馬町十三重石塔 佐藤継信・忠信の墓@義経
屋島において、壮絶な最後を遂げた佐藤継信。その継信と弟忠信の墓と伝えられる石塔が京都にあります。それがこの馬町十三重石塔。敷地の外から撮っているので全体が写っていませんが、右の木の陰にも同じ型の石塔があります。
これらの石塔は今は京都国立博物館の中庭にあるのですが、元は東山五条から少し南に下った馬町にありました。その場所には今でも佐藤兄弟の墓と伝える石碑が建っています。でも、なぜ馬町に佐藤兄弟の墓があるのでしょう?
継信の墓と伝えられるものは、四国や福島などに複数が存在しています。それぞれ戦死した場所や佐藤家の菩提寺など、なるほどという理由があるのですが、ここ馬町には彼らと繋がる理由が乏しいように思われます。あえて探せば、義経主従が苦楽を共にした京都である事位でしようか。またここは小松殿と呼ばれた平重盛の屋敷跡にも重なるのですが、佐藤兄弟の墓を建てる理由にはなりそうにも無いですね。
ではこの石塔は何かというと、ここはかつての鳥辺野墓地の南の端にあたる事から、墓地全体の供養塔だったのかも知れないと考えられているようです。あるいは、ここは京都から山科へと抜ける渋谷越の入り口にあたる事から、旅の安全を願って建てられたものではないかという説もある様ですね。
塔に刻まれた銘文から1295年(永仁3年)年2月に法西という僧侶が願主となって建てられた事が判り、石塔の内部には小さな仏像や塔が納められていました。京都国立博物館のホームページに依れば、鎌倉時代の叡尊という僧侶に依る宗教活動としての慈善事業の流れを汲むものではないかとあります。だとすれば、宗教施設としての塔を建てる事と、それに連動して困民を救済する事が目的であり、鳥辺野墓地の供養塔であっても、安全祈願の供養塔であっても、どちらでも構わないという事になりそうですね。
この石塔にまつわる佐藤兄弟の墓としての伝説は、江戸時代に付与されたものの様ですね。街道脇に立つ立派な二基の石塔を不思議に思い、二基の供養塔=兄弟の墓という連想から、京都に縁のある佐藤兄弟に結びつけたものなのかも知れません。義経に対する忠誠を全うして死んだ兄弟には、こんな立派な墓こそふさわしいと考えたのでしょうね。
継信亡き後、忠信は壇ノ浦まで戦い抜き、曲折を経て京において亡くなります。ドラマでその生き様がどの様に描かれるのか楽しみに待ちたいと思います。
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コメント
やはり、お話を知っていて散策すると面白いですね。何も知らなかったら素通りしてるかもしれないです。(^_^;)
目的があるから最近の散策は面白い。
投稿: Milk | 2005.08.20 18:51
Milkさん、コメントありがとうございます。
博物館の石塔には説明看板があるからまだしも、
馬町の石碑の方はほとんどその存在を知る人も居ないでしょうね。
かつては、有名だったのでしょうけどね。
私も長年京都に住んでいましたが、義経の史跡を探してみて初めて知りました。
まだまだ京都には知らない事の方が沢山あると、改めて思った次第です。
ブログをやっていて良かったです。
投稿: なおくん | 2005.08.20 23:05