義経 27の4
義経 第27回 「一の谷の奇跡」その4
義経が歴史の表舞台に躍り出た一ノ谷は、現在の神戸市の西の端、須磨区にあたり、今でも一ノ谷町という地名が残されています。その近くの須磨浦公園には「戦の浜」の碑があり、このあたりが戦場であった事を示します。一ノ谷は、瀬戸内海に面した狭い平地で、その背後には鉄拐山、鉢伏山など六甲山地の西端にあたる山々が聳えています。
義経が逆落としをしたとされる鵯越については、古来よりこの一ノ谷の背後にある鉄拐山の東南の斜面とする説、それよりもずっと東にある北区鵯越とする説があり、どちらを正解とする決め手はありません。吾妻鏡に、「猪鹿兎狐のほかは通わざる険阻なり。」とあり、とても人が通れるような場所ではなかった事は確かです。
以下、平家物語の記述を追って行くと、義経は精鋭を率いて一ノ谷を目指して山の中に入り、雪の残る峰を登り、また鶯の鳴く谷を下りなどしながら、道無き道をたどって行くのですが、目標地点も判らぬ内に日が暮れてしまい、やむなく陣を張ります。そのとき、弁慶が土地の猟師を見つけて義経の前に連れて来ました。義経は猟師に向かって、「これから平家の城一ノ谷に逆落としを掛けようと思うがどうか。」と問いかけますが、猟師は「とても無理だと思う。三十丈の谷十五丈の岩崎という所は人の通れる場所ではない、ましてや馬は無理だ。城の中には落とし穴が掘ってあり、菱も植えてあると聞く。」と答えます。そこで義経は重ねて、「そこには鹿は通うのか。」と問いかけると、今度は「鹿は通う。暖かくなると播磨の鹿は餌を求めて丹波へと向かい、寒くなると丹波の鹿は、雪の浅い播磨国印南野へと通う。」という答えが返ってきました。それを聞いた義経は、「ならば馬場であろう。鹿が通う道を馬が通れぬはずはない。」と史上有名になった言葉を吐き、一ノ谷を目指す決意を固めます。この後、猟師の息子である熊王に道案内をさせ、鷲尾三郎と名乗らせたのは以前に書いた通りです。
案内を得た義経は、7日の夜明け前に一ノ谷の背後の崖の上にまでたどり着きます。この頃には既に戦いは始まっており、武者達のおめき合う声、馬の駆け回る足音が山々に響き渡っていました。このとき、義経達の姿に驚いた鹿が3頭、崖下の平家の陣の中に落ちていきました。これに気付いた平家方は、人を恐れて山に逃れた鹿が落ちて来たのは、きっと山の上から源氏が落としたに違いないと騒ぎ立てます。これからすると、義経が奇襲を掛ける直前に、平家方に気付かれた事になりますね。
一方、崖の上の義経は、まず馬を落としてみよと命じ、鞍を置いた馬数頭を崖から追い落とさせます。すると、脚を折った馬も居ましたが、3頭の馬は無事に平家の兵舎の上に降り立ち、身震いして立ち上がりました。これを見た義経は、「乗り手が心得てやれば馬は大丈夫だ。義経を手本にせよ。」と言って真っ先に落ちると、これに次々に武者達が続きます。彼らが2町ほどの高さの砂混じりの崖を一気に滑り下りると岩の段があり、その下はさらに十四五丈(約50m程)の垂直な岩場になっていました。もはや引き返す事も出来ず、先へ進む事も出来ず、とうとう進退窮まったかと思えた時に、佐原十郎義連という者が進み出て、「三浦の方では、我等は朝夕この様な所を通っている。三浦の方の馬場の様なものだ。」と言って、真っ先に駆けて行きました。武者どもは次々にこれに続いて落ちていき、遂に一ノ谷の城内に攻め入る事に成功します。
それまでの戦況は数に勝る平家方に有利に展開していたのですが、義経の奇襲によって平家方は狼狽し、源氏方に有利に展開し始めます。さらに兵舎の一角から火が出て次々に燃え移り、その黒煙が辺りを覆うに及んで平家方は崩れ立ち、我先に海に向かって逃げ出しました。沖には平家の水軍があり、そこから助け船が出されたのですが、おびただしい数の兵士が船に取り付いたために転覆する船が続出し、遂には雑兵は乗せてはならぬとして、船に取り付く兵の腕を切り落とすという非常手段に出る始末でした。
この戦いで討たれた平家方の名のある武将は、越前三位通盛、弟藏人大夫成盛、薩摩守忠度、武藏盛知章、備中守師盛、尾張守清定、淡路守清房、修理大夫経盛の嫡子皇后宮亮経正、弟若狹守経俊、其弟大夫敦盛、の十人にも及んでいます。そして、生け捕りにされたのが平重衡でした。
このうち知章は知盛の息子であり、ドラマには出てきませんでしたが、父が危うい所を盾となって助け、その身代わりとなって討たれたのでした。知盛はかろうじて逃れ、宗盛の待つ御座船にまでたどり着いたのですが、「親を助けようとする息子を見捨てて逃げてきた。これほど命が惜しいとは初めて己の本心を知った。なんとも恥ずかしい事だ。」と言って嘆き悲しんだとあります。
また、このとき知盛が乗っていた馬はかつて後白河法皇が秘蔵していた名馬で、宗盛が内大臣になった祝いとして下されたものでした。それを知盛が預かって乗っていたのですが、船にたどり着いた時には船上には人があふれており、とても馬を乗せる余地はありませんでした。そこで知盛は浜へ向かって馬を放してやったのですが、これを見た阿波民部重能が、「あの馬は敵のものとなってしまう。」と言って、弓で射殺そうとします。それを見た知盛が、「自分の命を助けてくれた馬を射殺す事はない。」と言って重能を止めました。やがて馬は無事に浜までたどり着き、河越重房という者がこれを捕まえて自分のものとし、後に川越黒と名付けたと言います。このあたり、ドラマでは一切が省略されていますが、壇ノ浦へ繋がる部分もあり、ちょっと惜しい気もしますね。
この戦いで平家方は、多くの将領と兵、福原という拠点を失いました。そしてさらには、せっかく築き上げた西国の武士達の支持を失う事となり、滅亡への坂道を転がり落ちていく事になります。平家の滅亡までには、まだ屋島と壇ノ浦の戦いが続く訳ですが、源氏の優位を決定付けた最も大きな勝利は一ノ谷であり、その形勢を逆転させた義経の奇襲はその後長く賞賛され、今に至る事となります。
なお「逆落とし」は平家物語では「坂落とし」となっており、何時の頃からか入れ替わった様ですね。確かに義経の強烈な戦略には、「逆落とし」の方がふさわしい様な気がします。
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