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2005年8月

2005.08.31

牛若丸生誕の地 ~京都・紫竹~@義経

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義経が廊の御方に宛てた手紙の中で、伴に墓前に参ろうと認めた2人の母、常磐御前。その常磐ゆかりの地が京都にあります。

北区紫竹の一帯がそれで、かつて義経の父である義朝の別邸があったとされ、ここで常磐が義経を産んだという伝説が伝わっています。上の写真がその邸跡を示す石碑で、大きな黒い石碑には牛若丸誕生井、下の小さな石碑には牛若丸産湯井と記されています。残念ながら実際に見る事は出来ませんでしたが、この石碑の後ろに井戸があり、今でも水が湧き出ているそうです。また、同じ敷地内には胞衣塚(えなづか)があり、義経のへその緒と胞衣(胎盤)を埋めた場所と言われています。

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この石碑がある場所はその名も牛若町(写真は近くの南牛若町にあった看板)と言うのですが、案内看板もなく、初めて行くときっと迷うでしょうね。そしてやっとたどり着くと周囲は畑で、今度は、えっ、こんな場所がと驚く事だろうと思います。直接確かめた訳ではありませんが、この畑の持ち主は常磐を世話した人の子孫と伝わっているそうで、伝説が生きて今に続いている様な場所と言えますね。

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この近くに、産湯跡と記した石碑がもう一カ所存在します。それがこの源義経産湯井遺址で、大正時代に行われた区画整理事業の際に、この地に伝わる伝説を後世に伝える為に建てた石碑であると碑文に記されています。まあ、義朝の邸は広大だったでしょうから、井戸が離れた場所に複数あったとしても不思議ではありませんよね。区画整理が行われた当時は竹藪で、それ以前には大徳寺の塔頭があったとされますが、今は全くの住宅街の中にあり、地名以外には義経との繋がりを窺わせるものは何もありません。

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二つの井戸からほど近い場所にある光念寺には、常磐が義経の安産を祈願して奉納したという腹帯地蔵が伝わります。今では安産の祈願の為に訪れる人が多いようですね。

これらの史跡から南へ下がり、大徳寺を抜けて北大路通の南側の紫野にまで至ると、弁慶腰掛石や常磐井があります。こちらは、一条長成と再婚した常磐が住んだ場所と伝わっている様ですね。

いずれも伝説の域を出ず、地名も伝説にちなんで後から付けられたものではないかと思われますが、それでも牛若の名が残り、常磐の伝説が息づく地を歩いてみるのも一興です。大徳寺の参拝と合わせて、秋の散策を楽しんでみるのも良いかも知れませんよ。


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2005.08.30

義経 34の2

義経 第34回 「妹への密書」 その2

お徳が去った後、一人船上で月を見上げる義経。そこに物見に行っていた駿河次郎と伊勢三郎が帰ってきます。彼らの報告に依れば、平家の陣の様子はしかとは判らないもののすこぶる気負い立っているとの事でした。そして三郎は、範頼の軍勢が豊後から豊前へ攻め入ったと思われる狼煙を見ていました。いよいよ戦機が熟し始めた気配を感じ、この一戦で源平の戦に決着を付けると意気込む義経。

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2005.08.29

義経 34

義経 第34回 「妹への密書」

1185年(元暦2年)3月、屋島を出て長門に向かう義経の船団。義経が座乗する船で軍議が開かれています。密書を送った船所五郎からの返事は未だ無く、援軍を約束した熊野水軍はどこまで信用出来るのかと事態を憂う梶原景時ですが、義経は湛増の言葉に嘘はないと言い切る弁慶を信じて待つ事にします。

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2005.08.24

義経 33の2

義経 第33回 「弁慶走る」その2

熊野の別当湛増の屋敷。配下の者達と闘鶏にいそしむ湛増。自分の鶏が勝利を収めてご機嫌になっている所に、弁慶相手に散々な目にあった手下達が駆け込んできます。たった一人に痛めつけられたと知り、手下どもを叱りつける湛増。その相手の名が武蔵坊弁慶と聞き、どこかで聞いた事があると思い当たる節がある様ですが、すぐには思い出せません。そこに響いてくる弁慶のがなり声。湛増は客人も来ている事でもあるし、これ以上の面倒は背負い込みたくないと、手下どもに弁慶を追い払え、逆らうなら殺しても良いと命じます。

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2005.08.23

義経 33

義経 第33回 「弁慶走る」

屋島の陣。平家方が西へと去った翌日に、軍勢を率いて到着した梶原景時。早速開かれた軍議の席で、景時はねぎらいもそこそこに三種の神器を取り返せなかった事を非難し、やはり水軍の到着を待つべきだったのだと義経に詰め寄ります。それは違うと言い返す義経、弁慶との間で言い争いになりますが、安田義定のとりなしでその場はなんとか収まります。

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2005.08.20

馬町十三重石塔 佐藤継信・忠信の墓@義経

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屋島において、壮絶な最後を遂げた佐藤継信。その継信と弟忠信の墓と伝えられる石塔が京都にあります。それがこの馬町十三重石塔。敷地の外から撮っているので全体が写っていませんが、右の木の陰にも同じ型の石塔があります。

umamatisekitou12これらの石塔は今は京都国立博物館の中庭にあるのですが、元は東山五条から少し南に下った馬町にありました。その場所には今でも佐藤兄弟の墓と伝える石碑が建っています。でも、なぜ馬町に佐藤兄弟の墓があるのでしょう?

継信の墓と伝えられるものは、四国や福島などに複数が存在しています。それぞれ戦死した場所や佐藤家の菩提寺など、なるほどという理由があるのですが、ここ馬町には彼らと繋がる理由が乏しいように思われます。あえて探せば、義経主従が苦楽を共にした京都である事位でしようか。またここは小松殿と呼ばれた平重盛の屋敷跡にも重なるのですが、佐藤兄弟の墓を建てる理由にはなりそうにも無いですね。

ではこの石塔は何かというと、ここはかつての鳥辺野墓地の南の端にあたる事から、墓地全体の供養塔だったのかも知れないと考えられているようです。あるいは、ここは京都から山科へと抜ける渋谷越の入り口にあたる事から、旅の安全を願って建てられたものではないかという説もある様ですね。

塔に刻まれた銘文から1295年(永仁3年)年2月に法西という僧侶が願主となって建てられた事が判り、石塔の内部には小さな仏像や塔が納められていました。京都国立博物館のホームページに依れば、鎌倉時代の叡尊という僧侶に依る宗教活動としての慈善事業の流れを汲むものではないかとあります。だとすれば、宗教施設としての塔を建てる事と、それに連動して困民を救済する事が目的であり、鳥辺野墓地の供養塔であっても、安全祈願の供養塔であっても、どちらでも構わないという事になりそうですね。

この石塔にまつわる佐藤兄弟の墓としての伝説は、江戸時代に付与されたものの様ですね。街道脇に立つ立派な二基の石塔を不思議に思い、二基の供養塔=兄弟の墓という連想から、京都に縁のある佐藤兄弟に結びつけたものなのかも知れません。義経に対する忠誠を全うして死んだ兄弟には、こんな立派な墓こそふさわしいと考えたのでしょうね。

継信亡き後、忠信は壇ノ浦まで戦い抜き、曲折を経て京において亡くなります。ドラマでその生き様がどの様に描かれるのか楽しみに待ちたいと思います。

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2005.08.18

義経 32の3

義経 第32回 「屋島の合戦」その3

夜の義経の陣。沖合に浮かぶ平家の軍に対して打つ手が無く、さらに阿波から田口教能の軍3千が近づいており、義経達に危機が迫っていました。教能を味方に引き入れたいと願う義経の言葉に、伊勢三郎が自分にまかせよと名乗り出ます。大軍相手に命がけになる仕事ですが、なにやら自信ありげな三郎の様子に、義経はその申し出を受け入れます。

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2005.08.17

義経 32の2

義経 第32回 「屋島の合戦」その2

高台に立ち、はるかに屋島を見渡す義経。軍議の席で、屋島と四国を隔てる川の様な水路は実は海で、引き潮になれば容易に渡れる地点があると教える近藤親家。しかし、平家の軍勢は2千から3千であり、250騎に過ぎぬ義経軍が攻め掛かるには数が多すぎました。そこで伊勢三郎が、三草山の戦の時の様に火を使って大軍に見せかければ良いと知恵を出し、義経はさっそくこれを採用します。枯れ木や枯れ草を集めて火を点ける役目は、親家が請け負いました。

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2005.08.16

京都 大文字送り火 2005

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今年も巡ってきた五山の送り火の日。昨年はパソコンの前でほぼ日刊イトイ新聞のライブを見て過ごしたのですが、今年は京都に行く事が出来ました。やっぱり直に見る送り火は良いですね。

場所は一昨年と同じ岡崎。少し早めに行って場所を確保したのですが、藪蚊の襲来にあって大変な目に遭いました。急遽買い求めた虫除けスプレーの有り難かったこと。ここって、こんなに蚊が多かったかなあ...。

最初は閑散としていた場所も、点火時間が迫ると共に人が増え始め、何時の間にやら大勢の人で溢れた状態になっていました。点火と共に周囲から歓声が上がり、暗闇の中に描き出されていく大の字に見とれます。ここは割と距離が近いので、最初の内は火勢が強く、猛然と煙が上がっているのが見て取れました。

写真を撮るのは、相手が動かないので花火に比べれば楽なものです。じっくりと送り火を鑑賞しながら、シャッターを切る事が出来ました。ちゃんと心の中で手を合わせていた事は、言うまでもありません。

送り火からの帰り道では、虫の声が聞こえて来ました。送り火の後は、いつもどこからか秋の気配が漂い出す京都です。

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2005.08.15

義経 32

義経 第32回 「屋島の合戦」

1185年(元暦2年)2月17日夜半、暴風雨を衝いて摂津の国を出航した義経の5隻の船団。大波に翻弄され、風の中の木の葉の様に揺れる船の上で、懸命に舵を取る駿河次郎。少しでも速く走るために一杯に張った帆でしたが、あまりの強風に帆柱が折れそうになってしまいます。やむなく帆を下ろそうとした次郎でしたが、義経はこれを止め、太刀を抜いて帆に斬りつけ、いくつかの切れ目を開けます。すると上手い具合に風が抜ける様になり、帆柱が折れることもなく、船の速度も落とさずに済みました。やがて嵐も収まり、義経の船団は常ならば3日は掛かる行程を一日で駆け抜け、阿波国勝浦へとたどり着いたのでした。

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2005.08.14

義経 31

義経 第31回 「飛べ屋島へ」

平家追討の総大将を命じられた事を郎党に伝える義経と、それを聞いて喜ぶ郎党達。そこに、梶原景時と影季の親子が現れます。頼朝から戦目付を命じられた景時が、義経にあいさつに来たのでした。義経は、歴戦の景時を陣営に迎えた事は心強いと、これを歓迎します。

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2005.08.03

義経 30の2

義経 第30回 「忍び寄る魔の手」その2

鎌倉、大倉御所。御家人達を前に、公文所及び問注所を設けると伝える頼朝。そして公文所の別当に大江広元、所司に藤原行政、問注所の執事に三好善信ほかをそれぞれ任命しました。公文所は財政や一般政務を、問注所は訴訟・裁判をそれぞれ取り扱う機関です。この重要な部署の長官に、関東の御家人ではなく頼朝が京都から連れてきた側近を任命した事に不安を覚える時政。

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2005.08.02

義経 30

義経 第30回 「忍び寄る魔の手」

平家追討軍から外された義経は、検非違使としての任務に励んでいました。宿所に帰った義経に向かって、軍勢に加われなかった事に不満を漏らす郎党達ですが、義経は御家人としての勤めに軽重はないと彼らを諫めます。

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