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2005.07.26

義経 29

義経 第29回 「母の遺言」

京、範頼の宿所。鎌倉から戻った義経が、これから鎌倉に向かう範頼から、京都守護としての引き継ぎを受けています。義経はさっそく、訴訟の裁定、都の警護にと、多忙な日々を過ごす事になります。

鎌倉、大倉御所。義経に対する恩賞についての評定が開かれています。義経の戦功を評価し、相応の恩賞を与えてはどうかという側近に対し、都での評判があまりにも高すぎ、義経一人を持ち上げすぎている事を気に掛ける頼朝。

京、六条御所。頼朝が鎌倉に都を移そうと考えているらしいと聞き、警戒を強める後白河法皇。頼朝が国司にと推挙してきた名簿の中に義経の名が無い事を知り、兄弟の間に隙間が生じている事に気付きます。そして、頼朝に対する対抗策としてとして、義経を自らの側に取り込もうと謀ります。

一条長成邸。吉次が進物を持って訪れています。そのあいさつの席で、吉次は常磐が病の床に伏せっている事を知ります。

義経の宿所。吉次から、母の病の事を聞いた義経。見舞いに行くことを勧める吉次と静ですが、義経は母の言いつけを守り、見舞いには行かないと決めます。それを聞き、義経の代わりに常磐の下に薬草を届け、その様子を逐一義経に報告すると請け負う吉次。

屋島、平家の陣。都からやってきた亡き重盛の妻経子が、宗盛や時子達に、維盛が熊野の沖で入水して果てた事を知らせます。驚く一門の人々に経子は維盛が屋島を出た訳を聞きますが、維盛は誰にも言わずに屋島を去ったのでした。亡き兄に代わって、平家復興の為に戦うと誓う資盛と、屋島と彦島には平家の精鋭が揃っており、まだまだ負けた訳ではないと一門を励ます知盛。

京、六条御所。頼朝の推挙に基づき除目を行った法皇ですが、義経に対して何も沙汰が無い事に、公家達の間で同情の声が高まっていました。

義経の宿所。郎党達が、義経に何の沙汰も無い事に不満をぶちまけています。義経は、三種の神器も取り戻しておらず、戦はまだまだこれからだと彼らをなだめます。

屋島、平家の陣。時子の下に集まり、暗い海を眺めている平家の女人達。平家の血筋を絶やさぬ事が、我らの勤めと言う時子に、うなずく人々。領子が能子が産む子は源平どちらの血筋になるのかと皮肉を言いますが、能子は自分は平家の女であると堂々と言い切ります。それぞれの部屋に引き上げる女人達の中から、時子は明子一人を引き留めます。

時子は明子に、「頼朝の首を墓前に供えよ」という清盛の遺言は、自分が考えた偽りの遺言であったと打ち明けます。そして、これまで平家を襲い続けた不運は、自分の偽りに対する神仏の祟りではないかと苦しい胸の内を明かすのでした。これを聞いた明子は、今の平家は巻き返しを図ろうとしている大事な時であり、一門の結束の為にはあの遺言は必要である、今聞いた話は自分と時子の胸の内だけ納める事にしようと答えます。そして、それは清盛の言霊だったのだろうと言い、時子の気持ちを楽にしてやるのでした。
 
 
 

平維盛は、平家の都落ちに際して妻子を都に残して来ました。平家の先行きを案じ、都に残っていた方がまだ安全と判断したからでしたが、維盛の心は西海にあっても常に妻子の下にありました。その思いが募りに募って、屋島に着いた頃にはもはや戦いに参加出来る状態ではなかった様です。一ノ谷の戦いにも加わらず、明けても暮れても妻子の事ばかりを考え続け、遂には都を目指して屋島を出奔してしまったのでした。寿永3年3月15日の暁の事で、彼に付き従う者は家臣の与三郎兵衛重景と石童丸という童、そして武里という舎人の3人でした。

阿波国から紀伊国黒井の湊に渡った維盛は、そこから都に向かおうとしたのですが、ここで彼は叔父の重衡が生け捕りにされ鎌倉に連行された事を思い、それだけでも無念であるのに自分までが捕まる様な事があっては一門の恥の上塗りとなってしまうと考え直します。そこで都行きは諦め、高野山へと向かいました。高野山では、父重盛の旧知である滝口入道を訪ねたのですが、その時の維盛は、潮風に焼けて色黒く、やせ衰えて憔悴しきった姿になっており、かつて桜梅少将と呼ばれた面影はどこにも残っていませんでした。

彼は滝口入道に、身は西国にありながら心は常に都にある妻子の事を思い続けている事、時子や宗盛には、その思い悩む様子を不審がられ、頼朝に内通しているのではないかと疑われている事を告げ、もはや屋島には身の置き所もなく、出奔に及んだと懺悔します。そして、入道の手を借りて出家を遂げ、重景と石童丸もまた彼と供に出家したのでした。

出家となった維盛は、そこから滝口入道に伴われて熊野へと向かいます。熊野においても維盛は妻子の無事を祈り、自らは南海に果てる覚悟を固めて極楽往生を願いました。維盛を知る熊野の修行僧は、その変わり果てた姿を見て、皆涙に暮れたとあります。

無事に熊野詣を終えた維盛は、浜の宮というところから船に乗り、沖合の帆立島に立ち寄って、松の木の幹に自らの名跡を書き残します。そして、そこからさらに沖合を目指して船を進めました。しかし、いよいよ入水という間際になって、維盛に迷いが生じます。この期に及んでも維盛は、都の妻子の事が忘れられなかったのでした。この様子を見た滝口入道は哀れに思い、もはや入水を勧める気も無かったのですが、しかしあえて何気ない様子を作り、夫婦にも必ず別れる時が来る、出家を果たした維盛は極楽往生が出来る事は間違い無いと説き、天上において悟りを開いたなら、その時初めて都の妻子の下に戻られるが良いと諭してやります。ここに至って維盛は遂に安堵し、西方に向かって100編の念仏を唱えて、海に飛び込んだのでした。重景と石童丸もまた、これに続きます。

一人残った武里は、維盛の言いつけ通りに屋島に帰り、資盛に維盛から預かった手紙を渡しました。維盛の心の内を知った資盛は、共に熊野の沖で果てるのであったと嘆き悲しみ、その様子を見た宗盛と時子もまた、維盛は頼朝に内通したのでは無かったのかと悔やむのでした。


以下、明日に続きます。

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