義経 29の2
義経 第29回 「母の遺言」その2
1184年(元暦元年)7月。京において即位した後鳥羽天皇。しかし、そこには三種の神器は無く、正式な即位とは言いかねる状況にありました。
8月6日、後白河法皇に召された義経。そこで義経は、検非違使左衛門少尉に任ずるという沙汰を受けました。義経は、これは頼朝が知っている事であるかと聞き返しますが、法皇が恩賞を下すのに一々頼朝に伺いを立てる必要は無いと一蹴されます。そして丹後の局に、これは一ノ谷の合戦の恩賞ではなく、京都守護である義経に対する恩賞であり、ひいては頼朝への恩賞でもあると巧みに言いくるめられ、義経はついに任官を受け入れてしまいます。その答えを聞き、御簾内で密かにほくそ笑む法皇。
一条長成邸。未だ病の癒えぬ常磐が、長成から義経に関する悪い噂を聞いています。義経の人気を利用して、法皇が鎌倉に対抗するための具としようしている、今度の任官にはその含みがあるらしいというものでした。それを聞き、義経のまっすぐな気性を知る常磐は不安に駆られます。義経に会いたいと願う常磐ですが、屋敷に迎えることにはためらいを見せます。
鎌倉、大倉御所。義経任官の知らせを受けて、評定が開かれています。政子は、このままでは義経が法皇に取り込まれてしまうと危惧し、頼朝は状況が読めない義経に苛立ちを見せます。そして、ある決断をし、京に向かっている範頼に当てて、急ぎ文を遣わします。
京、範頼の宿所。義経が、京に着いた範頼にあいさつに来ています。今度の戦は西国を攻め、水軍を味方に付けつつ、平家の背後を脅かす作戦と知り、自らも出陣すべく出立の日を聞く義経。しかし、範頼の答えは、出陣には及ばぬというものでした。驚く義経に、範頼はただ頼朝の命令だとのみ答えます。
義経の宿所。あまりの衝撃に、一人考え込む義経と、その様子をそっと見守る静。郎党達もまた、頼朝の不可解な処分に、苛立ちを隠せません。
数日後、義経の下に鎌倉からの使者が訪れました。その用向きは、頼朝から義経に正室を遣わすというもので、その相手は川越太郎重頼の息女、萌という娘でした。すでにその一行は鎌倉を発っており、数日の内には京に入るという慌ただしさです。そして、頼朝の言葉として、奥方と幾久しく仲睦まじくせよと添えられていました。
使者の向上を受け、迷う義経と騒ぎ立てている郎党達。しかし、その中にあって佐藤継信は義経に向かい、この話を受けるべきだ進言します。彼の見るところ、頼朝は義経が法皇からの任官を受けた事を気にしており、鎌倉の御家人か、法皇の家来かと問いかけているのだと言います。義経はそれを聞き、自分は鎌倉の家来だと言いつつも、武士は法皇の家来でもあるはず、何故それを分けて考えるのかと、頼朝の真意を理解出来ない様子です。
このやりとりを、静が近くで聞いていました。彼女は正室が来ると知り、自分は身を引くと申し出ます。しかし、弁慶を始め郎党達が静を引き留め、そして義経もまた自分の側に居て欲しいと言い、静もそれを承知します。
正室となる萌の一行を迎えた義経。義経は礼儀正しく、しかしあくまで儀礼的に応じます。
その夜、静の植えた花を見つめ、思い悩む義経。側にあって、頼朝の真意が判らないとつぶやく弁慶。
夜更けて、義経の下に現れた常盤。驚いて出迎える義経。常磐は、義経の今の立場をかつての自分と重ね合わせ、謀が渦巻く中では真っ直ぐなだけではいけない、裏も表も見極めよ、善も悪も、鎌倉も、法皇をもと義経を諭します。義経は常磐に泊まって行く様に勧めますが、常磐はそれを断り、一切の見舞いも無用と言い捨てて席を立ちます。
廊下を渡っていく常磐を送って行く義経。その後ろ姿は、なぜか透き通って見えます。不審を覚えた義経は母を呼び止めますが、常磐はわずかに振り向いて微笑んだだけで、そのまま去っていきます。消えるようにして居なくなった常磐を、不安そうに見送る義経。
二日後、土御門通親の使いを迎える義経。その用向きは、月見の宴への誘いでした。使者によれば、そこには法皇のご来臨もあるかも知れないという事です。義経は警戒しつつも、出席する事を承知します。
夕刻、装束を整え、月見の宴に出かけようとする義経の下に、常磐が危篤という知らせが届きます。義経は、土御門に断りの使者を出し、一条邸へと駆けつけました。しかし、時既に遅く、義経が着いた時には、常磐は息を引き取った後でした。長成に依れば、いまわの際まで、義経の名を呼んでいたとの事でした。義経は、母の側に置いてあった笛を手にし、幼い頃母と別れた頃の記憶を思い出します。物言わぬ人となった母に向かって、義経は別れの言葉を告げるのでした。
頼朝の推挙による任官は、範頼が三河守、源広綱が遠江守、平賀義信が武蔵守でした。また、このとき平頼盛親子も一緒に除目を受け、元の官位に戻して貰っています。このうち、源広綱は源頼政の子、平賀義信は新羅三郎義光の流れを汲む源氏の一族です。広綱は最初に平家に対して弓を引いた頼政の子として大切にされ、側近として厚遇されていた様ですね。広綱の子孫は、後に太田氏を名乗って関東に勢力を張る事になります。有名な太田道灌が、彼の子孫の一人ですね。また義信は頼朝の父義朝と共に平家と戦った人物で、頼朝もまたその側近として厚く遇しました。さらに義信の子惟義は伊賀守に任じられて後の大内氏の祖となり、その弟朝雅もまた武蔵守、伊勢・伊賀守を歴任し、京都守護に任命されるという厚遇を受けています。
こうしてみると、頼朝がこの3人を推挙したのは、自分を支えて来た側近に官位を与えてその功に報い、かつその後の政治的な動きをしやすくする為という十分な理由があった訳ですが、一ノ谷の戦功という事に限って見れば、義経に匹敵する者は一人も居ませんでした。この不思議さを説明するために古来様々に取り沙汰されて来たのですが、その中で最もポピュラーなものが梶原景時の讒言によるものとする説です。
景時は軍監として義経に従っていたのですが、義経が常に独断で物事を決め、自分の意見を全く用いない事に腹を立てていました。それ故に、ことさらに義経の武功を頼朝の下には報告せず、すべて自分の手柄に変えてしまったと言います。そして、頼朝はこの景時の報告を信じたため、義経には何の恩賞も与えませんでした。義経はこのことに気付き、景時との確執は一層深いものとなって行きます。ドラマに出てくるかどうか判りませんが、屋島を攻める船に逆魯を付けるかどうかで争った逆魯論争が、その典型として有名ですね。その後も景時に依る讒言は続き、義経が破滅したのはすべて景時の恨みを買ったせいだと言われています。
ただ、この説は判りやすいのですが、ちょっと極端過ぎる様ですね。そもそも頼朝は統制を重んじる人物で、範頼も義経も共に自分の代官として任命したのであり、2人にはそれに沿った行動を求めていました。そして、その言いつけを忠実に守って、何事に付け自分に報告してはその指示を仰いて来た範頼を好ましく思い、それとは対照的に、全て独断専行で事を処理した義経を疎ましく感じたという事はあったのではないかと思われます。景時はその事実を報告しただけで、讒言と言うには当たらないというのが正確なところではなかったのでしょうか。
穿ったところとしては、藤原秀衡の庇護を受けていた義経を、頼朝は最初から信用していなかったとする説もあります。この説では、常に秀衡の脅威を背後に感じていた頼朝は、それを警戒するあまりに義経を重く用いる事にためらいを感じていたのだとされます。このあたりは、ドラマでも義経が鎌倉に出てきたあたりで触れられていましたね。
また、変わったところでは、義経は一ノ谷の合戦には参加していなかったとする説もある様ですね。さらに極端な説では、合戦で活躍したのは別人(山本義経)だったとする説もあります。
どれが正解かは判りませんが、義経に何の恩賞も与えられなかったのは事実です。そして、このことに同情した後白河法皇から左衛門少尉・検非違使に任命され、頼朝の勘気を被る事になります。法皇が義経にことさら官位を与えたのは、純粋な好意とする説、頼朝との仲を裂こうとしたとする説、単なる気まぐれとする説などがありますね。
これに対して、頼朝は、鎌倉の御家人に関する叙位・任官は、全て自分を通さなければならないという原則を立てていました。朝廷の影響を廃した鎌倉政権を打ち立てる為には、これは絶対に必要な措置の一つでした。しかし、事もあろうに自分の弟がそれを破ってしまったのですから、面白かろうはずがありません。怒った頼朝は、ドラマにあったように、義経を平家打倒の軍から外してしまいます。
ただ、この直後に川越重頼の娘を嫁がせている事と考え合わせて、最初から義経を平家追討軍に加えるつもりはなかったのではないかという見方も有るようですね。すなわち、間もなく戦場に立つ男に、嫁をやるなど不自然だという考え方です。この説に沿って考えると、一ノ谷であまりに華々しい戦功を打ち立てた義経には、これ以上の戦功を上げて貰いたくないという頼朝の意思が隠されていたのかもしれません。
ドラマでは、静が事実上の妻とされていますが、実のところは大勢いた義経の側室の一人に過ぎませんでした。こう言ってしまうと身も蓋もないのですが、義経の周囲には実に20人以上の女性が居たと言います。その中で静が特に有名になったのは、義経の逃避行に従い、後に頼朝の前で義経を慕う歌と舞を披露した事に依るのでしょうね。ドラマでは冷たくあしらわれた萌でしたが、実際には彼女は正室として義経に最後まで従い、奥州の地で共に果てたとされます。それから考えると、義経との夫婦仲は睦まじいものがあったと言えそうですね。
最後に、この回で死んでしまった常磐御前ですが、実際には彼女はもっと長生きをしています。そして、後に義経が頼朝に追われて逃亡している時に、その行方を知る者として頼朝に捕らえられています。なぜドラマではここで死なせてしまったのかは判りませんが、義経にあれほど厳しかった常磐が、逃亡する義経を庇って頼朝に捕らえられるという展開は、ドラマのコンセブトに合わないと考えたのかも知れないですね。
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