは義経と意見を同じくした景時ですが、弁慶が単身で熊野に乗り込んだと聞き、無謀な事をしたと吐き捨てます。しかし義経は、時には無謀も策略という事もあると景時に答えます。
「船所五郎正利は、周防、長門国の船を管理する役人です。知盛が長門国を領している以上その傘下にあると言っても良いのですが、平家が朝敵となってからはその立場は微妙なものになっていたのでしょうね。このあたりの海を熟知した正利を味方に付ける事は、義経にとっては計り知れない利益があった様です。」
以下、明日に続きます。
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コメント
弁慶は湛増の息子、という説があるのですか!?
弁慶が湛増を説得した、というのは、まったくのTV用の創作、というのではないのですね。なるほど~。
投稿: ヒロ子 | 2005.08.24 21:44
ヒロ子さん、コメントありがとうございます。
弁慶が直接湛増の下を訪れたという資料はありませんが、弁慶との親子関係が湛増を源氏方に引き入れる要因になったのかも知れないと考える人は居る様ですね。これも本文中に書いた様に伝説の域を出ないのですけどね。
でも、義経から湛増へ何らかの働きかけがあった事は、事実と思われます。もしかしたら、本当に弁慶が説得に赴いていたのかも知れないですね。
投稿: なおくん | 2005.08.24 23:20