義経 27
義経 第27回 「一の谷の奇跡」
小勢に別れて、密かに都から出陣する鎌倉勢。範頼の本軍は、山陽道を進み正面から、義経の搦め手軍は丹波路を進み一ノ谷の北を回って背後から攻め掛かる手筈でした。
平知康から、源氏勢が出陣したと報告を受ける後白河法皇。源氏勢6万に対して平家方は10万と聞き、勝敗の行く末を危ぶみます。
亀岡、義経の陣。集まった諸将に対して改めて戦略が伝えられています。その軍議の席で、一ノ谷の北側の様子を気にする義経に、次郎がそのあたりは屏風を立てた様な急峻な崖が続いている答えます。それを聞き、挟み撃ちにすれば逃げ場は無いという事でもあるとつぶやく義経。
一ノ谷、平家の陣。源氏が出陣したとの知らせを聞く宗盛。鎌倉方が秘密を期したはずの挟み撃ちも、平家方の知る所となっていました。大手口にあたる生田森には知盛と重衡、搦め手の一ノ谷には忠度、山の手には通盛、教経、維盛という布陣が決められます。そして矢合わせの日として7日を想定し、迎撃の準備を命じます。知盛はさらに、丹波路を進む源氏勢を防ぐべく、三草山に兵を派遣する事を考えます。
鎌倉、大倉御所。京から平家討伐軍が進発したという知らせが届きます。平家の勢いが盛り返している事を気に掛ける時政と、法皇との駆け引きのためにも三種の神器を取り戻す事を最優先に考える頼朝。
播磨国三草山近くにまで来た義経の軍勢。不意に前方に敵の気配を感じた義経は軍を止め、次郎と三郎を物見に出します。2人が山道をたどっていくと、肩に赤の印を付けた兵達があたりを見回っており、そして義経の言った通りの場所に平家が陣を敷いているのが見えました。
京、六条御所。法皇は平家を勝たせないために、平家に文を遣わす事を考えつきます。
京、お徳の家。義経の安否を気遣う、お徳、うつぼ、烏丸の3人。
三草山近く、義経の陣。物見から帰った次郎と三郎が、義経の言葉どおりに平家が布陣している事を報告します。平家の軍勢の数がおよそ7千と聞き、驚く安田義貞以下の諸将。次郎達は道案内として、地元の猟師である鷲尾三郎とその妹のまごめを連れて来ていました。鷲尾三郎から、三草山を通る以外に一ノ谷に出る道は無いと聞き、敵の備えを知るために一度一ノ谷を見に行くと言い出す義経。鷲尾三郎は、鵯越えなら一ノ谷を見下ろせ、半日で行って帰る事が出来ると答えます。
京、義経の宿所。留守を預かる静の下を訪れたうつぼ。彼女は義経との約束通り、静の面倒を見にやって来たのでした。縁側に並んで座りながら、義経の安否を気遣う2人。
鵯越から一ノ谷を見下ろす義経の一行。義経は鉄壁の平家の備えを見て、容易な事では勝ち目が無い事を悟ります。
平家方10万、鎌倉方6万という数字は平家物語にあるとおりなのですが、実際にはそんなに大軍がひしめいていた訳ではなく、平家方が6~7千、源氏方が3千程度ではなかったかと考えられています。軍記物特有の誇張がある訳ですが、それにしても10倍以上の数字とはちょっと驚きですね。
ドラマで矢合わせの日を決める下りがありましたが、源氏方は梶原景時の一言で7日、平家方は陰陽道に詳しい宗盛が様々に推測して7日と予想していました。このうち平家物語にあるのは宗盛が言っていたとおりで、4日は清盛の命日であるから佛事を遂させる爲に寄せず、5日は西塞り、6日は道虚日(外出を忌む日)である事から7日の卯刻一谷の東西の木戸口にて、源平矢合と定めたと書かれています。実は当時の矢合わせはどちらかが一方的に決めるのではなく、あらかじめ使者を交換して決めていた様です。ですからこの戦いにおいても使者の交換があって、宗盛が言った様なやりとりがあった可能性もあります。もっとも、これはどこにも書かれていない事ですけどね。
ドラマでは常に義経の陣に従っている梶原景季ですが、実際にはこの一ノ谷の戦いの時には、父親である景時と共に範頼の軍に属していました。そして範頼の下知に従わずに抜け駆けをし、平家の誘いの隙に乗って攻め込んだところを包囲され、危ういところを命からがら逃げ延びるという目に遭っています。
後白河法皇が平家に和睦を勧める文を下していた事は、吾妻鏡に残る「平宗盛の返書」から窺い知る事が出来ます。これは一ノ谷の戦いの後に囚われの身になった重衡が、法皇の意を受けて宗盛に送った文書に対する返信なのですが、そこには法皇が和平の使者を送ると言うから待っていた、そこに源氏が攻め掛かって来た、これは後白河法皇が巡らした謀略ではなかったのかと記されています。本当に法皇が平家を騙すつもりだったのかどうかは判りませんが、結果として平家が遅れを取った要因の一つになった事は確かな様です。
次郎と三郎が連れてきた鷲尾三郎とまごめの2人。平家物語では、もう少し後になって鵯越の手前の山道に入って道に迷った時に、弁慶が土地の猟師である老爺を見つけて連れてくるという設定になっています。そして、一ノ谷への道案内には老爺の足では無理であった事から、熊王と呼ばれていた老爺の息子が道案内を勤める事になります。その後、その功によって鷲尾三郎義久と名乗る事が許され、義経に従う一人となったのでした。まごめは、うつぼと同じく村上元三の「源義経」に出てくるオリジナルキャラクターです。
以下、明日に続きます。
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